(以下の文章は物語の結末に触れています)
“生”と“死”とは円環を成しており、分かつ垣根はないに等しい。職場での商談室や酒舗で隣り合った同士が挨拶を交わすようにして、いずれ私たちは気負いなく死者たちと膝をまじえ、おだやかに会話を始めるのではないか。石井隆の近作『フィギュアなあなた』(2013)を観終わって、そんな想像を連ねた。柄本祐(えもとたすく)と佐々木心音(ここね)、生者と死者の若いふたりは紆余曲折を経て融合を果たして見えたから、それはひとつの勝利とさえ呼べそうだ。
けれど同時に、どこか噛み合わせの悪さが感じられて仕方がない。これまで石井は人間に巣食う禍禍(まがまが)しき物、日常を浸していく無限の欲望や、手綱を操れず、逆に自分の方が無様に引きずられてしまう恋情という悍馬(かんば)、幸福感と絶望とが戸板返しの要領で突如入れ替わっていく非情さ、切なさといったものをこつこつと刻み続け、独自の大伽藍(がらん)を形成してきた。その多層にして荘厳な構造体の一部として『フィギュアなあなた』を捉えたとき、上に書いた程度の一種平和な割り切り方で果たして通用するものかどうか。『フィギュアなあなた』とは何かを探るだけでなく“石井世界”とは何なのか、といった俯瞰した目線で眺めなければいけない気がする。
物語の真相は既に本人の口で明かされており、それは前述の「キネマ旬報」誌のインタビュウ中であったから秘密でも何でもなく公然の事実となっている。書き写せばこうある。「今回は青年のほんの一瞬の夢想、車にはねられる寸前からドサッと地面に落ちて息絶えるまでの、最後に見るもの、最後に聞く音ってなんだろう……それが撮れないだろうかと思った」(*1) 知られたところで大勢に影響はないと、石井としても興行サイドにしても踏んだのだろう。
二度目の観賞を経たことで映画の場景がつぶさに思い出されることもあって、ざわつきは倍化している。不穏な渦巻きの中心にあるのは、鮮やか過ぎるひとつの景色だ。同様に首をかしげた人もいたはずだが、劇の佳境で違和感を抱かせる場面が“一瞬だけ”挿入されており、それは若者が道路を横断中、けたたましいブレーキ音で振り返って見止めた光景なのであった。「シナリオ」誌に収められた台本採録から抜粋すると以下のようなくだりであった。
「驚いた内山が自分の背後を振り返る。内山の直ぐ後ろに、一人の若い女性が内山を追うようにして大通りを渡ろうとしていて、走って来たトラックを見て、固まっている。(中略)その女性の顔を見て内山が驚く。ココネだ。若い女性がトラックのヘッドライトを浴びて固まっている。(中略)内山が咄嗟にその女性を庇うように抱きつく。ブレーキの音とタイヤの軋む音。クラクション!トラックのヘッドライトがグン!と迫り、(中略)内山とココネにそっくりな女の引きつる顔がヘッドライトで真っ白になり──。」(*3)
どうして“ココネにそっくりの若い女性”が登場するのだろう。おいおい、それがどうした、この映画は最初から支離滅裂なところばかりじゃないか、何も不思議はないよ、若者の窮状を見るに見かねた人形が意識を持ち、歩き始め、語り掛け、遂には添い寝まで成し遂げている訳だから、その延長でしかないじゃないか。若者が心配でたまらぬ人形は、ベランダから外へと飛び降りて後を追い、その挙句に事故に遭ったと考えたら良いじゃないか。だいたい夢か現(うつつ)なのか皆目判らぬ劇なのだから、車道に飛び出した若い女性にしたって単なる幻覚かもしれないし。
それでも構わないと作者は思っているに違いないが、おそらくは、次のような現実こそが想い描かれてあったのだ。若者が道路を横断していく後ろ姿につられて、若い女性(人形ではない)は左右を十分に確認することなく足を踏み出したのだ。名は何といい、どんな性格か、どのような境遇に置かれてあるのか、何を望んで生きてきたのか、ほか一切を含めて読み解く術はない。時間は残されていなかったのである。迫る車の巨体と耳をつんざく警笛に足がすくみ、慌てて駆け寄ってくれた若者と顔を見合わせた瞬間、鋼鉄の塊(かたまり)がふたりの身体に接触した。
薄れゆく意識の奥で若者は、ここ数週間の“見たこと”を反芻する。泥酔の果てに廃棄されたマネキン人形を“見つけて”持ち帰ったときもあった。ヤクザ者と肩がぶつかり、怖い目を“見た”夜もあった。そこに先ほど“見合った”若い女性の顔と瞳が溶け合っていき、生命を吹き込まれた不思議な人形との出逢いの物語『フィギュアなあなた』の精製が開始されたのだろう。唖然としてしまうのだが、冒頭から幕引きまでのその多く、徹頭徹尾とまでは言わないけれど、ほとんどが石井の言う「青年のほんの一瞬の夢想」であった可能性が高い。
夜明け前の屋上で煙雨に染まった空を軽やかに飛んでみせた人形であったが、実際はどうであったかと言えば、突進してきた鉄の壁にもんどり打ってそのまま黒いアスファルト上を滑空したのであり、まるで飛翔して“見えただろう”その若い女性の姿を若者はおのれの網膜にしかと定着させたのだ。混濁する意識のなかで、だから、それだからこそ、フィギュアは空を飛ぶのだろう。屋上に、トンと着地して見せた人形は衣装も笑顔も艶やかであったけれど、実際ははげしく地面に叩きつけられ、頭骨や背骨、肋骨なんかがみしみしと砕ける音と、血管が破れて生温かいものが流れていくを遠くの方で感じながら、ぼろきれとなって横たわったに違いないのだ。まぶたを人形のようにかっと見開いて、しかし、もはやそこには現世の何ものも映じていない。私たちが見守った銀幕の裏側では、そんな悲痛な時間がかちりかちりと刻まれて有ったのじゃないか。
そうして見れば『フィギュアなあなた』とは、実にシビアな物語だ。生者と死者との邂逅、ひとつの勝利などと暢気(のんき)に構えていた私であったが、死に臨むということはそんな奇麗ごとではない。肉体が破壊されていくことの納得しがたい哀しみ、生命の焔(ほむら)が消失することの重みが眼前に黒々と立ちはだかって来る。
上記の推測、“秘匿された轢殺の場景”を起点として劇の全てが築かれてあったと考える理由は、そうであるならば石井のタナトス四部作の一篇、電車に轢かれた瀕死の名美が霞んでいく意識の奥で瓦礫の町をさまよってみせた【赤い眩暈】(1980)と面立ちが瓜二つとなる(*4)からだし、現実は一瞬間だけ描かれ、そこ以外は主人公静子(杉本彩)の記憶と狂気とがまぐわって産み落とした音と光とによって埋められた『花と蛇』(2004)の酷烈な構造(*5)と一致するからだ。当作を石井の新境地、別世界と捉える向きもあるが、その印象は“画角の違い”に由るだけであって、フレーム外に置かれ、裏側へと折り込まれてあるものは変わらぬ景色なのである。ここに至って『フィギュアなあなた』は石井の大伽藍に吸い込まれ、たちまち輪郭を溶かして一体となっていく。
【赤い眩暈】と『花と蛇』二作のヒロインに与えられた役目は“内なる地獄”を凝視め続けることであり、かろうじて救済(らしきもの)があるとすれば“永劫にたゆたうこと”にあった。その川下に位置する『フィギュアなあなた』をこれに照らせば、自ずと明るさを減じていくのだし、闇の侵食は逆に勢い付いて物語の端々を塗り固めて行きはしないか。“見えないもの、見せないもの”を真摯なまなざしで透かし見すれば、酷薄さが型押しされて銀幕からぶわりと浮き出し、私たち観客の心胆を鷲づかみにして悲鳴へと導くのである。
上っ面を眺めただけで分かったつもりになって無責任にうそぶく私に対し、石井映画は微笑みつつ先を歩いてゆくのだが、しばらくすると赫然(かくぜん)と振り返って猛烈な平手打ちを喰らわせてくる。安易な期待、甘ったるい希望的観測を頑強で尖った靴の踵(かかと)でがしがしと踏みしだき圧砕するのである。これこそが石井世界の惨たらしさ、烈しさである。油断しては決してならぬ間合いと切っ先であることを、あらためて了解して血の気が引く思いでいる。
(*1):「キネマ旬報 2013年6月下旬号 No.1639」38─39頁
(*2): 同40頁
(*3):「シナリオ 2013年8月号」 112─113頁
(*4):絶命寸前となった若い女性もまた何かしらを幻視したと仮定すれば、極端な話、『フィギュアなあなた』とは若者のものでは最初からなく、若い女性の内部で一から十まで築かれた城塞であった、と言えなくもない訳だし、もしかしたら死に至る両者の暴走する意識を編み手の石井が交互に丹念に綾織ったものかもしれぬ。石井の「そっくり取り替えた物語」とは、そういう可能性さえ指すのだろう。“怖ろしいもの”を見せつけられた、とつくづく思う。
(*5): http://mixi.jp/view_diary.pl?id=153959433&owner_id=3993869
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