(注意 物語の結末に触れています)
『GONINサーガ』(2015)の劇場公開が終盤を迎えたので、劇中の仔細にいくつか触れたいと思う。点在する旧作『GONIN』(1995)や過去作の明らかな反復をことさら大仰に書き散らし、ひとり悦に入るつもりは毛頭ないし、別の媒体を通じて今後『GONINサーガ』と出会うだろう膨大な数の視聴者にも配慮して書き進めるつもりだが、真っ当な感想を綴る上でどうしても飛び込むより道はない。台本の代わりに石井隆による原作小説「GONINサーガ」(*1)を手元に置き、銀幕上での“不可視領域”にも若干踏み込んでいく。
ルポライター富田(柄本祐)の正体は、“五人組事件”の乱闘に巻き込まれて殉職した警察官の遺児、森澤慶一であった。この森澤だけが十九年前の事件のほぼ全容を知っているのだし、また、遺族の今の苦境や、暴力団“五誠会”の変貌ぶりを把握しているのだった。警察官という立場を活かし、また、生真面目な性格も手伝って徹底して調べ尽くしただろうこの男の言動は、だから最初から重心がきわめて低く、事態が呑み込めずに濁流に喘いで見える他の人物とは当然目方に差があるのだし、私たちも違ったまなざしで観察すべき相手となっている。
実際、森澤の台詞は断定口調が多く、酒場を訪問して偶然そこに居合わせた大越大輔(桐谷健太)に向かい、いきなり彼の姓名を正しく告げてみせ、状況の解析が怖ろしく徹底している事を銀幕の内外に印象づける。先に挙げた闇金店長の射殺に際しても、組織内での捨て駒に過ぎぬからどこかに埋められて終わりなのだ、と立て板に水の勢いで説明して仲間の動揺を収めている。
仕事でも人間関係でも、視界の利かぬ場処で頭に血を上らせたまま突き進めば、大概は足を滑らせたり壁にぶつかりして傷が絶えないのが普通であって、そんな最中に口を衝いて出た言葉は大量の本音が含まれ、また、弱音が混じり、吐露するタイミングを完全に誤っていたりして混乱に拍車を掛ける。川の浅瀬でのたうつ弊死寸前の鮭の如き、勇人(東出昌大)や大輔の不様な様子がまさにそれなのだが、詳細な地図や方位磁石を懐中した猟師、森澤の言葉は完全に選ばれたものであり、真意の大部分がまだ腹の奥に秘めたままであるから、端々にはいつも謎が含まれ、怪しむべき裏面がある。
独特のそんな深度を、石井は最後の幕引きまで森澤という男の造形に負わせている。劇中に散乱する森澤の台詞と行動を一度列記してみれば、そこに心胆を寒からしめる“針路”が浮かんで来るように思うがどうであろう。森澤の目指すものと共に、それは物語を俯瞰し得る石井という作家の目指す方向でもあるだろう。
「このままでは死ねません!二代目とか来るんですよね?奴ら、根絶やしにしないと」(315頁)
「惜しかったですね、五誠会全滅でしたね……ハハハ」
麻美が来れば、凄い戦力になって、五誠会を全滅出来たのに、惜しかったですね、と若干違ったニュアンスで慶一が言い(330頁)
強い怨念の渦を巻きながら、慶一は自分一人で這ってでも出口を探そうとしていた。とにかく、誠司の結婚披露宴に姿を現す五誠会の二代目とその一派を全滅とはいかないまでも、一矢を報いたいと悲願しながらも、思うように動いてくれない自分の体にジレンマしていた。(337頁)
石井は森澤の台詞およびト書きに“全滅”といった言葉を編み込み、いかに怨念が肥大化し、生々しく顫動(せんどう)する事態に至っているかを告知する。日常ではほとんど聞かれない、使ってもせいぜい雑草相手にしか使えない“根絶やし”という烈しい表現には特に石井の作為がにじみ出て感じられる。仇討ちの対象は通常、加害者を特定して復讐を果たそうとする対個人であるのが、いつしか組織全体、その一派へと移行しているのが実に妖しい。
そのような妄執の鬼、森澤は、「結婚式で愛人の歌流すなんて、さすがに狂ってますね、親子して」(335頁)という終幕近くの台詞からも分かる通り、十代の早い時期に麻美(土屋アンナ)というおんなが五誠会に捕りこまれ、二代目組長の式根隆誠(テリー伊藤)と三代目の誠司(安藤政信)の双方に愛妾、もしくは性奴隷、もしくは特別な役目をもって夜伽を強いられている者と承知している訳である。
そこで疑問に思うのは、森澤の目から見た麻美というおんなの立ち位置だ。強制されたとはいえ、半年や一年ではなく、十九年かそれに近しい長い歳月、五誠会の首領に己の肉体を与えてきたおんなという存在は、“五誠会の二代目とその一派”ではないのか。“根絶やし”するべき相手ではないのか。性愛とはそういう、なんとも切り離しにくい癒着ではないか。他者と他者を肉体上連結し、理性や知識を蹂躙する本能の熱でもって溶接する。そのようにして過ごした千の夜を、簡単に無かったことと割り切ることなど誰もできない。
今度こそ大輔に拳銃を渡さなければ、私も殺される!やっとの思いが果たせたのに!と慶一の手から拳銃を捥ぎ取ろうとスクリーンの中に体を伸ばして、必死に必死に踏ん張るが取れない。(375頁)
そのようにして結局のところ麻美は、明神(竹中直人)の撃った機関銃の弾を背中にもろに受け、血の海の中に沈んでいくのだけれど、森澤の死後硬直が始まって銃を離そうとしなかった指には、どのような思いが籠(こも)っていたものか。麻美が撃たれて鮮血を噴いて後、ようやく顕現する奇蹟の、いかにも遅く、もどかしいような、ずれているような歯がゆいタイミングの悪さは、私には森澤の“根絶やし”という台詞を舞台全体が唱和している事の、成るべくしてなった結果に見える。
『GONINサーガ』は活劇ではあるけれど、悪夢的な響きがあって、そして妙な例えとは思うが、うつくしい調和に満ちている。落城後に捕らえられた城主の妻子、側室が河原に引き出されて斬首されていく光景を遠目にするような、逃れえぬ運命悲劇の凄絶な美にどこまでも染め上げられていく。
(*1):「GONIN サーガ」 石井隆 KADOKAWA/角川書店 2015 文中の括弧内は原作本の引用頁を指す。
0 件のコメント:
コメントを投稿