2015年10月25日日曜日

“誰に似たんだ” ~『GONINサーガ』が奏でるもの(7)~



(注意 物語の結末に触れています)


 『GONINサーガ』(2015)の製作が発表されたとき、真っ先に連想したのが
黙阿弥や、圓朝の怪談噺「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」で、ああ、これは石井隆の本格的な“運命悲劇”になると予感した。親同士の殺し殺されが巡りめぐって芽を吹き、蔦(つた)となってからまり、子供たちを追いつめていく。血脈に囚われし者が漏らす吐息や、傷負い滴って地面を染める鮮血を幻視し、これは確かに石井にしか横断し得ない断崖と感じたし、実際、完成した映画は十九年という歳月をずぶりと貫いて、怨憎や愛慕で溢れ返っていた。

 映画を短時間に限る小旅行と捉えれば、『GONINサーガ』はやや盛り沢山の内容であって、十分に消化し切れず朦朧状態となる観客もいるだろう。けれど、代を跨いだ血の宿命を主題とする場合、茫洋とした趣きの前段となるのが普通だし、固有名詞や過去の事象を蛇のごとく引きずり、夢現(ゆめうつつ)に吐き散らされる台詞の山を経て、ようやく真相に至るものだ。運命とは本当に見通しのきかないもので、一介の駒となって黙々と歩むより他ない。極端な話、血脈や先祖の為した因果について、まるで承知せぬまま退場する役どころさえある。
実際自分たちの日常にしたってそうではないか。四肢にからまる糸というのは煩わしけれど、勝手に断ち切れるものではない。

 テレビジョンの普及によって映画館から奪われたものに、おどろおどろした思念を引き継ぐシリーズものがある。共に市川雷蔵主演によるところの『大菩薩峠』三部作(1960-61)、眠狂四郎(1963-69)なんかを凝視して育った石井隆にとってみれば、『GONINサーガ』の劇空間に派生し錯綜する因果は、紅茶に添えられた砂糖みたいな定番の約束事であっただろう。

 映画という媒体に分かりやすい起承転結や自己完結をつい求めがちな私たちは、実は提供する側が用意した小さな型に押し込められ、記憶する力や推察する能力、粘り腰で思案することの楽しみを奪われているのではなかろうか。石井は映画館の暗闇に息づいていた連続活劇の力と、積極的に記憶や思念を携えて劇場に向かう観客との蜜月を再生する、そんな姿勢で『GONINサーガ』に臨んだのではあるまいか。私たちを縛り付ける映画像を一度解体し、俯瞰して見れば、堂々たる舞台を石井は今回も創ったように思われる。


 前置きが長くなってしまったが、『GONINサーガ』は血脈に関わる運命悲劇であって、それも登場する複数の人間がそれぞれの内なる血に自縛して七転八倒するわけで、ある意味、実に贅沢な話となっている。悲劇の五重奏がそこに在る。


 ここで言う五重奏の“五”は題名から取ったものだが、そもそも五人とは誰を指すのだろう。前作で殺されたヤクザの遺児、久松勇人(東出昌大)と大越大輔(桐谷健太)、事件に巻き込まれて殉職した警官の子供、森澤慶一(柄本佑)、元グラビアアイドルの菊池麻美(土屋アンナ)をまず指折って数えた上で、私たちはそこに元刑事の氷頭要(ひずかなめ 根津甚八)を加えがちだ。映画の宣伝文においても最後の一人として根津を紹介し、この復帰を世間は大々的に取り上げた。


 しかし、血脈に関わる運命悲劇は氷頭の身に潜まない。そこに巣食うのは荒々しくも単調な復讐心でしかない。私たちは別の最後の一人を探し、石井の作為を改めて認識し直し、それを前提にして『GONINサーガ』を俯瞰すべきだろう。映画宣材における立ち位置とネームバリュから言って、私たちは安藤政信が演じる五誠会三代目、式根誠司にもっと目を向けて良いはずなのだ。五人目は氷頭ではなく、間違いなく誠司だ。


 裏社会ながらも血統書付きの出自を与えられた誠司という男は、主人公の遺児二人に対して拳固でもって叩き、足蹴を食らわし、また、元アイドルの人格を認めず、間接的にではあるにせよ刺客を放って警官の息子を深く傷つけている。彼らと対峙する悪の総領として観客に意識付けられるに十分な蛮行を重ねて『GONINサーガ』に君臨するのだけれど、そのような単層で一方的な暴君の役割に留まるのであれば、石井は著名且つ美麗な安藤という役者をこれに当てないのではないか。


 三代目誠司の父親として式根隆誠(テリー伊藤)という二代目会長が登場し、現金を強奪された誠司の失敗を詰(なじ)る場面が挿入されている。その叱責する声と狂った所作を目撃した観客は、誠司という男の持って生まれた境遇に哀れみを覚える。ヤクザ者の家に生まれたばかりに気の毒と思う。忍耐の限度を超えた誠司が着衣を剥ぎ取り、裸となって激昂する様子に演技の巧みさを見て取り、安藤起用の理由を認める人が多かったに違いないのだが、物語の仇役としてならばこの狂った二代目ひとりで間に合いそうではないか。


 石井の原作本(*1)を取り出し、再びこれを書き写しながら考えてみたい。上の場面でパナマ帽の二代目は奇妙な台詞を口にしている。


誠司は泣き顔で土下座しながら、

「許して下さい」
必死に謝っていて、隆誠が呆れて言う。
「誰に似たんだ?その胆力で五誠会が……」(252頁)

「オイ!ここ撃てよ、ここ!殺せ、この野郎!」

誠司が精一杯、怒鳴り返して心臓の辺りを叩く。
それを見た隆誠は口元を緩めながら、
「誰に似たんだ?孫の顔を見るまでは、未だ死ぬ訳にはいかんな」(253頁)

 テリー伊藤の演技を見るだけなら、最初の“誰”は母親を指しそうだし、後ろの“誰”は自分を指すのだろう。家長として強面で振舞う父親が、ほんとうは溺愛する未熟な息子を叱っていく流れで、秘めた愛情を瞳の奥に隠しつつ居るという場面に見えるが、それにしても奇妙過ぎる、心に引っ掛かる台詞ではないか。「誰に似たんだ」と不自然に繰り返して、観客の意識に楔(くさび)を打ち込んでいる。そんな根性無しでどうする、なんだ母親(あいつ)に似たのかと煽り、その後で、やっぱり俺の血だな、と、何故普通には喋れないのか。


 バーズのパーティ会場に設置されたスクリーンの裏側で、襲撃のタイミングを計り待機する子供達に混じり、ヒロイン麻美は自分がかつてどのような経緯で暴力団に捕り込まれたかを説明する。「この写真をマスコミにバラ撒かれたくなかったら、五誠会の跡取りを産めって……。二代目と三代目の情婦になって」(352頁)──この発言と先の妙ちきりんな二代目の言い回しからは、この親子の歪(ひず)みが明らかとならないか。血統書に怪しい影が差さないか。


 麻美が芸能界に飛び込んだ時、既に五誠会には生意気盛りの誠司が肩で風切って歩いていたのであって、それにも関わらず跡取りを産むように強いられるとは一体全体どういう事なのか。金と暴力でいくらでも女性を囲い、妾腹で良ければ何人でも子供を作れそうな二代目に、一人息子の誠司しか見当たらず、それが二十歳ほどにも伸び伸びと育っていながら、跡取りがいないのだ、世継ぎを産めと若いおんなに強要する事は不自然な言動ではないだろうか。


 さらに言えば、そのようにして軟禁状態にされた若い娘が性的に奉仕させる以上の目的、つまり妊娠と出産の為に捕り込まれた事実と、そのような期間を十年以上を経て出産に至らないまま今日に至った事態を透かし見すれば、二代目隆誠、三代目誠司、そして麻美を取り囲む紅蓮の炎の輪郭が露わとなり、身近に迫り来るさまが窺えよう。(*2)


 閨房(けいぼう)で何が展開されていたかを覗く権利を観客は持たないが、不可視領域であればこそ、様ざまな光景も浮かんでくる。隆誠もしくは誠司のどちらかが不能者であった可能性、麻美が流産を繰り返した可能性、誠司が隆誠の実の子供ではない可能性、誠司が旧作に登場した五誠会初代会長(室田日出男)の子供であった可能性──いずれも妄想の域を出ないが、どこに転がっても相当に血生臭い話となる。これが『GONINサーガ』という物語が抱き込んだ地獄だ。テリー伊藤と安藤政信というキャスティングについても、これはかなり露骨に“鬼子(おにご)”である事を提示しているのであって、周到に計算され尽くしたものでなかったか。


 皿に盛られた料理を携帯画像で撮りまくり、食べ散らかした後に欠点ばかりを書き殴る粗暴な趣味がどうした訳か世間でまかり通っているが、同じ調子で石井の劇を扱ってはなるまい。『GONINサーガ』とは、映画製作に長く携わった石井が心血を注いで調理したものだ。高度な料理には削ぎ落とされ、漉され、捨てられていく残渣は多いものであって、それら工程の全容を視野から外して迂闊に喋ることは危険なことと思われるし、何より勿体無い話と思う。


(*1):「GONIN サーガ」 石井隆 KADOKAWA/角川書店 2015 文中の括弧内は引用頁を指す。

(*2):五人組事件から五年が経過した雨の午後、勇人と大輔が病院前の駐車場で再会する。そこでの台詞には、早い段階で麻美という少女の身に異変が起きたことが示されている。「勇人、麻美のファンだったよな?芸能界から消えたけど、未だ三代目……時々二代目の……たまに、見かけるよ。」(126頁)

2015年10月24日土曜日

“根絶やし” ~『GONINサーガ』が奏でるもの(6)~



(注意 物語の結末に触れています)

 『GONINサーガ』(2015)の劇場公開が終盤を迎えたので、劇中の仔細にいくつか触れたいと思う。点在する旧作『GONIN』(1995)や過去作の明らかな反復をことさら大仰に書き散らし、ひとり悦に入るつもりは毛頭ないし、別の媒体を通じて今後『GONINサーガ』と出会うだろう膨大な数の視聴者にも配慮して書き進めるつもりだが、真っ当な感想を綴る上でどうしても飛び込むより道はない。台本の代わりに石井隆による原作小説「GONINサーガ」(*1)を手元に置き、銀幕上での“不可視領域”にも若干踏み込んでいく。

 ルポライター富田(柄本祐)の正体は、“五人組事件”の乱闘に巻き込まれて殉職した警察官の遺児、森澤慶一であった。この森澤だけが十九年前の事件のほぼ全容を知っているのだし、また、遺族の今の苦境や、暴力団“五誠会”の変貌ぶりを把握しているのだった。警察官という立場を活かし、また、生真面目な性格も手伝って徹底して調べ尽くしただろうこの男の言動は、だから最初から重心がきわめて低く、事態が呑み込めずに濁流に喘いで見える他の人物とは当然目方に差があるのだし、私たちも違ったまなざしで観察すべき相手となっている。

 実際、森澤の台詞は断定口調が多く、酒場を訪問して偶然そこに居合わせた大越大輔(桐谷健太)に向かい、いきなり彼の姓名を正しく告げてみせ、状況の解析が怖ろしく徹底している事を銀幕の内外に印象づける。先に挙げた闇金店長の射殺に際しても、組織内での捨て駒に過ぎぬからどこかに埋められて終わりなのだ、と立て板に水の勢いで説明して仲間の動揺を収めている。

 仕事でも人間関係でも、視界の利かぬ場処で頭に血を上らせたまま突き進めば、大概は足を滑らせたり壁にぶつかりして傷が絶えないのが普通であって、そんな最中に口を衝いて出た言葉は大量の本音が含まれ、また、弱音が混じり、吐露するタイミングを完全に誤っていたりして混乱に拍車を掛ける。川の浅瀬でのたうつ弊死寸前の鮭の如き、勇人(東出昌大)や大輔の不様な様子がまさにそれなのだが、詳細な地図や方位磁石を懐中した猟師、森澤の言葉は完全に選ばれたものであり、真意の大部分がまだ腹の奥に秘めたままであるから、端々にはいつも謎が含まれ、怪しむべき裏面がある。

 独特のそんな深度を、石井は最後の幕引きまで森澤という男の造形に負わせている。劇中に散乱する森澤の台詞と行動を一度列記してみれば、そこに心胆を寒からしめる“針路”が浮かんで来るように思うがどうであろう。森澤の目指すものと共に、それは物語を俯瞰し得る石井という作家の目指す方向でもあるだろう。

「このままでは死ねません!二代目とか来るんですよね?奴ら、根絶やしにしないと」(315頁)

「惜しかったですね、五誠会全滅でしたね……ハハハ」  
麻美が来れば、凄い戦力になって、五誠会を全滅出来たのに、惜しかったですね、と若干違ったニュアンスで慶一が言い(330頁)

強い怨念の渦を巻きながら、慶一は自分一人で這ってでも出口を探そうとしていた。とにかく、誠司の結婚披露宴に姿を現す五誠会の二代目とその一派を全滅とはいかないまでも、一矢を報いたいと悲願しながらも、思うように動いてくれない自分の体にジレンマしていた。(337頁)

 石井は森澤の台詞およびト書きに“全滅”といった言葉を編み込み、いかに怨念肥大化し、生々しく顫動(せんどう)する事態に至っているかを告知する。日常ではほとんど聞かれない、使ってもせいぜい雑草相手にしか使えない“根絶やし”という烈しい表現には特に石井の作為がにじみ出て感じられる。仇討ちの対象は通常、加害者を特定して復讐を果たそうとする対個人であるのが、いつしか組織全体、その一派へと移行しているのが実に妖しい。

 そのような妄執の鬼、森澤は、「結婚式で愛人の歌流すなんて、さすがに狂ってますね、親子して」(335頁)という終幕近くの台詞からも分かる通り、十代の早い時期に麻美(土屋アンナ)というおんなが五誠会に捕りこまれ、二代目組長の式根隆誠(テリー伊藤)と三代目の誠司(安藤政信)の双方に愛妾、もしくは性奴隷、もしくは特別な役目をもって夜伽を強いられている者と承知している訳である。

 そこで疑問に思うのは、森澤の目から見た麻美というおんなの立ち位置だ。強制されたとはいえ、半年や一年ではなく、十九年かそれに近しい長い歳月、五誠会の首領に己の肉体を与えてきたおんなという存在は、“五誠会の二代目とその一派”ではないのか。“根絶やし”するべき相手ではないのか。性愛とはそういう、なんとも切り離しにくい癒着ではないか。他者と他者を肉体上連結し、理性や知識を蹂躙する本能の熱でもって溶接する。そのようにして過ごした千の夜を、簡単に無かったことと割り切ることなど誰もできない。

今度こそ大輔に拳銃を渡さなければ、私も殺される!やっとの思いが果たせたのに!と慶一の手から拳銃を捥ぎ取ろうとスクリーンの中に体を伸ばして、必死に必死に踏ん張るが取れない。(375頁)

 そのようにして結局のところ麻美は、明神(竹中直人)の撃った機関銃の弾を背中にもろに受け、血の海の中に沈んでいくのだけれど、森澤の死後硬直が始まって銃を離そうとしなかった指には、どのような思いが籠(こも)っていたものか。麻美が撃たれて鮮血を噴いて後、ようやく顕現する奇蹟の、いかにも遅く、もどかしいような、ずれているような歯がゆいタイミングの悪さは、私には森澤の“根絶やし”という台詞を舞台全体が唱和している事の、成るべくしてなった結果に見える。

 『GONINサーガ』は活劇ではあるけれど、悪夢的な響きがあって、そして妙な例えとは思うが、うつくしい調和に満ちている。落城後に捕らえられた城主の妻子、側室が河原に引き出されて斬首されていく光景を遠目にするような、逃れえぬ運命悲劇の凄絶な美にどこまでも染め上げられていく。

(*1):「GONIN サーガ」 石井隆 KADOKAWA/角川書店 2015 文中の括弧内は原作本の引用頁を指す。


2015年10月22日木曜日

“蝉のはなし”


 インタビュウで石井自身が明言しているから構わないと思うが、『GONIN』(1995)、および『GONINサーガ』(2015)における蝿(はえ)の描写は“魂の転生”に関わっている。小泉八雲が同様の伝承を記録に留めたことは、以前この場に書かせてもらった。(*1)

 このところ幽霊とか、ろくろ首についての書籍を続けざまに読むうちに、実はこういった転生譚が世界には無数にあって、それも彩り豊かなことを知る。高峰博という人の『傳説心理  幽靈とおばけ』(洛陽堂 1919)では、上田秋成「雨月物語」の「夢應(むおう)の鯉魚」を取り上げ、さらには東西の民間伝承、旅行記などをいくつも並べ置いて、霊魂が動物に化身したり、おぼろな火球(“たましい”という呼称は“たまし火”から来ているとのこと)といったものが口や鼻の穴から抜け出て、ゆらゆらと彷徨う様子を伝えている。まとめた文を書き写すとこんな具合だ。

「是の如き霊魂出遊の思想は、上述の通り、各民族に存し、随って、或は蠅、或は土蜂、蛇や蜥蜴、鼬、鼠、蟋蟀、鴉、鯉となり、其の他、セルビア人は妖巫が睡魂の胡蝶化を信じ、乃至、虎となり、大蛇となる話等、実に千差萬別である。」(動物形の魂魄 307頁)

 驚いた、蠅どころではない。トカゲやカラス、いたちやネズミにさえ、人間の魂は転生するものらしい。降雨や水たまり、一陣の風、はためく布地といったものに詩情をこえた妖しい鼓動を見止め、アニミズム色が濃厚な、古代から連綿と続く祝祭空間にでも引き込まれた心地となる場面が石井隆の作品には散見されるのだけれど、こうして地球規模の動物転生の記録とこれに準じた『GONIN』での映像表現を重ね見ると、石井の劇というのは国という枠を軽々と突き破った物であり、つまりは“人間の劇”という思いが湧いてくる。邦画を観ている気がしない、そんな芳醇な香味に酔うのは当然と言えば当然だ。

 転生といえば、以前こんな事があった。親戚が亡くなったとの報せが真夜中に入る。病院は車で数分の距離であったから、直ぐに着替えて駆けつけた。自律呼吸をしてはいたが、意識ないままの療養が随分と長かった。誰もが覚悟していたのだったが、それでも寂然たる思いに包まれる。

 静まり返った建屋の末端に霊安室があって、家族のほとんどは故人の迎え入れの準備に自宅に戻っていた。短い間だけであったが、一切の動きなく横臥する肉体と、その長男、そして私だけが薄暗い小部屋に残った。体温との隙間が分からない、暑くもなく涼しくもない夜だった。風はそよとも動かず、厚みのある闇に満たされていた。

 会話もなく、白い布にすっぽり包まれた身体を見下ろし、其処に居るためだけに居る。微かなまどろみに襲われながら、パイプ椅子に腰掛ける傍らの長男の様子をそっと見遣る。大分前に母親を送りはしたが、必ずしも経験が力となる局面ではない。これから数日間、いや、数年間、家長として様ざまな決断を強いられ、挨拶と打ち合わせに忙殺されるに違いない。誰も替わってはくれず、つくづく重い役回りと思う。

 そんな時だった、開いた窓から不意に蝉(せみ)が飛び込んで来て、寝台の上でせわしく旋回した末に壁沿いに着地した。ジジッと一声、つよく鳴いたのだった。ふたりして驚き、一呼吸した後で「ああ、蝉に生まれ変わったのか」と、潤んだ声を長男は漏らした。

 私はこれに応じず、悲愁に囚われた彼に代わってどうにかしないといけないと考えた。老人の転生した姿が仮に蝉だったとして、一体どうすることが出来ようか。家に連れて帰るのか、一緒に寝起きして過ごすのか。早晩、蝉は息絶えるに決まっているのだ。それは何者の死なのか、それをどう解釈したら良いのか。

 家族が戻って、床にうずくまる虫をめぐって会話が為されるのは場にそぐわないし、そこで意見の衝突が起きるのは見たくなかった。一方が信じ、一方がそれを笑うのは辛い場面だ。逃がさぬようにゆっくりと両手でくるむと、部屋を出て廊下の突き当たりから外に出る。植え込みの松の幹につかまらせようとしたが、ぱたぱたと羽音高く飛び上がり、遠くの街路灯の方角に消えてしまった。

 闇のなかで煌々とそこだけまばゆい霊安室を、きっと太陽と見誤り、蝉は飛び込んで来たに過ぎないのだが、今にして思えばこれを亡き親の転生と信じたひとの胸中がよく分かり、あんなに急いで連れ出すまでもなかったと悔やまれる。そうして思うのは、死という抗いがたい瞬間に、人は魂の存在や生まれ変わりを確かに信じられるのであって、その事は極めてリアルで誠実な、哀しみに包まれた人間のごくごく自然な反射なのだ。

 私があの時に揺らがなかったのは、直系の家族でなく喪失感が浅かったからであって、立場が違えばきっと虫の飛来という偶然に奇蹟を見出し、心身ともに縋(すが)り付いたに違いない。いや、一概にこころの迷いと決め付けるのは乱暴じゃないか、もしかしたら、本当に奇蹟だったのかもしれない。情の薄い、冷血な自分が気付かないだけじゃないか。そんな気持ちに今はなっている。

 『GONIN』および『GONINサーガ』で魂の転生を描いた石井隆は、哀しみを抱き続けている人だと思う。死という抗いがたい運命を考え続け、ぐらぐらと揺れ続けていなければ、ここまで強く魂の存在や生まれ変わりを描き続けられまい。誠実でなければ、ここまで生命の境界にこだわれないだろう。娯楽提供の場において、素の自分、胸の奥の洞窟を斯くも厳然と投影させていく作家は稀有ではなかろうか。

(*1): “蝿のはなし”http://grotta-birds.blogspot.jp/2011/11/blog-post.html

2015年10月12日月曜日

“熟達” ~『GONINサーガ』が奏でるもの(5)~


(注意 物語の内容に触れています)

 石井隆による小説「GONINサーガ」(*1)は、同名映画の台本に大幅な加筆をほどこしたものと想像されるが、これを丹念に読み込むことで銀幕上の“不可視領域”にようやっと光が当たり、おぼろげだったものが姿を現わす。物語の軸心となる景色も陰影を転じて、意味合いがまるで違ってくる。

 たとえば、映画においてフリーのルポライター富田慶一(柄本祐)の正体が、“五人組事件”の乱闘に巻き込まれて殉職した警察官の遺児だと割合と早い段階で示される。今は巡査の身となった己の職業身分をひた隠しにしたまま、同じく遺児として育った組員の子供に急接近し、彼らと共に上部暴力組織“五誠会”の金庫襲撃に加わることになるのだが、その際、抵抗した組員のひとり(飯島大介)に対して強盗団は発砲して、これを打ち倒している。

 観客は飯島の大振りな動作と頓狂な台詞が、十九年前の『GONIN』(1995)で彼自身が演じてみせた男のそれを忠実に再現していることに気付く。また、旧作で連鎖殺人の口火となった同様の発砲が、竹中直人演じる気の触れたサラリーマンによる暴発であった事を思い出し、網膜の裏にこれを再生してデジャブに近い酩酊を味わう。どっと床に倒れてみせる姿に役者の妙味と演出の毒を感じ、記憶の甘美なるトレースを味わいながら笑いを押さえ切れずにいた訳である。

 だが、闇金店長を亡き者にしたこの度の号砲を、一体誰が鳴らしたか、その点を吟味する時間は一切与えられない。私を含めた大概の観客は、雑居ビルの一隅での切迫したやり取りに五感を押し切られてしまい、そんな“些細な事”にこだわっておられないのだった。目を見開き、全てを見ていながらも、気に止める余裕が無い。

 それがどうした、誰が撃ったところで関係なかろう、と考える人だって多いに違いないが、私には、観客の興味を引かないこの描写が、石井が意図的に照明を反らした“不可視領域”の好例と思える。そこからは、何らかの囁きが発せられていないか。大切な何かを語って来ないか。

 原作小説に当たれば、この店長には“小池宗一”という名が与えられおり、前歴はどうだったかといえば、「あの雨の夜に死体置き場の検死を仕切っていた元マル暴の刑事」(151頁)とある。確かに言われてみれば、映画でも縁なし帽子を被った小池が病院前の駐車場にいて、暴力団員と遺族との切迫したやり取りを遠目に確認しながらも不自然に距離を置く姿が認められるのだった。

 暴力団関係者が乱暴に押し寄せるのを「不審げな態度の警察官を制して」(110頁)入場させたり、団員のひとりの「松浦が小池に挨拶して、何やら情報交換をしている」(111頁)様子を石井は小説中のト書きで描いてもいるから、この当時から小池という男は裏社会に取り込まれていた訳である。こういう脇役の背景を映画では曖昧にぼかしており、小説(台本)の精読なくしては到達し得ない。

 この襲撃場面では、ブレーキ無用と心に決めたらしい石井が説明を吹っ飛ばしている箇所がさらにあって、それはルポライター富田が周到に準備した変装用リアルマスクに関する仔細だ。現実にあるマスク製作会社のホームページには、写真一枚から作成が可能という記述があるが、富田もまた手持ちの写真を提供してマスクの造形を依頼したと想像される。小説中でマスクに触れる箇所を書き写してみる。石井は“不可視”を巧みに操ることがある旨、先に書いたけれど、以下の記述を読むことで納得してもらえるのではないか。

 慶一が大きなバッグの中から、誰の写真で作ったのか、その人とそっくりそのまま、実物大の凹凸まで再現したリアルマスクを三個取り出して二人に渡した。
「ええええ?誰かに似てね?」
「勇人、お前にそっくりじゃね?」
「何処がですか?でも、よく似てるな~ジュニアに」
「俺じゃねって。マッポかな?」
 子供のような笑顔で被(かぶ)りながら、笑いがこみ上げて来て、止まらない。(221頁)

 ジュニアとは大越大輔(桐谷健太)のことであり、マッポは富田のことだ。変装用に警察の制服を準備して来たことに驚き、勇人(東出昌大)と大輔は富田のことを警察マニアと決め込むのだった。仕上がった映画においては上記の問答がほぼ全て割愛され、突如登場したリアルマスクを三人は頓着なく使用するに至るのだが、石井はわざわざ順を追って三人とは似ていないことを説明している。この持って回った台詞はどうだろう。

 おまえじゃないかと振られた富田はこれに答えないから、不自然な空白がぽっかりと捨て置かれる。これから強盗に入る犯人が自分そっくりのマスクを作るはずもないし、実際映画でのそれもルポライターの顔とはそれほど似ていないから、話は尻切れトンボで終わっても無理が掛からぬ道理だ。実在する人間の顔と寸分違わぬリアルさでも、自分らと似ていなければ問題ないのだ。しかし、それにしても誰の顔なのか、どうして説明をしないのか。

 マスクも、それから上の鑑識の身なりで佇む小池にしても、これ等はありありと銀幕上に現われているにかかわらず、さながら目に映らぬ霊魂のごとく“不可視の性格”をもって私たちの意識からそらされ、巧妙に隠匿されている。この油断ならぬ沈黙こそ、石井世界の醍醐味であり怖さと経験的に思う。ふと立ち止まって思案を始めると、これが実になかなか剣呑で奥深い。

 奇妙な会話と前後の流れから私たちは、このリアルマスクの元となった写真は殉職した警官、森澤(富田)慶一の父親の顔を写したものに違いないと今になって確信する訳だ。ふん、それがどうした、と言う声がまた聞こえてきそうだ。最初は私もそうだった。それがどうした、“些細なこと”じゃないか、劇の大勢に影響はあるまい。だが、そこに至っておもむろに指し出される事実を何度か噛み締めているうちに、いつしか恐怖し、どうにも震えが止まらなくなる。

 すなわち、森澤(富田)は父親と同じ服装と父親の顔で殴りこみをかける、そういう捨て身の、露悪的で極めて無謀な、片道切符の復讐劇に一歩足を踏み出しているのであり、かつての父親の同僚で裏切り者の元警官小池を、最初から殺すつもりで狙い撃ちしたという事が無言のまま提示されているのだった。劇中、森澤(富田)の射撃の腕は“熟達”レベルという説明もあるから、あの時、急所を外す事などいとも簡単だったろうにそれをしていない。前作の素人による偶発的な射出とは、外観こそ相似していながら全く異なる事態が発動している。現金強奪ではなく、意識的な人殺しが最初から劇の前半に置かれているのであって、蒼く冷たく燃えさかる復讐の炎が、森澤(富田)という男の全身の穴という穴から吹き上がって感じられる。

 もしかしたら最初から殺すつもりだった男を葬っておきながら、黒々とした歓喜を噯(おくび)にも出さない森澤(富田)は、その後も能面のように表情を閉じ込めながら事件に関わる全てを焼き尽くしていくのであるが、何も森澤(富田)の胸中に限ってはいないのだ。これと似た重大な“不可視”が『GONINサーガ』の至るところに在るのであって、それを多角的に読み解き、上映中は思案が許されなかった空隙を埋める作業を行なうのは重要な事と思う。『GONINサーガ』の世界は確実に変貌する。変貌を経て、そこで『GONINサーガ』は完成する。

(*1):「GONIN サーガ」(石井隆 KADOKAWA/角川書店 2015) 文中の括弧内は引用頁を指す。


2015年10月11日日曜日

“不可視” ~『GONINサーガ』が奏でるもの(4)~


 こんな場面を想い描いてもらいたい。貴方が馴染みの画廊に足を運んで、一枚の風景画に見入っていたとする。夕暮れの人気のない河原が描かれた10号の作品で、空には雲がたなびき、薄(すすき)が揺れている。水面がきらきらと落陽に輝いている。

 画家が偶然居合わせており、画廊のおんな主人から一緒にお茶でも飲もうと声を掛けられる。挨拶して話を聞くうち、先程目にとまった河原の絵について貴方は質問したくなる。自分のほかに客もいない事に甘えて、少しだけ絵描きの内面世界に近寄りたい、そんな欲張るこころが生まれたのだ。どこを描いたのか、この町の川辺だろうか。画家はこれに誠実に答えた後、貴方に気持ちを許したのだろう、絵の中の光線に亡き家族を重ねていると吐露したのだった。

 さて、貴方は画家の言葉を聞いてどう思うだろう。大概のひとは胸を射抜かれ、わずかに息を止めて静かに頷き、改めて壁の絵に目をやるのではなかろうか。反射して白くざわめく光の粒や雲間からやわらかく射して地に落ちていく帯(おび)状の陽光のなかに、亡き人のまなざしを認めると共に、それを希求して止まない画家の切実な祈りを感じていく事だろう。

 では、これに続いて画家が貴方に向って、ご覧なさい、あの光の右の帯と左の帯に挟まれて細い隙間があるでしょう、そこに居るじゃありませんか、と初めて聞く画家の家族だったらしい人の名前を上げたならどうだ。光ではなく、その脇の隙間とは───どんなに目を凝らしても其処には、空っぽの、何も起きていない、何もいない空間が広がっているばかりなのだ。画廊の主人の手前、貴方は目を細めて絵の方に顔を向けながら、画家という職業の抱える業の深さにおののくに違いない。絵画とはそこまで魂と直結した表現なのか、自分はなんて浅はかだったろう、画布の表面しか見れていないじゃないか、と、もしかしたら自分の不明を恥じ、画家との予期せぬ出逢いを感謝したかもしれない。

 もしも、それが絵画ではなく写真だったら、では、貴方の気持ちはどうであろう。茫漠とした景色の広がる中に、雲間から光が射している。ご覧なさい、光の脇のところ、そこに居るじゃありませんか、と呼び掛けられた直後、あなたはその座を辞したいと願うはずだ。空虚のみが居座って見える風景の奥に、強い調子で故人の立ち姿を指摘されて唖然としない者、恐怖しない人は皆無だろう。

 上の話は私がひり出した下手な例え話に過ぎないのだが、実は似たような打ち明けを私たちは石井隆から、インタビュウ記事を通じて何度か囁かれている。劇空間で葬られたはずの者が、明界(このよ)に残る知り合いの周辺に出没することが石井世界では数多くある。もちろん幽霊譚は石井の専売特許であるはずもなく、ジャンルを越えた創作全般に君臨するモチーフであり、これまでも、そして今後も絶えず採用され続ける普遍的な描写に過ぎないけれど、私がここであえて書こうとするのは通常の描き方を遥かに超越した意外な表現手段であって、それを石井は今でも絶えず模索しているらしいという推測だ。

 ここまで書くと石井世界の追尾を行なっている評論家や熱心なファンは気付くだろうけれど、石井は『ヌードの夜』(1993)の終盤で、根津甚八が演ずる行方(なめかた)という男の亡霊をフィルム上に“空隙(くうげき)”という手法で描いた。借金に追われて精神錯乱した男(岩松了)に名美(余貴美子)が銃で撃たれて床に崩れる場面があるのだが、そこで石井は名美の座るソファの隣りに大人一名が座れるだけの空きを用意し、不自然な構図で撮影する事で男の亡霊のそこに身じろぎもせず座り、事の成り行きを凝っと見守っていることを表現してみせたのだった。これは本当に驚愕すべき手法であって、一歩間違えば狂人扱いされかねない危険な描画であろう。

 私は霊の存在を一概に否定しないし、この世に彼らと交信したり、彼らの姿を日常空間で目撃している特別な素質の有る人がいても不思議はないと考えている。しかし、現行の撮影技術では霊体を明確な対象として定着させる術はなく、仮に劇空間に彼らを登場させる場合には生きた役者であれ、ギミックを用意し、また、光や音響を駆使して輪郭を揃えることで“可視化”するより他ない。太陽光や虹、星のまたたき、流れ星、蝋燭の火のゆらぎ、一陣の風、はためくカーテン、時には空っぽの空間に向って話し掛けたり耳を澄ます人物を配置し、自然描写と広く呼べるものを代用して画面に宛(あて)がい、霊体の“可視化”を試みていく。

 今のところは“不可視”なものはとことん“不可視”なままであり、銀幕に映されない存在である以上は、どうにかこうにか手段を講じて“可視化”した上で観客に差し出すより仕方ないのであって、これら技巧なくして霊体の出没を第三者に伝えることは難しいのだけれど、『ヌードの夜』において石井は禁じ手とも呼べる“不可視”の提示に踏み切った訳である。

 さすがにこういった大胆不敵で分かりづらい、というよりも石井が開示せぬ限りほとんど誰も分からない表現手法を、その後の石井は自らに封じて来たのだけど、それでも彼ならではの創意が続いているのは最新作『GONINサーガ』(2015)を観ても明らかだろう。

 霊魂の出現や心霊現象はオーソドックスな方法を採った『GONINサーガ』だったが、それとは別に人物の描写において、“不可視的領域”とでも称すべき暗部が広がっている。すなわち、観客が観賞中には掌握し切れないか、はたまた観客の目や耳からは隠蔽された“見えざる情報”が幾つも有るのに、石井はそれに逡巡することなく、いや、むしろ確信犯的に、物語中に一気呵成に押し込み、最後まで突き進むという不敵この上ない筆づかいに撤している。説明が過多との感想が多いけれど、私の目と耳には全くその逆であって、これ程までに暗闇の色濃い作品はあまり無いように思う。

 玩読(がんどく)する時間を与えられぬまま、私たち観客は凄まじい銃撃戦を次々に目撃し、身体をうち震わせながら座席に取り残されるのだけど、その後で原作小説本の行間を読むなり、残像を繋ぎ合わせ、再度劇場に足を運ぶことでようやくそこで現況や過去、登場人物の心理が“可視化”されていく。いよいよ熟考と推測が私たちの内部で開始され、自分なりに答えを導く次元に至ったとき、『GONINサーガ』はさらに酷烈な地獄の口を開いていく。



2015年10月7日水曜日

“ガーベラ”

 先日、車で帰宅の際、家に近づくにつれ、手前三十メートルあたりから違和感に襲われた。黒色のこんもりした物体が玄関脇に置かれてあり、直ぐに不吉なものと分かった。これから行なわなければならない一連の仕事を思うと、ひどく気が滅入った。

 案の定それは手足を投げ出した動物の骸(むくろ)であり、なんと白鼻芯だった。尻尾まで含めると三尺ほどもある立派な成獣で、茶色の毛並みは艶があり、よく肥えている。目を見開いて口をゆがめているのが少し苦しそうで哀れだったが、大きな傷口はなく、ぱっと見は血だまりもない。後で分かったのだが反対側の地面に接した口の端から滴ったものがあって、シングルレコード程の大きさに広がっていた。

 周囲を見渡すと道路の真ん中で衝突したのは明らかで、其処のところだけ重吹(しぶ)いた痕があった。車の往来が途切れるのを待ち、寄って立ってみれば、けれど凄惨な感じは全然なくって、真っ赤な一輪のガーベラの花弁が散ったような、ささやかな真紅の痕なのだった。おそらく白鼻芯はそこでぶつかった後、我が家のところまで走って来て、そこでついに力尽きたものと思われる。

 家族に知れて悪戯に騒ぎ立てられるのは面倒だし、気持ちの上でも波が起きるのは避けたかった。大きめのビニール袋を物置から持ってきて、シート越しに細長い身体を素早く持ち上げ(結構重たかった)、念仏など唱えつつ二重に袋で包み込み、ダンボール箱の中にそっと仕舞ってやる。衝突地点は車の行き来もあるし、とりあえず家の前の血だまりだけをバケツに水を何度か汲んで往復し、洗い流し、形跡の除去に努める。血はさらさらしてまだ軟らかく、そう時間も経っていないらしかった。

 役所の担当部署に引取りをお願いしたのだったが、その際に公共の場、すなわち道路上に屍骸がないと持ち帰れぬ規則と言う。直ぐに回収車を立ち寄らせるとのこと。やって来た職員との押し問答は面倒だから、事故の現場はそのまま温存すべきと考えた。また、実際のところ、道の真ん中までバケツとブラシを携えて行き、ごしごしと清掃するのがやり過ぎの気持ちもして、あとは雨に任せよう、自分の役目はこれで終いと思った。しばらくするとピンク色の回収車が現われ、可哀相な白鼻芯を詰めた粗末な紙の棺(ひつぎ)はどこかへと運ばれて行った。

 あれからまだ雨は降らず、落花とも花火とも見える痕跡は道路に貼り付いたままだ。道行く車も歩行者も、自転車で通学する高校生も、まるで気付くことはなく其処を通り過ぎていく。一個の命が残した印を、私以外の誰も分からぬまま走り去り、やがて幾度か雨が降れば、あの四方へと赤く線を描いて飛ぶ最期の名残りも一切が流れ去ってしまい、私でさえ忘れてしまうだろう。

 仮に道路にカメラを向けて撮ったならば、何かが写るものだろうか。一部がほんの僅かに黒ずんでいるだけの、おそらくは至極ありふれた町の風景が定着なるだけであって、空っぽの、何も起きていない、何もいない空間だけが広がっているのじゃないか。あの立派な身体と愛嬌ある顔の獣が、颯爽と道を横切る姿を幻視できる者はほとんどいない。空虚のみが其処に居座っている。

2015年10月4日日曜日

“橋面(きょうめん)から見下ろすもの” ~『GONINサーガ』が奏でるもの(3)~


(注意 物語の結末に触れています)

 『GONINサーガ』(2015)という河には三層があって、水底の流れ、水面の流れに加えて、もう一箇所、さながら川をまたぐ橋の上の方から無言のままたたずみ、じっと下方を見つめる集団が居る。知っての通り“死者たち”なのだけれど、劇中の何処にどんな容貌、いかなる風情で出没するかはあえて書かない。

 強調したいのは、石井作品の劇中において、死を経て霊体化する現象には事欠かないという点だ。『月下の蘭』(1991)、『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)、『ヌードの夜』(1993)、『GONIN』(1995)、『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)、『フィギュアなあなた』(2013)、『甘い鞭』(同)という作品には先に逝った者が遺された者の“始末”を手助けするがごとく不意を討って出現し、去来する様ざまな想いをこめた瞳で凝っとこちらを見やる場面が登場する。石井作品には霊的存在との共存が常にあって、だから今回の劇中の彼らにつき違和感を一切感じなかったのだけど、19年を経て執拗にまとわりつく彼らの存在感が際立っていて、『GONINサーガ』(2015)という作品の影の主役となって感じられる。

 『GONINサーガ』で明確に実体化した霊魂(および霊現象)につき、私たちはどのように捉えるべきか。考えを若干整理してみたい。それは当作のみならず、石井隆という作家の死生観や彼の創り出す物語全般の見方を探る上で意味ある作業と思えるからだ。

 これまでの石井の劇において、話の大前提として、彼らが実存しているのかどうか、これさえも曖昧であった。熱病や狂気(臨死体験を含む)に侵された者の幻影という状況説明がほとんど並走しており、観客に限らず劇中人物も判断の留保を余儀なくされる。(*1)  明確に自分自身を霊と名乗ることはないのだし、現れたら現れたで、なんとなくその思いの丈を窺い知ることは出来そうなのだけど、目的があるのか無いのか判然としない場合が多いのだった。あまりに唐突に出現して、表情も乏しく、やがて煙のように消え失せてしまう。 

 復讐のために明界(このよ)に舞い戻る「四谷怪談」であったり、処刑される恨みを晴らさんと末代まで祟ってやると絶叫し、それがきっかけで摩訶不思議な物語がスタートする「南総里見八犬伝」の玉梓(たまづさ)のように、霊的なるものが確固たる名乗りを上げ、その強烈な意志や主張が劇の主軸となることは物語空間では膨大な数としてあるのだけど、石井の劇では一見、怨みや祟りが物語の燃焼機関となって燃え盛ることはなく、たたずむ者、見つめる者としての立ち位置を彼らはほとんど崩そうとしない。一貫してその辺りは変わらないのではなかったか。

 しかし、今回の『GONINサーガ』では手を変え品を変え、複数の霊術が挿し入れられており、随分とにぎやかな印象を受けるのだった。これは、今作の目立った表情と言って差し支えないように思う。全くもって騒々しい彼ら(それ等)を強いて呼ぶなら、はてさて、幽霊なのだろうか、それともお化けなのだろうか。怨霊とでも呼ぶべきまがまがしき存在なのだろうか。だいたいにしてそんな色分けが石井世界で為されているものだろうか。

 古い本になってしまうが、「日本の幽霊」池田弥三郎著(中央公論社 1959)を手元に置いて助力を乞う。これと同じ姿かたちのものが、生前の井上ひさしの書庫にも収められていた。あちこちに細かく丁寧なメモ入りの紙片が挟まれており、熱心に消化した形跡があったのが瞳に焼き付いているが、なるほど池田の文体は軟らかく、体系付けて書かれており分かりやすい。論じる速度も緩やかで浮力もあり、凡人の頭でも至極読みやすい。

 池田によれば日本の“ゆうれい”の特色は、「相手がどこにいようとも、特定のその人の目前に現れようとしたら、どこへでも出て来る」(31頁)事だそうである。「人を目指して出現する」これを「幽霊」という漢字を当ててはどうかと説いている。

 また、「雨月物語」の「浅茅が宿」の女の“ゆうれい”は七年以上の別離の間、主人の帰りを待ちわび、また、「今昔物語集」の巻二十七の「人妻、死して後に本の形にとなりて旧夫に会う物語」ではどの程度の月日かは書いていないが、「男のいる任地へなり、出かけて行ったらよさそうなものなのに、出かけないでじっと待っていた」律儀なものとして描かれる。「そのゆかりの土地、場所において、この世に執念の残る者」であり、この手の“ゆうれい”は時として「人を選ばない」、「その場所に偶然行き合わせた者なら誰でもその怪異にぶつからねばならない」存在となっていく。「その代わり、この方のゆうれいに会わないためには、そこを出ると知ってさえいればいいわけで、そこに行くことを避けさえすればいい」のである。池田は先の「幽霊」と区別して、こちらを「妖怪」と称した上で考察を深めていく。
  
 面白いのでもう少しだけ書き写したいのだが、池田はこの「幽霊」と「妖怪」に共通する論点として「恨みのあるなしということが重なって来る」のであり、特に「幽霊」ともなると大概が恨みを持っているがゆえに、常識的に「恨めしや」と言いながら出現する、それが世間一般での考え方と読者に同意を求めていく。確かにそう思わざるをえない。怪談映画のぞっとする場面をたくさん思い出す。

 しかし、ここからが池田の秀でたところで、間髪いれず生前の泉鏡花と交わした会話内容を振りかえり、どうもこの常識的な幽霊像が「ある一部に極度に発達した」ものではないかという疑問を提示し、加えて「歌舞伎芝居」を通じ、特に「敵討ち」の劇を経過することで、「怨霊」として人為的に発動したものらしい、との推察を巡らしている。人が娯楽目的に作った物語が、観客の、さらにはわが国の民俗全般の実態に徐々に影響を及ぼし、「特定の誰彼ばかりではなく、その人を含めた一家一門、あるいはその住む村なり町なりへ、恨みのほこ先が向けられて行く」ように造作されてしまったと結論づける。(38-49頁)

 例外的なもの、特異なものもあるだろうから整然と区分け出来る分野でも当然ない訳だけど、本来の日本的な“ゆうれい”、古くは“もの”(もののけ「物の怪」や、もののふ「武士」というように展開)と呼称された精霊のような存在は、そこまで恨みがましい黒々とした影を引きずってはいなかったらしい。そりゃそうだろう、誰もが深い恨みを抱いて死ぬ訳ではないのだし、けれども誰もが現世にほんの少しの未練を残して命日や盆には生者の元に帰還する。それが私たちの隣人の本来の姿だ。日頃は漠然と恐れていた彼らを、少し身近に、等身大に感じられて得難い読書であった。

 もちろん読んだ目的は石井世界での、何より『GONINサーガ』での霊示や霊障を考える時間であったから、読み進める流れのなかで次々と記憶と知識が結束して随分と刺激を受けている。結論から言えば石井作品での幽霊譚は、『ヌードの夜』(1993)がその代表格だけど、想いを残した人に対して憑くところがあって、現世のあちこちに建っている家屋に住み着くような「妖怪」では決して無いように思う。劇画のタナトス四部作や『フィギュアのあなた』(2006)のような、彼らが住まう夜の廃墟は既に越境を果たして後の冥界(あのよ)であるか、生死の境界上に裂けたほころびと決まっているのであって、未練がましく明界(このよ)の現存する不動産物件に身もこころも縛られては見えない。

 恨みを深く抱き、祟(たた)ることも皆無なのであって、池田の指すところの古き“もの”に性質は極めて近しいように思われる。たとえば劇画【黒の天使】(1981)で主人公のおんな殺し屋が営むスナックに夜霧とともに出没する被害者たちは、誰もが押し黙ってカウンター席に座るのみであって、これからおんなの身を襲うだろう数奇な運命を微かな片笑みを作って暗示するばかりだ。彼らは乱暴ではなく、どちらかと言えば非力だ。

 石井の作品を観ていて常に感じるのは、人間という存在に対する全幅の肯定なのだが、この視線がそのまま滑空して死者へも行き着いている。彼らは現世を破壊しに舞い戻るのではなく、運命悲劇に苛まれる知人や家族を常に見守る存在となり、時々はほんの少しだけ力を貸していく。『GONINサーガ』の彼らも、だからそのように捉えて良いのではなかろうか。

 言語学を学んだ身でないので勘違いと笑われそうだけど、石井作品全般の雰囲気を簡潔に表わすならば、それは通常の領域からほんの少し強めであったり、ほんの僅か逸脱したりした表現の連結ではないか。つまりは“物”寂しく、“物”悲しく、“物”狂おしく、“物”恐ろしい描写となってはいないか。石井作品とは作者本人が意図したにせよ偶然にせよ、精霊にあふれた風景の連なりと思う。

 長々と書いてしまったが、このたびの『GONINサーガ』の“物”凄い描写の釣瓶打ちは、複数の死者に常に見守られた現場(劇としても、もしかしたら現実としても、)であったように受け止めている。そこを汲んで鑑賞すれば、銀幕の表面積はぐんと広がり、私たちをすっぽりと包み込むだろう。愛しさと儚さが添い歩んで、なんとも言い得ない涙が流れた。

 別の本、加藤耕一著「「幽霊屋敷」の文化史」(講談社現代新書 2009 125-147頁)によれば、18世紀末に発明された映画の前身とも呼べるファンタスマゴリー Fantasmagorieは、鎌を手にした骸骨や革命や政争で露と散った死者を投影する幽霊ショーであったらしいから、映画という道具は本源的に死者と出逢うように作られている。確かにそんな感じを受ける。『GONINサーガ』を観る時間は、死者のことを各人ひとりひとりにじっくり考えさせてくれる、そんな貴重なものとなっている。

(*1):暉峻(てるおか)康隆の「幽霊 メイド・イン・ジャパン」(桐原書店 1991)の中では、明治の開国にともなう近代教育によって、怨霊信仰は「迷信として退けられ、あるいは錯乱状態における幻影と解釈されるようになった」のであり、その末にかろうじて演劇や話芸といった娯楽として生き延びたと解説されている。(198頁) 亡霊に悩まされるのは、その人が神経病の患者となった証拠な訳である。石井の劇ではこういった病理学的な要素を常に盛り込んでいながらも、死者に対する怖れや憧憬を完全には断ち切れていない。西洋的近代的な論理と日本独自の民俗信仰の狭間に置かれた朦朧状態となっており、それは私たちそれぞれの根本に横たわる不透明感としっかり同期している。全くもって見事な、現代日本人の等身大の鏡像と呼べそうに思う。 

“釣り人と野獣” ~『GONINサーガ』が奏でるもの(2)~


(注意 物語の結末に触れています)

 父親たちの流した血や精の臭いに曳かれるようにして、若者たちが鮭のごとく過去へと時空の川を遡上していくのが『GONINサーガ』(2015)の印象と先に書いたが、スクリーンに再度目を凝らせば、岸辺の岩陰に潜んでいる別の存在のあることに気付く。喩えるならば“釣り人”に当たるのが菊池麻美と呼ばれるおんな(土屋アンナ)であって、これがなかなかの曲者であり、また同時に実に健気な娘でもあって、ここに視座を据え直して観る『GONINサーガ』はかなり強靭で貪欲な復讐劇へと開花していく。

 石井隆は土屋の創る表情に、一瞬だけ前後の拍子とは異なる不穏なる一拍を刻んでみせるのだが、それは古くから石井世界に注視している読み手には馴染みの【おんなの顔】である。過去の石井の例えばどの作品と連環するかは先日の「キネマ旬報」誌(*1)に書かせていただいた通りだ。名美的人格を具えたおんなが世界を破滅に追い込む、石井劇の典型的な色調が『GONINサーガ』にはさりげなく宿されている。

 華奢な体躯に想像を超えた瞬発力を湛えたその白い肌の釣り人は、岩陰に隠れ、網を張り、時にはウェーダー(胴長靴)をまとい川に半身を浸しながら、水面下に群れ集う鮭たちを一網打尽にすべく息を止め、とげとげしい気配を柔肌の奥に消していくのであって、そのとき川面(かわも)は水鏡となって、そんな孤独な狩猟の路を選ぶしかなかったおんなの影を映していく。善と悪、衝動と打算、自己愛と献身、さまざまに分裂するおんなの容姿を鏡面が映し出し、複雑な光を幾重にも反射し続ける。

 地位と異性をめぐって、ばちゃばちゃと水しぶきを上げながら同士討ちを続ける男たちの様子を一歩高い場所から覗き見しながら、この美しい釣り人は内心してやったりと微笑んだのかもしれないのだが、石井は背後から黒く獰猛な「運命」という凶暴な野生熊を解き放ち、けしかけ、川底でのたうつ瀕死の鮭たちを大きな爪で切り裂き、ついでこの釣り人も血祭りに上げている。川辺に下り立ち、容赦なく魚影を襲い、おんなの細いのど笛に喰らいつく羆(ひぐま)化した演出家のまなざしに、恐怖とも安心とも区別のつかぬ長い溜め息をついてしまった。無残この上ない逆襲劇、逡巡の間を許さぬ窒息感こそが石井隆の「風景画」であって、大作『GONINサーガ』に隠されたダブルイメージとなっている。

 物語の顛末に関わるので詳細は伏せるが、土屋アンナという人間が持つ彼女本来の才覚は、劇中の役どころ、麻美の出自や気性と隙間なく合致しており、輸血管を通じて血液を交換するが如き一体感が築かれて絶品と思う。喝采に値するキャスティングであって、明らかに作品の体温を数度上げている。この点も含めて『GONINサーガ』は、石井世界をしたたかに貫く女性映画の奔流の確かな一滴として記憶に長く留まるだろう。

(*1):「キネマ旬報 2015年10月上旬号 №1699」 34-35頁

“遡上”~『GONINサーガ』が奏でるもの(1)~


(注意 物語の結末に触れています)

 暦を一枚めくると、夏の余熱が街路から失われ、肌になじんだ大気が途端に冷たさを増して感じられる。あんなにも優しかった愛撫が、容赦ない平手打ちへと一変する。呆然して口をつむぎ、しばらくは思考が滞(とどこお)る。

 いつもそんな端境(はざかい)の時期に当たるのだけれど、住まいからごく近い場所を流れる、幅は大して広くはない川を、鮭の一群が遡上(そじょう)する様子が観察される。橋の欄干から身を乗り出して川面(かわも)に目を凝らすと、黒い魚影がいくつもたゆたい、うち何匹かは雌を追いかけて盛んに周回している。生殖を目的として集う彼らからは盛んなエロスが放射されるせいもあって、見ると決まって興奮を覚える。それより何より、この地が80kmほども内陸にあり、沿岸部から遠く離れていることに心底驚く。周囲は緑濃い山波に覆われている。よくぞここまで泳ぎ着けたものだ、と見下ろす度に感に堪えない。

 どうしてこんな事を書くかと言えば、先日観た『GONINサーガ』(2015)がつよく連想を誘うためだ。まだ観ておらぬ人に対して非礼とならぬよう、輪郭なり全般的な色彩につき語るより仕方ないのだけど、『GONINサーガ』という映画には“遡上”のイメージが付きまとっている。いや、構造上ありありと刻印されてもいる。冒頭で何を描き、結末に何をどのような手法で置いたのか、その点だけでも作り手内部の遡行しようとする劇構造が十分に読み取れる。

 もっとも、これは個人の抱いた心象にすぎないから、人によっては全然違って見えるかもしれない。たとえばウェブを手探ると、膨大な感想がゆらゆらと立ち昇るのを遠目にできる段階なのだけれど、その中には“底”から“天”へと突き抜ける上昇流を目撃してしまった人もいて、なるほど、そういう捉え方もあるかと感心してしまう。そもそも映画という媒体は、多層性や多面体であることが肝だろう。百人いれば百様の『GONINサーガ』が産まれるのが理(ことわり)だ。どのような反応を生じても不正解がないのが『GONINサーガ』という映画なのだけど、いまの私は“天”を仰ぐことが適わずにいる。劇中に点在するのは、物狂おしいまでの横移動だったからだ。上昇運動をそれとなく抑制し、観客の感情を軽くしないように工夫する演出が見受けられた。

 『GONINサーガ』に繰り返される横移動は、暴力的な襲撃場面や、瀕死の人物が床を這う動作に代表される訳だけど、思い返せば石井作品において横移動というものは、忌まわしさ、死へと傾斜を深める踏み台として機能していた。失神寸前で廃屋に引きずられてゆく者、たとえば『甘い鞭』(2013)での間宮夕貴であるとか、今際の際にある男が運命の相手と信じるおんなに這い寄ろうともがく、たとえば『天使のはらわた 赤い淫画』(1981 監督池田敏春)での阿部雅彦や『花と蛇』(2004)の石橋蓮司などが石井世界の横移動の極北として在るのだが、そのために私の奥では緊張を強いられてしまって最初から最後までどきどきさせられ通しだった。

 石井作品の過去作には稲妻のごとき走り、陸上短距離選手に似た疾走描写もあり、『GONIN』(1995)でバスターミナルから逃げ出す本木雅弘や、『黒の天使 Vol.2』(1999)の開幕を飾った天海祐希の姿勢の良い駆け姿を瞬時に思い出すのだが、『GONINサーガ』のそれは似た状況ながらいつもと風合いが違っていた点は特筆すべきだろう。若く強靭な肉体が右往左往していく様子であって、こういう何処に転がるか先が読めない左右に揺れた歩行の畳み掛けは石井作品ではあまり前例がない。足裏が地面に着かない仮死状態であるならば、こちらもすっかりまな板の鯉と観念して流れに身を任すことになるのだけれど、『GONINサーガ』は私たちの推量や得心を蹴散らす強固な迷走感をそなえている。

 目撃するのは、銃火にさらされ、緊張にこころをぺしゃんこに潰され、砲弾の雨に逃げまどう前線のとりわけ塹壕戦での兵士の風体なのだった。例をあげれば中盤に挿し込まれる賭博場での銃撃シーンなんかがそうであって、長い通路をひた走る東出昌大(ひがしでまさひろ)の背中は丸まり、床面に手を付くような超低空飛行の体であって、格好は見た目にはあまりよろしくない。

 旧作でも主要な舞台となったディスコ「バーズ」のダンスフロアの床下には暗渠めいた隙間があったという設定で、そこに彼らが潜入する場面があるのだけれど、間狭なセットに押し込められ苦労して移動する若者たちの様子なども含めて、戦争映画に似た手触りがある。「キネマ旬報」に連載された撮影日記(*1)から、この「バーズ」の基礎部分の天井の低さは意図的にぎりぎりまで縮めた結果なのだとも分かっている。

 『GONINサーガ』で顕著なこの“匍匐(ほふく)前進”に近しい重量感ある平行移動のイメージは、だから石井によって執拗に、かなり意識して仕込まれたと言えるだろう。「バーズ」のダンスフロアは広い階段を登り詰めた上層階にあるはずなのだが、床下への潜入時にはエレベーターを使っての昇降場面を一切省き、あたかもダンスフロアが段差のない一階に位置すると錯覚させるような巧みな編集さえ施しているのであって、結果的に私たちの気持ちを地べたに縛りつけることに成功している。

 『GONINサーガ』を鮭の遡上と重ね見る理由は、以上にあげたような幾度も挿入される前傾もしくは腹這う姿勢での切迫した局面や、はげしい風雨に抗う者たちの“のたうつ”ビジュアルが有るからだ。痛手を負い、もがきながらも歩みを止めない劇中の若者たちと、背びれや胴体の上部を危険な水上に晒し、浅瀬のごつごつした岩に腹をぶつけ、おびただしい切り傷を負いながらも“源流”へむけて死に物狂いで遡上する魚たちの様子は通底するところがあり、あながち的外れな連想とは捉えていない。

 だいたいにして映画『GONINサーガ』は、母親たる存在が一部描かれはするものの、圧倒的に父親にまつわる思慕、憧憬に終始している。胎内回帰の物語ではなく、放精(ほうせい)に対する幻視や本能のささやきが後押しする母川(ぼせん)への旅の物語と捉えてよい。(*2)

 父親たちの生き死にが描かれた旧作『GONIN』が、幕引きの長距離バスでの都落ちが象徴するように、上層から下層へと流れ落ちる話であったのに対し、『GONINサーガ』は現在から過去へと、彼らの肉体と精神の今を形成した特別な刻(とき)と特別な場処へと旅していく。生命の焔(ほむら)が最もかがやく繁殖期の鮭たちと同様に、『GONINサーガ』の若者たちも怖れを知らず、死を意識せず、ひたすらに水流を縫って川上を目指すのであって、その辺りもまた石井世界にあっては特殊で猛々しい顔立ちとなっているのが大変に面白かった。

 物語にうごめく人物は幾たりかを除いて泰然として血色よろしく、自尊心を持った者として描かれたのも、石井の劇世界においては異色であった。彼らは社会の不適格者、運に見放されたもの、捨てられた者、常軌を逸して後戻りできない者とは自身を完全には見切っておらず、苦境のなかでも目線を下げることがない。これはバブル終焉から年数が経過し、社会人となった当初から辛苦にまみれて暮らしている2015年現在の若者像に同期するところであって、この逞しさ、したたかさを実にリアルなものと受け止めているところだけれど、そんな活きの良い若い世代の俳優たちが、活きのよい役柄を演じつつ見せる豪快な泳ぎを見るのが『GONINサーガ』鑑賞の心得と言えるだろう。

 ここまで書いてしまうと、なにやら『GONINサーガ』とは今をときめく東出、桐谷健太(きりたにけんた)といった男優たちが逆三角形の締まった裸身を惜しげもなく晒してする水泳大会と思われてしまいそうだが、石井隆は人間という存在の“始末”について当初から描き続ける「血の作家」である以上、穏やかなまま彼らが泳ぎ切れるはずもないのは自明であって、そのあたりは決して譲らず、断固たる仕上げを行なっている。それが何時にも増して凄絶で驚いた。

 放精と産卵を終えると急激に衰えを見せ、あれほど生命力を充溢させていた鮭たちは一週間足らずですべてが死に絶える。これを“弊死(へいし)”と呼ぶらしいのだが、遡上を果たした『GONINサーガ』の若者たちも当然ながら浅瀬に打ち上げられるようにして、唐突な死を迎える。昨今の映画雑誌を飾るグラビア然とした綺麗ですがすがしい終わりを用意することなく、生臭さを幻嗅(げんきゅう)させる血と水がどろりと混ざり合った汚水に彼らの骸(むくろ)は捨て置かれるのだが、その一切の遠慮の無さがやはり映画監督にして画家石井隆の到達点なのだ。当方のひそかに準備した脳内ビジュアルを軽々と凌駕してみせて、ただただひれ伏す気持ちでいる。

(*1):「キネマ旬報」2015 9月下旬号 №1698 「新たな伝説のはじまり「GONINサーガ」最終回 撮影日記Ⅲ 阿知波孝 鈴木隆之」 
(*2):発売中の原作本「GONIN サーガ」(石井隆  KADOKAWA/角川書店 2015)を読むと、登場人物それぞれの行動の動機に母親の存在が密接に関わっていると分かってくるので、単純にこの物語を父と子をテーマにしているとは言い切れない。しかし、怒涛のような映画を面前とした場合、自ずと浮き彫りとなるのは父親の方ではあるまいか。