2015年10月11日日曜日

“不可視” ~『GONINサーガ』が奏でるもの(4)~


 こんな場面を想い描いてもらいたい。貴方が馴染みの画廊に足を運んで、一枚の風景画に見入っていたとする。夕暮れの人気のない河原が描かれた10号の作品で、空には雲がたなびき、薄(すすき)が揺れている。水面がきらきらと落陽に輝いている。

 画家が偶然居合わせており、画廊のおんな主人から一緒にお茶でも飲もうと声を掛けられる。挨拶して話を聞くうち、先程目にとまった河原の絵について貴方は質問したくなる。自分のほかに客もいない事に甘えて、少しだけ絵描きの内面世界に近寄りたい、そんな欲張るこころが生まれたのだ。どこを描いたのか、この町の川辺だろうか。画家はこれに誠実に答えた後、貴方に気持ちを許したのだろう、絵の中の光線に亡き家族を重ねていると吐露したのだった。

 さて、貴方は画家の言葉を聞いてどう思うだろう。大概のひとは胸を射抜かれ、わずかに息を止めて静かに頷き、改めて壁の絵に目をやるのではなかろうか。反射して白くざわめく光の粒や雲間からやわらかく射して地に落ちていく帯(おび)状の陽光のなかに、亡き人のまなざしを認めると共に、それを希求して止まない画家の切実な祈りを感じていく事だろう。

 では、これに続いて画家が貴方に向って、ご覧なさい、あの光の右の帯と左の帯に挟まれて細い隙間があるでしょう、そこに居るじゃありませんか、と初めて聞く画家の家族だったらしい人の名前を上げたならどうだ。光ではなく、その脇の隙間とは───どんなに目を凝らしても其処には、空っぽの、何も起きていない、何もいない空間が広がっているばかりなのだ。画廊の主人の手前、貴方は目を細めて絵の方に顔を向けながら、画家という職業の抱える業の深さにおののくに違いない。絵画とはそこまで魂と直結した表現なのか、自分はなんて浅はかだったろう、画布の表面しか見れていないじゃないか、と、もしかしたら自分の不明を恥じ、画家との予期せぬ出逢いを感謝したかもしれない。

 もしも、それが絵画ではなく写真だったら、では、貴方の気持ちはどうであろう。茫漠とした景色の広がる中に、雲間から光が射している。ご覧なさい、光の脇のところ、そこに居るじゃありませんか、と呼び掛けられた直後、あなたはその座を辞したいと願うはずだ。空虚のみが居座って見える風景の奥に、強い調子で故人の立ち姿を指摘されて唖然としない者、恐怖しない人は皆無だろう。

 上の話は私がひり出した下手な例え話に過ぎないのだが、実は似たような打ち明けを私たちは石井隆から、インタビュウ記事を通じて何度か囁かれている。劇空間で葬られたはずの者が、明界(このよ)に残る知り合いの周辺に出没することが石井世界では数多くある。もちろん幽霊譚は石井の専売特許であるはずもなく、ジャンルを越えた創作全般に君臨するモチーフであり、これまでも、そして今後も絶えず採用され続ける普遍的な描写に過ぎないけれど、私がここであえて書こうとするのは通常の描き方を遥かに超越した意外な表現手段であって、それを石井は今でも絶えず模索しているらしいという推測だ。

 ここまで書くと石井世界の追尾を行なっている評論家や熱心なファンは気付くだろうけれど、石井は『ヌードの夜』(1993)の終盤で、根津甚八が演ずる行方(なめかた)という男の亡霊をフィルム上に“空隙(くうげき)”という手法で描いた。借金に追われて精神錯乱した男(岩松了)に名美(余貴美子)が銃で撃たれて床に崩れる場面があるのだが、そこで石井は名美の座るソファの隣りに大人一名が座れるだけの空きを用意し、不自然な構図で撮影する事で男の亡霊のそこに身じろぎもせず座り、事の成り行きを凝っと見守っていることを表現してみせたのだった。これは本当に驚愕すべき手法であって、一歩間違えば狂人扱いされかねない危険な描画であろう。

 私は霊の存在を一概に否定しないし、この世に彼らと交信したり、彼らの姿を日常空間で目撃している特別な素質の有る人がいても不思議はないと考えている。しかし、現行の撮影技術では霊体を明確な対象として定着させる術はなく、仮に劇空間に彼らを登場させる場合には生きた役者であれ、ギミックを用意し、また、光や音響を駆使して輪郭を揃えることで“可視化”するより他ない。太陽光や虹、星のまたたき、流れ星、蝋燭の火のゆらぎ、一陣の風、はためくカーテン、時には空っぽの空間に向って話し掛けたり耳を澄ます人物を配置し、自然描写と広く呼べるものを代用して画面に宛(あて)がい、霊体の“可視化”を試みていく。

 今のところは“不可視”なものはとことん“不可視”なままであり、銀幕に映されない存在である以上は、どうにかこうにか手段を講じて“可視化”した上で観客に差し出すより仕方ないのであって、これら技巧なくして霊体の出没を第三者に伝えることは難しいのだけれど、『ヌードの夜』において石井は禁じ手とも呼べる“不可視”の提示に踏み切った訳である。

 さすがにこういった大胆不敵で分かりづらい、というよりも石井が開示せぬ限りほとんど誰も分からない表現手法を、その後の石井は自らに封じて来たのだけど、それでも彼ならではの創意が続いているのは最新作『GONINサーガ』(2015)を観ても明らかだろう。

 霊魂の出現や心霊現象はオーソドックスな方法を採った『GONINサーガ』だったが、それとは別に人物の描写において、“不可視的領域”とでも称すべき暗部が広がっている。すなわち、観客が観賞中には掌握し切れないか、はたまた観客の目や耳からは隠蔽された“見えざる情報”が幾つも有るのに、石井はそれに逡巡することなく、いや、むしろ確信犯的に、物語中に一気呵成に押し込み、最後まで突き進むという不敵この上ない筆づかいに撤している。説明が過多との感想が多いけれど、私の目と耳には全くその逆であって、これ程までに暗闇の色濃い作品はあまり無いように思う。

 玩読(がんどく)する時間を与えられぬまま、私たち観客は凄まじい銃撃戦を次々に目撃し、身体をうち震わせながら座席に取り残されるのだけど、その後で原作小説本の行間を読むなり、残像を繋ぎ合わせ、再度劇場に足を運ぶことでようやくそこで現況や過去、登場人物の心理が“可視化”されていく。いよいよ熟考と推測が私たちの内部で開始され、自分なりに答えを導く次元に至ったとき、『GONINサーガ』はさらに酷烈な地獄の口を開いていく。



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