若者(柄本祐 えもとたすく)と廃墟ビルから拾われてきた等身大フィギュア(佐々木心音 ささきここね)とのほろ苦い同棲模様を描く一端として、『フィギュアなあなた』(2013)にはシャワーシーンが挿し込まれている。狭いブースに押し合うように立ち、硬直して動かぬフィギュアを男が一方的に洗い清めていくのだった。フィギュアの肩から足先をシャボンの白い泡が薄っすらと覆っており、男は柔らかい声で言葉を投げ掛けながらその表皮を撫ぜていく。
胸の奥にたたずむ羽根車に風を吹き込み、からころと回してはエロティックな夢想へ手引きする役目がある種の映画には担わされていて、『フィギュアなあなた』もどうやらその範疇に含まれる。豊かな乳房やくびれた腰、ふんわりとふくらんだ腹などが大きく舐めるように映されていくのだったし、男の手の甲と長い指先がさわさわと滑り降り、やがて谷間に入って奥を探る気配であって、私たちの瞳は自然と銀幕に縫いつけられてしまうのだった。
恋慕う相手と共に浴室に入って肌を撫ぜてみたり、湯をほとばしらせて洗い清めることは誰にとっても嬉しい行為だ。もたらされる五感のときめきは原初的な悦びと直結しているから、柄本演じる若者だって手ごたえのある快感を得たに違いない。視覚と触覚をいたく刺激するこの浴室の情景は、だから裸を見せたいだけなのだ、扇情目的なのだ、と割り切るのが当然と言えば当然だろう。
それはそれで結構なのだけど、石井の映画というのは熟考をうながし違った角度の意見を受容する力がそなわっている。別な視方はないだろうか。私事で恐縮だが、かつて手を怪我してギブスの世話になったことがある。『フィギュアなあなた』を想うとき、あの時の景色がどうしても思い出される。
二週間をひとサイクルとして古くなったギブスは裁ち割られる。電動カッターで一文字に切れ目が入れられ、開排器と呼ばれるいかめしいハサミ型の道具でみしみしと割られてひさしぶりに自分の手のひらを見たのだった。包帯の奥に幽閉された人間の皮膚というものに始めてお目にかかった訳だが、全体的に黄色かかって生気なく、さすがに痛々しくって哀れなものである。隅の流し台に案内され、ざっと洗った後にすぐさま新しいギブスにくるもうとする、そんな慌ただしい流れなのだけれど、筋肉はひどく硬直しているし、なにぶん利き手でもある。縫合の痕は紫色のかさぶたとなって触ると痛いから、力の入れ加減こすり加減が分からずに難渋した。
突然におぞましい景色が出現して蒼ざめた。老廃物が手袋よろしく堆積しており、それが水を浴びてしばらくするとふやけ出す。こすればたちまち糸状、もっと直線的に喩えれば、おびただしい数の回虫が手にたかってヌタヌタと蠢くような陰惨この上ない様相を呈したのだった。聞いてはいたが、こんなにひどいとは思わなかった。無尽蔵に垢(あか)はひり出され、いくら洗っても洗っても一向に減ってくれない。恥しさを覚えてたじろぐ。
“穢(けが)れ”ということをそのときに実感したのだった。塗料や粉塵、食品残渣から出る汁、煤(すす)にもろもろの油、そこに労働や運動にともなう汗を加えてもいいのだけれど、それらは表層に貼り付いた“汚れ”であり、根本的にこれとは異なる。肉体の奥に強制的に溜め込まれてしまい自力では回避しえないそれが、直腸や陰茎といった宿命(さだめ)られた器官ではない、本来は清潔を保つことが容易な素肌なり四肢を割り裂いて突出すること、その様を他人に見られることがひたすら悔しいし、たまらないのだった。さむけと恥辱の火照(ほて)りがない交ぜになって、居心地は最悪だった。
私の緩慢な動きを封じる勢いで看護師は両手を差し出し、挟み込み、シャボンを泡立てて洗い始めた。表にも裏にも気負いは一切感じられず、それでこちらも無心のまま、それこそ人形にでもなった心持ちで身を任せていった。あまりに自然過ぎて礼を言うタイミングすら摑めなかったほどだ。医療にたずさわる人の鍛え抜かれて鋼(はがね)と化した心は、垢(あか)に覆われてざらつく患部に触れることなど何程のこともなかったのだろうが、それでも見事と思うし、つくづく有り難い一瞬だったと感じる。
『フィギュアなあなた』のシャワーブースでの若者とフィギュアというのは、もしかしたらそのような看護師と患者にも似た間合いにあった、と捉えるべきではなかろうか。廃墟ビルに棄てられた無数のマネキン人形たちと同様に佐々木演ずるフィギュアもまた虚栄や欲望を煽るための道具として酷使され、十年分かもしれない夜露やほこりにまみれ、ひどく穢(けが)されていたはずなのである。何がしかの深慮が及んで銀幕には示されぬだけであって、排水口に渦を巻いて去った洗い水は、正体の分からぬ残滓を交えて黒く濁ったはずなのだ。
時に石井は禊(みそぎ)の景色をはめ込んだ、踊り場めいた空間を創出してきた。性愛を目的として衣服を脱がせるのでなく、肌のなめらかさと弾力に舌鼓を打つために洗うのでもない。地に倒れて心を閉ざしてしまった相手を同じ生きものとしていたわり、手を添えて回復を図っていく、そんな場面だ。つまり、私たちはここで『天使のはらわた 名美』(監督田中登 1979)の終盤の浴室や『夜がまた来る』(1994)での地下室を振り返り、穢(けが)れたおんなの身体を懸命にぬぐっていく男を想起して良いのではなかろうか。くたびれ果てた身体を男に預け、ゆっくりと蘇生していくおんなを想っても良いのではないか。
シャワーシーンに前後して執拗に繰り返される一連の児戯にしても同様であって、あれを単なる“ままごと”と見るか、それとも廃人寸前の魂にぴたり寄り添った“介護”や“リハビリテーション”と捉えるかで、この『フィギュアなあなた』という物語の深度と色彩はがらりと転じるように思う。
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