2013年12月23日月曜日
“入獄の日月(にちげつ)”~『甘い鞭』の背景(5)~
視座をおんなの側から男へと移して、『甘い鞭』(2013)を眺め直すことも一興である。
『甘い鞭』で語り手は、誘拐犯である男の家族が不協和音を奏でている、いや、譜表(ふひょう)に終止線を引くようにして断絶した事実を明かすのだった。大石圭(おおいしけい)の原作(*1)でも、それは変わらない。家族の分裂と崩壊を招いた一因が自身の不甲斐なさ、能力の欠如にあると長男は捉えており、終始自責の念に襲われている。幾つか抜き書きしてみれば、男がどれ程の深傷を負っていたか解かるだろう。状況説明の域を越えている。くどくどとしく連なって木霊(こだま)を成し、執拗に物語を覆っていくのだった。
「かつて勤務医の夫妻が暮らしていた家で、数年前、母親が亡くなったあとは夫妻の長男がひとりで住んでいるはずだった。」(21-22)「勤務医だった彼の両親の仲はひどく悪く」[153]、長男は「3年連続で医大の試験に落ちてしまった。両親はひどく失望し、その直後に離婚した。」[173]「離婚によって夫が家を出て行き、残った妻が何年か前に病気で亡くなって」[106]いる。「外科の勤務医だった父が離婚によって家を出て行き、内科の勤務医だった母が病気で死んでから」[150-151]男は隣家の若い娘を誘拐し、地下室に監禁して自由にする邪まな夢を抱き、それを実行するのだったが、「眠るとすぐに夢を見た。もうとっくに死んだ母親の夢だった。」[372]
石井は上の文言を直接描写することなく、ナレーションにも極力盛り込まず、かどわかされた少女に角度と焦点を絞ったシンプルな構成としたのだったが、先の通りで地下室の荒廃ぶりは建屋の主(あるじ)の精神の座礁を如実に語るのだったし、劇中の幾つかの描写からはこの藤田赴夫(中野剛 なかのつよし)という男に関して石井が軽々しく捉えておらないどころか、実に丁寧に差配して劇への定着を図っているのが読み取れる。終幕で私たちは、ああ、この男は『ヌードの夜』(1993)の行方(なめかた)(根津甚八)と似た膨らみと色相を担わされている、と唐突に気付かされもするのだ。
何より中野剛という俳優の起用そのものが、石井隆という作家の柔らかな特性とまなざしを明瞭に示すのである。指こそ明瞭に差されてはいないが、『甘い鞭』をひも解く上で欠かせない最大の“異変”の横たわるのを見落としてはならない。
『甘い鞭』は誘拐と密室での監禁、終わりの見えない性暴力という陰惨なパーツを内包する劇であるから、「15歳の高校一年生」[19]であった被害者を演じ得る女優はそうそう見つからない。設定を17歳に底上げした上で20歳の壁を超えた間宮夕貴(まみやゆき)に演じさせて突破した訳だが、ならば対峙する藤田という男の年齢も多少のかさ上げなり“ぶれ”があっても構わない道理だ。されど、「30歳の無職の男」(22)をプロフィールに従えば40代中盤に差し掛かった中野が演ずることは、いかにも“不自然”な登用だろう。本来ならば、前作『フィギュアなあなた』(2013)の主人公を演じた柄本祐(えもとたすく)あたりを使って良いのだ。
武道で鍛え抜かれた中野の肢体はしなやかさと強靭さを纏い、実に見栄えのする外観を具えている。そこに惚れ込み、また、諸条件に照らして年齢には目をつぶったものだろうか。大石の原作の細かい部分を軽視して、結果的に「甘い鞭」という物語を石井は改悪したものだろうか。私たちは原作を同じく持つ『花と蛇』(2004)の“不自然さ”をここで思い返すべきだろう。あれだって原作では50代の田代一平が、映画では95歳という異常な設定となっていたではないか。
私見ではあるが、原作から映画『花と蛇』へ移行するにあたって生じた40余歳という段差は、連載が開始された昭和37年(1962)当時から映画公開までの歳月を計算し、加算したものだ。“未完”の原作世界が今もずるずると続いていたら、あの誘拐犯はどうなっているかしら、という一点から発想を膨らませている。石井は原作への献辞の意を込めると共に、人が人に執着することの陶酔、情欲の奈落、恋慕の地獄を語っている。
上梓されて数年しか経っていない大石の「甘い鞭」の場合、もちろん意味合いは違ってくるのだが、深慮が働いて地平が捩じ曲げられたのは違いない。「3年連続で医大の試験に落ちて、両親はその直後に離婚し」、「残った母が何年か前に病気で亡くなって」しまい、気付けば「30歳の無職」の身になっているのでなくって、なんと映画での藤田という男は40代の中盤まで幽閉に等しい酷(むご)い扱いを受けていた訳である。原作の時間軸は創り手のまなざしに応えて一気に軟らかさを増し、引き伸ばされ、十年以上の空白の歳月が真っ赤な口を開いて男を呑み込んでいる。
(だからこそ地下室は黒かびに覆い尽くされもしたのだ。だからこそ、貯金は底を尽き、原作にはいた家政婦も存在感を消し、娘のために差し出した一個の林檎も貧相な安物となったのだ。季節外れとはいえ、あんな果物を買い求めるしかなかった男の懐具合は推して知るべしだろう。籠城に限界が迫り来ている。)
脱出の際に男を殺めてしまったことで17歳の奈緒子は呪縛され、家族はそれをきっかけに崩壊し、15年もの間ずっと迷走を続けている。背中や尻を何ら事情を知らぬ倶楽部の客に鞭打たせ、その中で自問自答して過ごすのだったが、その歳月と同じ厚みと長さの時間“15年もの間”が石井の手により藤田という男に付与され、彼を記憶に縛り付け、傷めつけている。修羅の坩堝(るつぼ)に蹴落とされたのは奈緒子というおんなだけでなくって、藤田も同様なのだった。どちらかと言えば添え物に近かった冷徹な男は息を吹き返して、“取り残された地獄”を延延と味わうのである。(壁の傷は母親の介護と死に耐え切れず、男が黙々と狂気の瞳で穿ったものではなかったか。その幻影を透視し得たとき、物語全体の色相は本来の石井らしいメロドラマへと転じるのではないか。)(*2)
ひとを殺めて(ひとを失って)、15年近い年数を経てもなお幽閉は続いていく。もしかしたら自身の心拍が停止するまで喪失感は霞むことなく、ありありと遠い記憶は再現されて頭と心を責め苛むのではないか。人の誰もを“別れ”が襲うが、切れ目なくその後に連なる“入獄”の厳しさをこそ『甘い鞭』は訴えて見える。
(*1):「甘い鞭」 大石圭 角川ホラー文庫 2009 括弧内は引用頁数
(*2):地下室を支点として両翼に、ひとりのおんなとひとりの男は同等の比重で配置された。名美と村木にも似た内実をようやく蓄え、互いをどこか似た者同士と視止め合い、石井世界らしい微妙な間合いを形成するのだった。
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