2013年10月5日土曜日

“たどり着いた神話”~『フィギュアなあなた]を再見して~


 石井隆の作品は一度きりでは容易に呑み込めないことも多いから、間をおいての再見が欠かせない。近作『フィギュアなあなた』(2013)もそういう訳で、映画館に足を運んで観直している。次の観賞時には黙って劇場を後にすると以前書いたのだったが、それを早々に破って言葉を接ごうしている。我ながら節操なくみっともない気がするのだけど、どうしても想いが爆(は)ぜる。

  既に識者の手で方々に書かれてあるし、石井本人がインタビュウ(*1)で語っている通りなのだが、『フィギュアなあなた』とはマネキン人形をめぐる単なる妄想劇ではなくって、死者との邂逅こそが重点的に描かれている。原作となった石井の短篇(*2)は至極あっさりしたもので、失意の若者が廃棄されていたマネキン人形を見止め、自宅に持ち帰って共同生活をしながら希望を手探りしていく内容の短編であった。それが忠実に映像化されていたならば、人形譚の血筋として小奇麗に仕上がっていた事だろう。映画は混沌としているしお世辞にも小奇麗とは言いがたい。尺合わせの目的も多少はあったかしれないが、若者がマネキンの入手するに至る経緯を執拗に、粘性を持って描いていくのだった。

  劇中、佐々木心音(ここね)が埋もれていた膨大なマネキン人形の堆積について、映画は台詞や描写によって幾度もヒントを刻んで見せて、これはひとつひとつが死者なんだよ、元々は息をしていた人間のなれの果てなんだよ、と伝えていた。石井が(自作であれ、他人のものであれ)原作を創作の骨格として取り込み、映画として自立なるよう肉付けを図る際には、決まって差し加えた部分が能弁さを増して観客に強く訴えかけてくるものであって、私たちは彼の創造の意図を常にそのはみ出した肉ひだの部分にこそ読み解くべきなのだが、『フィギュアなあなた』においての肉ひだはまさにこれであろう。

  ここで思い出すべきは、『GONIN』(1995)を最新の画像処理でリストアしてみせたDVD(*3)のジャケット画である。石井自身の筆で描かれた本木雅弘の、雨にうたれながら疾走する姿であった。愛する者を失った男がその遺品であるコートを羽織り、懐に拳銃を握って、闇を切り裂き仇に向かっていくクライマックスの場面を再現した絵である。着目すべきはそのコートの肩あたりに蒼白い尾を引いて人魂(ひとだま)が寄り添っていることだ。『GONIN』のフィルムのコマにコンピューターグラフィックや多重露光で光球が最初から加えられたわけではなく、石井が映画公開から12年を経て、“見せざるもの、想いを密かに託したもの”をそっと視覚化して見せた結果である。コートという“物質”に“亡者のまなざし”がしっかりと宿っている、そのような想いと死生観が如実に語られている。

  佐々木心音が演じたのは確かにマネキン人形であったわけで、それはその通りなのだが、あれもまた死者の魂が浸入した依代(よりしろ)として登用されたと見て良いのだろう。魂の交流をこそ、語らなければならない。もはや『フィギュアなあなた』を語る上で“人形”は、まったく度外視しても構わないように思う。

  さて、亡霊である女性と生者との情愛なり秘め事というものは古今東西のお話で扱われたものであるから、そのように『フィギュアなあなた』を見てしまえば決して珍しくはないだろう。しかし、実際のところ物語は面妖この上ない展開へといざなって私たちを戸惑わせるのだった。柄本祐と佐々木心音の演ずる男女は面識を持っておらず、劇の中盤でようやく“出逢っている”。これはあまり見ない形ではなかろうか。通常生者と死者は“再会を果たす、果たそうとする”ものではなかろうか。

  黄泉国(よもつくに)に伊邪那美(いざなみ)を探す伊弉諾(いざなぎ)であったり、妻エウリュディケを冥界から連れ戻そうとするオルフェウス、夜な夜な牡丹灯籠を手にして浪人萩原新三郎のもとに通いつめるお露もそうであるが、生死の境界をまたいで成立する逢瀬というのは生命ある間に燃え盛った恋慕の念が埋め火となって残留し続け、やがてその熱が野火のごとく赤赤と連なり広がっていく、そんな“人の追憶のどうしようもなさ、はげしさ”に頼っている。

  柄本演じる若者は職場の同僚である娘(間宮夕貴)にかねてから心を奪われており、泥酔した末に彼女との情交を夢に見るほどだ。登場人物のひとりの台詞から探れば、在りし日の面立ちを写し置くのがあの山となった人形の群れのどうやら特徴であるようだから、その中に置かれてあった人形心音(ここね)の生前の目鼻立ちは今と寸分違わないはずなのだが、その出現に対して若者は目を白黒させるばかりなのであった。男のなかには心音(ここね)を慕い、追尾しようとする気負いは見当たらない。もしかしたらおんなの方に何かあるのだろうか。私たち観客の見つめる銀幕の枠をこえた場処で、おんなは若者の日常を物陰からそっとうかがっていて、牡丹灯篭の娘のように恋い慕ったまま死んだのかもしれない、なんて無理に想像を膨らませてもみたが、出逢った当初の人形の若者へ向けられたまなざしには昏く沈んだ色調ばかりがあって、念願叶って再会できたことの歓喜はどうしても見出せない。ふたりは初対面であったと捉えて構わないように思う。

  一方は生の苦闘にさいなまれ、一方は停滞した死のなかで横たわっている。そのふたつが出逢い、そこで声を交わし身体を重ねていく。生と死を分かつ深淵を橋渡しするはずの灼熱の恋情を互いに持たぬまま、見ず知らずの者同士がゆるりと身を寄せ合っていく展開は私たちに馴染みがないだけにカタルシスが生じにくい。なんなの、どうしちゃったの、と混乱の渦がどうしても生じるし、こりゃ妄想だな、夢落ちだな、と早合点する流れも仕方のないことだ。

  けれど、私みたいな天邪鬼には、そして石井隆の仕事を見つめ続けて来た者の目には“吹っ切れたもの”が映って見えるし、視野が広がるような爽快さもあるのだった。季節が二巡し“311”から時間を経ている。この特別の月日を振り返ったとき、ひと握りの作家たちが時局に真向かい多様な表現手段で自らの記憶や感懐を線に刻み、形に成そうと試みた事実が思い起こされる。世間から注目を浴びたものもあれば、まるで無反応に終わったものもある。琴線に触れるものもあれば、眉をひそめてしまう無遠慮なものもある。すべてが成功しているとは言い難いが、災厄の大きさからすればどれもが意味のある大切な行為と形ではなかったかとわたしは思う。

  この特別の時期に石井は何を語るだろう、どのように物語を紡(つむ)ぐだろうと気にしていたところが私にはあったのだ。石井が生まれ育った町は海岸からかなり離れているから大きな被害はこうむっていないけれど、それでも報道を注視し、親族や知人と言葉を交わしながら事態をはらはらして見守ったに違いない。夏ともなれば足を伸ばしただろう浜辺は、建物や数限りない車の残骸で埋まりもしたろう。たくさんの人が不意を突かれて、愛しいひとに別れを告げることなく亡くなり、いまだに多くの人が行方知らずでどのような形であれ帰ることが許されていない。

  石井の作風は政治や世相(固有的なもの)の描写を巧妙に避け、人間が生きて死んでいく上での普遍的な苦しみや哀しみを突きつめることに注力してきたから、この天災なり人災について直接的に取り上げることは最初から有り得ないのであるが、これほどの死と哀しみが降りかかった生まれ故郷を面前にして特別なこと、一時的なこと、巨視的で自分のドラマには馴染まないこととして捨て置くことはさすがに出来ないのではないかと思ったし、何かしらの“手向け”があってしかるべきではないかと感じて、この宮城県仙台市に生まれ育った作家をずっと見守ってきた。

 『フィギュアなあなた』と震災とは線を結ぶことはないから、身勝手な感懐に過ぎぬ訳なのだが、銀幕で交差する生者と死者、柄本と佐々木との魂の交感を目にしながら、石井隆が“死”について存分に語っていると思い、劇中で広げられたその死生観を素直に受け止めることが出来れば随分と楽だろうとも思った。

  柄本祐が死者たちと出逢うための試練として、仕事上の失敗があり、失意があり、暴力があり、怪我がある(、そして死がある)。それら全てが負の方向への急速な傾斜であって、生命のきらめきや力、生産性とは真逆のものであった。そのような冷え切った身体と気持ちであるにもかかわらず、死者は待っていてくれるのであり、さらには新たな出逢いさえ起こると『フィギュアなあなた』はささやくのだった。

  生と死の汀(みぎわ)に佇み、向こう側に渡るという事は、限られた力ある者に起きる特別なことではない。気が遠くなる階段やけわしい坂を上り下りする健脚も不要なら、手を引く道案内と足もとを照らす灯かりもいらない。強靭で不屈の意志も必要ではない。傷つき、苦しむ誰の身にも、そして老いていく身にも必ず出逢いは待っているとささやいている。道は閉じられない、きっと拓けると諭すのだった。目を細めれば、耳をすませば、あちらこちらの“物質”に“人のまなざし”が既に見止められ、会話だって何だって今すぐに可能になるとささやくのだった。生と死はなめらかに溶け合って、連環を開始する。

  石井自身がようやく手にした達観でもあるのだろう。今この世界に生き続ける私たちにとって反芻するに値する、実のそなわった言葉が投げ掛けられたと思っている。


(*1):「キネマ旬報 2013年6月下旬号 No.1639」
(*2):【無口なあなた】 初出「ヤングコミック」1992
(*3): DVD「GONINコンプリートボックス」 2007 松竹

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