内藤昭(ないとうあきら)は大映の中軸を担った美術監督であるが、自身の仕事を総覧するインタビュウ本で次のような発言をしている。「リアルだけで作ってもしょうがない。ある観念上のポイントを見つけなきゃいけない。ポイントというのは雑多なリアルなものの中で何を核にするかを見つけるということでね。一見リアルに見えながら、観念的な要素が入っているとか、観念的でありながらリアリティがあるとか、両方ですね。」(*1)
石井作品の背景とは、まさにこの一点を際立たせたものだ。リアルと観念の境界に築かれ、蜃気楼さながらにゆらめいては観客のまなざしを屈折させていく。また別の瞬間には霧となって澱(よど)み、本来在るべきものを視界から隠していく。不穏さと甘美さが入り混じった悪夢的な気性を具えている。
『甘い鞭』(2013)の地下空間やひび割れは、上の内藤の言を借りれば脚本の“ポイント”なり“核”をスタッフが咀嚼し、腹におさめ、血肉に育てて観客に示した物だ。深思(しんし)に値する舞台と思う。気持ちをもう少しだけ馳せたいし、そこまで拘泥しなければ往々にして石井の劇の肝となる“見えざる場処”へと到達することは難しい、とも考える。
少女(間宮夕貴)が引きずり込まれた際に、既に地下室の壁には異常がはっきりと見止められるのだった。十五年後には、それが壇蜜演じる主人公に憑依した夢魔のごとき物であるにせよ、崩壊が進んで漏水さえ起きている。ひび割れが側壁を貫通する程も生成なって、建築物として危険な水域に入ったことを暗に告げているのであったが、劇の当初からどう見ても“不自然”で硬い面持ちのへこみ様なのであった。一体全体、いかなる経緯をたどって“あれ”は産まれたものだろう。
想像力を働かせた末に浮上するのは、以下の三通りの景色である。
1.建設に当たって施主が設計を無視して、あのような亀裂を強引に作らせたのではないか。刀傷(かたなきず)を模したか、それとも女陰なのかは判らないが、奇妙でかさばる木型をあつらえ、枠板(わくいた)の向こうに打ちつけ、コンクリートを流し込み、養生(ようじょう)の後で壁から型を抜き取って完成させた特殊な“装飾”じゃなかったのか。側壁の厚みが全く不足しており、周辺土壌からの漏水が始まってしまう。装飾だったものは、いつしか本物の亀裂へと育っていく。
2.斜め方向に走っている事から、あれは“剪断(せんだん)ひび割れ”が元々あの位置に生じたものと推察される。建屋全体の荷重を支え切れなかったものか、それとも地滑りのような外部からの大きな圧力によって壁面に剪断(せんだん)力が作用したのだった。損傷や漏水が危惧され、湿潤型のエキポシ樹脂や超微粒子セメントなどで早々に塞ぐつもりだったのだろう、ひび割れに沿って劣化したコンクリートの表面をU字型にえぐり取ったのがあの異様なへこみであった。いよいよ充填材を詰め込む段になって何故か作業が中断してしまい、勢いを得た漏水は鉄骨とコンクリート素材を次々に劣化と膨張に追い込み、亀裂を押し拡げて行ったのではなかったか。
3.それ程重大な異変が生じていなかった壁面に対し、何者かの手により穴が穿(うが)たれていったのではないか。がつがつと壁を貫通するまで掘り進められてしまい、当然ながら漏水を招き、亀裂の幅と深さが拡がっていったのではなかったか。
いずれも身勝手な妄想に過ぎないが、仮定されるそれぞれの景色には共通点がある。「破壊」へと雪崩れ込む力だ。圧が高まり破裂寸前となった「狂おしさ、猛々しさ」だ。1.で思い描かれるのは戸主の常軌を逸した行動、内在する暴力志向、同居人を拒絶する暗黒願望といったもので、自身と家庭を内側から崩していく。2.で思い描かれるのは建物をねじ曲げ、ぺしゃんこにしようとする運命の潜在的且つ不可避な力である。住まう人間の心も身体も当然潰されていく。3.で思い描かれるのは孤立した魂が崩壊の際に発する雄叫びである。どれが正しいとか間違いではなくって、どれもが同じ色調で染め抜かれている点がここでは大事だろう。家屋と家庭の崩壊しつつあることを訴え、固く集束するところがある。
私たちは荒んだ監禁部屋を被害者であるおんな(檀蜜、間宮夕貴)の胸奥に居座る洞窟と捉えがちであるのだが、こうして考えてみれば誘拐犯である男の心象風景としても十分に成り立つ訳である。おんなの側から男側へと視座を移動して、『甘い鞭』という物語を眺め直す時間に私たちは踏み入っていかねばならない。
(*1):「映画美術の情念」 内藤昭 聞き手・東陽一 リトル・モア 1992 102頁
参考書籍:「徹底指南 ひび割れのないコンクリートのつくり方」 岩瀬文夫 岩瀬泰己 日経BP 2008、「長寿命化時代のコンクリート補修講座」 日経BP社 2010、「図解 コンクリートがわかる本」 永井達也 日本実業出版社 2002 「コンクリート技術用語辞典」 依田彰彦 彰国社 2007
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