2013年12月14日土曜日
“在り続ける場処”~『甘い鞭』の背景(3)~
石井隆は小説「甘い鞭」の映画化にあたって、“快適さ”の徹底的な排除に努めた。舞台となる地下室を無明の地獄に変えるために、石井と彼のスタッフは全方位に目を配り尽力したのだった。壁を“黒かび”だらけにし、“食べもの”をほとんど与えず、口にふくんだ“おじや”すら少女に嘔吐させ、鎖を付けて閉じ込め、歩行を制限し、湯浴みを禁じ、モニター脇に積み上げられたテープは笑いを誘うコメディ映画ではなく、暴行の顛末を写し取った無残この上ないものだった。
ひときわ目をひく巨大な“ひび割れ”も、多分不快感を煽る目的から登用されたのだろう。原作の青年も映画での誘拐犯も体調を崩して悪寒に震える娘に果物を擂(す)ってその汁を与えたりするのだったが、大きく“ひび”の走った映画『甘い鞭』(2013)での壁は暴力的な印象をどこまでも強めて、男が発するかいがいしさや優しさを見止める心の流れを堰き止めるのだった。所詮は子供じみた偏愛じゃないか、捕えた虫を金魚鉢やプラスチックケースに押し込める行為、つまりはひと夏に限って愛でる程度の“飼い殺し”に過ぎない、と娘は勘付いたろうし、私たち観客にもそう予感させ導く力があの“ひび”の凶悪な面相にはあった。
ウェブおよび誌面での論評では、女陰を形づくったものとの見方が多い。なるほど、歳月を経て横幅をひろげ奥行きも増している。崩れた部分はわさわさした細かい“ひだ”を生成しているし、地下水が滲(し)み出てじゅわんと湿った面持ちは確かに熟(う)れた女陰そのものであったから、丹念に模したものであることは否定しようがない。
旬のおんなふたりを銀幕に引き込み、素裸にするエロティックな作品である。淫靡さや猥雑さをとことん匂わす仕掛けとして彫りこまれた面もあったろうが、十代の奈緒子(間宮夕貴)から三十代の奈緒子(壇蜜)への身体変化に呼応して壁の亀裂が“不自然に変貌した”ことは、現実と魂の境界を曖昧にし、分離と融合を繰り返す石井隆らしい背景描写と言えるだろう。破壊的な印象と官能的な面影を同居させる荒技(あらわざ)も石井らしいものであって、その勢いのある仕事ぶりにはただただ舌を巻くばかりだ。
さて、この亀裂はさらに沢山の事を私たちに囁くように思う。穴が深まりひだひだが拡大しているのは空気中の酸素や塩素イオンが内部に浸透して、鉄筋などの鋼材の表面に届き、腐食し膨張すると共にコンクリート素材もまた膨張して剥離を起こしている事を表現している。血なまぐさい事件の発生から経過してしまった十五年という長い年数を、浸食が進んで傷口を広げた壁は雄弁に語ってみせる訳なのだが、よくよく考えればこれもまた“不自然”なことなのだ。
私たちの国民性に限ったことではないかもしれないが、災いが身近に降りかかった際にその場処を清め、はたまた排除することに対して人は如才なく、実に迅速に動くものである。私の住まうところから歩いて五分もかからぬ住宅で火事があり、ふたりの幼子が可哀想に亡くなっている。半焼した建物は程なく解体処分され、無愛想な更地となって新たな利用者を待つようになり、確かそれから二年程を経て県外から来たらしい若い夫婦に買われたのではなかったか。今その前を通るとこじんまりした柔らかな風合の家が建っており、家庭の放つ暖かな波動をこちらに返して来る。こんな田舎町ですらこの調子であるから、都会の一等地ではその“無かったことにする流れ”は押し止めることなど出来はしないだろう。
貪欲な商魂は禍(わざわい)にまみれた土地といえども躊躇せず、重機を押し込み、叩き砕き、掘り返して砂利を放り込み、平地にしてしまう。ほとぼりが冷めた頃を見計らって「売地」の看板が立てられ、不動産会社のネットワークに情報が駆け巡り、複数の買い手が現れて商談が重ねられ、やがてそのひとつが成立してしまうものだ。神主が呼ばれて祓(はら)い清められ、惨劇は遂に“無かったこと”になる。あの家だって、あの部屋だってそうなったはずである。
亀裂が拡がるだけでなく、天井付近には蜘蛛が巣を張っているのが認められる十五年後の荒廃を極めた監禁部屋というものは、だから“物語上の光景”として有り得ないものではなかったか。漏水によって濡れた女陰状の“ひび”であったが、よくよく目を凝らせばこれも“不自然”な感じを与えていて、それはその艶(つや)に起因するのだった。コンクリート中の水酸化カルシウムが水とともに表面に溶け出し、空気中の炭酸ガスと化合して白華(エフロレッセンス)と呼ぶ白い結晶が生成されるものだが、それが一切見当たらない。現実感が微妙に損なわれている。
存在するとすれば、それは主人公の内部にしかない。十五年の歳月を経て、さらに凶々(まがまが)しさを増長させた部屋が奈緒子というおんなの心に“だけ”、くっきりと像を成して在り続けていることを石井は教えているのである。私たちは着地点を見い出せずに浮遊し続ける被害者の内側にいつしか獲り込まれて、その魂の諸相に直に触れている。人が人を傷付ること、殺めることを“無かったことになど出来るはずがない”という石井の人生観と性犯罪に対する妥協ない憎悪が刻まれた秀抜なカットであったと捉えている。
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