2015年10月4日日曜日

“遡上”~『GONINサーガ』が奏でるもの(1)~


(注意 物語の結末に触れています)

 暦を一枚めくると、夏の余熱が街路から失われ、肌になじんだ大気が途端に冷たさを増して感じられる。あんなにも優しかった愛撫が、容赦ない平手打ちへと一変する。呆然して口をつむぎ、しばらくは思考が滞(とどこお)る。

 いつもそんな端境(はざかい)の時期に当たるのだけれど、住まいからごく近い場所を流れる、幅は大して広くはない川を、鮭の一群が遡上(そじょう)する様子が観察される。橋の欄干から身を乗り出して川面(かわも)に目を凝らすと、黒い魚影がいくつもたゆたい、うち何匹かは雌を追いかけて盛んに周回している。生殖を目的として集う彼らからは盛んなエロスが放射されるせいもあって、見ると決まって興奮を覚える。それより何より、この地が80kmほども内陸にあり、沿岸部から遠く離れていることに心底驚く。周囲は緑濃い山波に覆われている。よくぞここまで泳ぎ着けたものだ、と見下ろす度に感に堪えない。

 どうしてこんな事を書くかと言えば、先日観た『GONINサーガ』(2015)がつよく連想を誘うためだ。まだ観ておらぬ人に対して非礼とならぬよう、輪郭なり全般的な色彩につき語るより仕方ないのだけど、『GONINサーガ』という映画には“遡上”のイメージが付きまとっている。いや、構造上ありありと刻印されてもいる。冒頭で何を描き、結末に何をどのような手法で置いたのか、その点だけでも作り手内部の遡行しようとする劇構造が十分に読み取れる。

 もっとも、これは個人の抱いた心象にすぎないから、人によっては全然違って見えるかもしれない。たとえばウェブを手探ると、膨大な感想がゆらゆらと立ち昇るのを遠目にできる段階なのだけれど、その中には“底”から“天”へと突き抜ける上昇流を目撃してしまった人もいて、なるほど、そういう捉え方もあるかと感心してしまう。そもそも映画という媒体は、多層性や多面体であることが肝だろう。百人いれば百様の『GONINサーガ』が産まれるのが理(ことわり)だ。どのような反応を生じても不正解がないのが『GONINサーガ』という映画なのだけど、いまの私は“天”を仰ぐことが適わずにいる。劇中に点在するのは、物狂おしいまでの横移動だったからだ。上昇運動をそれとなく抑制し、観客の感情を軽くしないように工夫する演出が見受けられた。

 『GONINサーガ』に繰り返される横移動は、暴力的な襲撃場面や、瀕死の人物が床を這う動作に代表される訳だけど、思い返せば石井作品において横移動というものは、忌まわしさ、死へと傾斜を深める踏み台として機能していた。失神寸前で廃屋に引きずられてゆく者、たとえば『甘い鞭』(2013)での間宮夕貴であるとか、今際の際にある男が運命の相手と信じるおんなに這い寄ろうともがく、たとえば『天使のはらわた 赤い淫画』(1981 監督池田敏春)での阿部雅彦や『花と蛇』(2004)の石橋蓮司などが石井世界の横移動の極北として在るのだが、そのために私の奥では緊張を強いられてしまって最初から最後までどきどきさせられ通しだった。

 石井作品の過去作には稲妻のごとき走り、陸上短距離選手に似た疾走描写もあり、『GONIN』(1995)でバスターミナルから逃げ出す本木雅弘や、『黒の天使 Vol.2』(1999)の開幕を飾った天海祐希の姿勢の良い駆け姿を瞬時に思い出すのだが、『GONINサーガ』のそれは似た状況ながらいつもと風合いが違っていた点は特筆すべきだろう。若く強靭な肉体が右往左往していく様子であって、こういう何処に転がるか先が読めない左右に揺れた歩行の畳み掛けは石井作品ではあまり前例がない。足裏が地面に着かない仮死状態であるならば、こちらもすっかりまな板の鯉と観念して流れに身を任すことになるのだけれど、『GONINサーガ』は私たちの推量や得心を蹴散らす強固な迷走感をそなえている。

 目撃するのは、銃火にさらされ、緊張にこころをぺしゃんこに潰され、砲弾の雨に逃げまどう前線のとりわけ塹壕戦での兵士の風体なのだった。例をあげれば中盤に挿し込まれる賭博場での銃撃シーンなんかがそうであって、長い通路をひた走る東出昌大(ひがしでまさひろ)の背中は丸まり、床面に手を付くような超低空飛行の体であって、格好は見た目にはあまりよろしくない。

 旧作でも主要な舞台となったディスコ「バーズ」のダンスフロアの床下には暗渠めいた隙間があったという設定で、そこに彼らが潜入する場面があるのだけれど、間狭なセットに押し込められ苦労して移動する若者たちの様子なども含めて、戦争映画に似た手触りがある。「キネマ旬報」に連載された撮影日記(*1)から、この「バーズ」の基礎部分の天井の低さは意図的にぎりぎりまで縮めた結果なのだとも分かっている。

 『GONINサーガ』で顕著なこの“匍匐(ほふく)前進”に近しい重量感ある平行移動のイメージは、だから石井によって執拗に、かなり意識して仕込まれたと言えるだろう。「バーズ」のダンスフロアは広い階段を登り詰めた上層階にあるはずなのだが、床下への潜入時にはエレベーターを使っての昇降場面を一切省き、あたかもダンスフロアが段差のない一階に位置すると錯覚させるような巧みな編集さえ施しているのであって、結果的に私たちの気持ちを地べたに縛りつけることに成功している。

 『GONINサーガ』を鮭の遡上と重ね見る理由は、以上にあげたような幾度も挿入される前傾もしくは腹這う姿勢での切迫した局面や、はげしい風雨に抗う者たちの“のたうつ”ビジュアルが有るからだ。痛手を負い、もがきながらも歩みを止めない劇中の若者たちと、背びれや胴体の上部を危険な水上に晒し、浅瀬のごつごつした岩に腹をぶつけ、おびただしい切り傷を負いながらも“源流”へむけて死に物狂いで遡上する魚たちの様子は通底するところがあり、あながち的外れな連想とは捉えていない。

 だいたいにして映画『GONINサーガ』は、母親たる存在が一部描かれはするものの、圧倒的に父親にまつわる思慕、憧憬に終始している。胎内回帰の物語ではなく、放精(ほうせい)に対する幻視や本能のささやきが後押しする母川(ぼせん)への旅の物語と捉えてよい。(*2)

 父親たちの生き死にが描かれた旧作『GONIN』が、幕引きの長距離バスでの都落ちが象徴するように、上層から下層へと流れ落ちる話であったのに対し、『GONINサーガ』は現在から過去へと、彼らの肉体と精神の今を形成した特別な刻(とき)と特別な場処へと旅していく。生命の焔(ほむら)が最もかがやく繁殖期の鮭たちと同様に、『GONINサーガ』の若者たちも怖れを知らず、死を意識せず、ひたすらに水流を縫って川上を目指すのであって、その辺りもまた石井世界にあっては特殊で猛々しい顔立ちとなっているのが大変に面白かった。

 物語にうごめく人物は幾たりかを除いて泰然として血色よろしく、自尊心を持った者として描かれたのも、石井の劇世界においては異色であった。彼らは社会の不適格者、運に見放されたもの、捨てられた者、常軌を逸して後戻りできない者とは自身を完全には見切っておらず、苦境のなかでも目線を下げることがない。これはバブル終焉から年数が経過し、社会人となった当初から辛苦にまみれて暮らしている2015年現在の若者像に同期するところであって、この逞しさ、したたかさを実にリアルなものと受け止めているところだけれど、そんな活きの良い若い世代の俳優たちが、活きのよい役柄を演じつつ見せる豪快な泳ぎを見るのが『GONINサーガ』鑑賞の心得と言えるだろう。

 ここまで書いてしまうと、なにやら『GONINサーガ』とは今をときめく東出、桐谷健太(きりたにけんた)といった男優たちが逆三角形の締まった裸身を惜しげもなく晒してする水泳大会と思われてしまいそうだが、石井隆は人間という存在の“始末”について当初から描き続ける「血の作家」である以上、穏やかなまま彼らが泳ぎ切れるはずもないのは自明であって、そのあたりは決して譲らず、断固たる仕上げを行なっている。それが何時にも増して凄絶で驚いた。

 放精と産卵を終えると急激に衰えを見せ、あれほど生命力を充溢させていた鮭たちは一週間足らずですべてが死に絶える。これを“弊死(へいし)”と呼ぶらしいのだが、遡上を果たした『GONINサーガ』の若者たちも当然ながら浅瀬に打ち上げられるようにして、唐突な死を迎える。昨今の映画雑誌を飾るグラビア然とした綺麗ですがすがしい終わりを用意することなく、生臭さを幻嗅(げんきゅう)させる血と水がどろりと混ざり合った汚水に彼らの骸(むくろ)は捨て置かれるのだが、その一切の遠慮の無さがやはり映画監督にして画家石井隆の到達点なのだ。当方のひそかに準備した脳内ビジュアルを軽々と凌駕してみせて、ただただひれ伏す気持ちでいる。

(*1):「キネマ旬報」2015 9月下旬号 №1698 「新たな伝説のはじまり「GONINサーガ」最終回 撮影日記Ⅲ 阿知波孝 鈴木隆之」 
(*2):発売中の原作本「GONIN サーガ」(石井隆  KADOKAWA/角川書店 2015)を読むと、登場人物それぞれの行動の動機に母親の存在が密接に関わっていると分かってくるので、単純にこの物語を父と子をテーマにしているとは言い切れない。しかし、怒涛のような映画を面前とした場合、自ずと浮き彫りとなるのは父親の方ではあるまいか。

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