2013年12月3日火曜日
“嚥下し得ぬもの”~『甘い鞭』の背景(2)~
大石圭(おおいしけい)の原作小説と石井隆の手になる映画最新作。両者の間には当然ながら、異相がいくつも見つかるのだった。中でも興味を覚えたものは“食物”をめぐる描写である。小説と比して石井の脚本では、登場回数が極端にしぼり込まれていた。
上映時間の制約で泣く泣く割愛したものだろうか。まさか、そんなはずはなかろう。刃先を入れ、皿に盛られて食卓に供されたものだけを私たちは観ているのであって、取捨選択の道程では石井独自のまなざしが注がれ、意味あって今の姿に落ち着いたはずなのだ。ナプキンを置きテーブルを離れ、思い切って厨房を覗いてみよう。まな板脇に取り残された食材にこそ、私たちは目を凝らす必要がありはしないか、そこまでしてようやくこの『甘い鞭』(2013)を存分に食したことになりはしないか。シェフ役の石井の手腕を推しはかるには、そんな無作法も時に大事かと思う。
一ヶ月間に渡る監禁生活を描く上で、大石は実に多彩な“食べたいもの”を少女の元へと運ぶのだった。先日と同様に単行本「甘い鞭」第15版(*1)から引いていくと、「男は毎日、朝と夜に、トレイに載せた食事を地下室に運んで来た。朝はいつもトーストと、たくさんの野菜が入った透き通ったスープ、それにバナナやパイナップルなどの果物だった。夜はたいてい、男の手作りの料理だった」[172]とまず説明が為される。食材のテクスチャーが口腔に再現され、これだけでも膨満感を抱かせるのに十分だ。
続いて作者は夕食について、その具体名を次々に連ねて読者の鼻腔と胃袋を刺激する。「鰻重(うなじゅう)」[172]、「握り寿司」[同]、「とんかつ」[同]、「餃子(ギョーザ)と焼売(シューマイ)」[同]、「八宝菜」[245]、「ビーフシチュー」[246]、「石川精肉店のいちばん高いお肉」の「ステーキ」[267]、「冷たい(飲み)物」と「ポテトチップやポップコーン」[269]、「コーラ」[291]。客人をもてなす饗膳(きょうぜん)に等しい、過ぎた量目とカロリーになっている。少女が風邪をひいた際には、病人食が準備されもした。「擦り下ろしたリンゴをガーゼで絞り、その果汁をスプーンでわたしの口に運んだ。それはヒリヒリと喉に染みたけれど、よく冷えていて、とてもおいしかった。」[316]
“とてもおいしかった”と、少女は思ったのである。日毎夜毎に繰り返される性暴力に満身創痍となりながら、驚いたことに“とてもおいしい”という感覚が湧き起こるのだった。いつしか細い身体の奥の方で、それはそれ、これはこれ、と男の言動がふるい分けられていくのが何とも不思議である。この手の事件にも小説にも決して明るくはないのだが、何冊かのレイプ被害を主題とするノンフィクションは読んでいる。以来、被害者の慟哭と怨嗟、そして底無しの惨痛(さんつう)とがゆらゆらと自分の周りを浮遊し続けてどうにも振り払えずにいて、それに照らせば、“よく冷えていて、とてもおいしかった”という「甘い鞭」の独白はずいぶんと呑気に感じられたものだった。
あまつさえ原作では「少女のために映画やドラマやアニメのビデオ」が「たくさん借りて」[270]来られ、「音楽のCDもせっせと買い与え」[同]られるのだし、「家の中を毎日、散歩したいという少女の要求にも応じたし」[同]、「とても広くて、とても清潔」、「湯船もとても大きかったから、両脚をいっぱいに伸ばして湯に漬かることができた」[307]、そんな「浴室で入浴したいという要求にも応じた」[270]ことにより、最終的には「確かに不自由ではあったけれど、あの地下室で、わたしは観たいテレビやビデオを観、聴きたい音楽を聴き、読みたい雑誌や本やマンガを読み、食べたいものを食べ、眠りたいだけ眠り、性交の相手を務める以外には何もしないでいられた」[275]とまで、十五年後のおんなに述懐させてしまう。
「観ていた映画がとてもバカバカしいコメディ」[330]で少女は“笑い声”さえ立てるのである。そうして、「甲斐甲斐しく掃除を続ける男の姿を眺めているうちに、さっきまでわたしの中に燃え盛っていた怒りと憎しみは、夏の朝の霧のように急速に薄れていった」[422]とまで言わせている。
もちろん人の感情は複雑に入り組んだものであって、色画用紙のように平坦でもなければ単色でもない。たとえば先の震災で電気が完全に絶たれてしまったあの夜、空を埋め尽くした星々を見て美しく感じなかった人はおらないだろう。考えてみれば酷い話ではないか。何千もの命が波にさらわれたのだ。親しい者の名を声を限りに叫んでは夜通し歩いた人だっていたろうに、一時とはいえそれを忘れ、わたしは天河(てんが)を振り仰いでしまった。あの輝きに見惚れてしまった。
胸の奥に多面体の魂を潜ませて共に歩む以上、時には紋切り型の反応とは違う、思いもよらぬ反射光をぎらつかせるのが人間だろうから、「甘い鞭」の原作世界で十五歳の少女が“とてもおいしかった”、“怒りと憎しみは霧散した”と語ったとしても、それを否定する術(すべ)を私たちは持たない。そういう事もあったかもしれないと目線を落とし、言に向けて掌(てのひら)を差し出すしか道はない。そもそも小説家という職業は、紋切り型の思考に囚われた読者にむけて予想を超えた筋や台詞をひり出して吃驚させる役回りであるから、この奇妙な回想だって実は作為的な混沌なり脱線である可能性が大いにある。いちいち考えては切りがないだろう。
が、けれども、それをバトンリレーされた石井隆は果たしてどう受け止めたものだろう。残酷な性暴力の時間を最終的に享受してしまう少女にならい、自らもそれはそれ、これはこれと考え、混沌もろとも物語を嚥下(えんげ)して見せただろうか。
高熱を発した末に「卵を溶き入れた熱いおじや」[316]を「母親から離乳食を与えられる子供のように、口の中に入れられ」[317]、それを呑み込んでいくのが原作の少女であったが、石井は少女役の間宮夕貴(まみやゆき)に対し、自身の細い指を口奥に突っ込み、上舌(うわじた)を強く刺激して呑みかけのおじやを嘔吐し、それを吐き散らすという無残この上ない演技を振ってみせたのだった。
脱出の機会をうかがう少女が武器を入手する目的で為した捨て身の演技、という伏線が張られていたにせよ、原作で給された山盛りの“食べもの”のほとんど全てを捨て去り、わずかに選ばれたものすら一瞬後には吐瀉物に変えて押し返してみせた石井の演出と映画『甘い鞭』での奈緒子の造形には、明確な意志が添えられている。
“食べもの”程度では人の罪はぬぐえるものではなく、隔たった魂の距離が縮まるはずはない。怒りと憎しみがそんなもので霧散などされてたまるものか、という石井らしい頑なな倫理観が噴出した瞬間だった。サボタージュの一環であるから、指を突っ込む少女は誘拐犯に対して背を向けており、銀幕越しにこちらに向かって、つまりは私たち観客に向けて嘔吐は実行されている。劇中の犯人への抵抗の意を示すに止まらず、苛烈きわまる飛沫(しぶき)をもろに浴びせ掛けることにより、強姦劇の顛末を興味本位で見守る私たち男の馬鹿げた夢想の芽をも、石井は叩き潰そうとして見える。
(*1):「甘い鞭」 大石圭 角川ホラー文庫 2009 括弧内は引用頁数
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