2023年5月5日金曜日

“おんなの首” ヴィナスの首飾りについて(1)

 


 対面する女性の首すじ辺りを穴の開くほども凝視めたならば、たぶん相手はたじろいでしまうだろう。なにか付いているのかしら、お昼を食べたときにソースが跳ねたのかも、いやだわ、恥ずかしいわと考え、お尻をもぞもぞし始めるかもしれない。それとも眉根をぎゅっと寄せて、たちまち猛々しく変身するだろうか。愛嬌を振りまいていた丸い瞳が、力のこもるアーモンド型の上下のまぶたに挟みこまれる。睫毛を槍ぶすまの如くばちばちと突き立てたその奥で、瞬時にその性質は変わり、古い日本映画のなかの怪猫みたいに荒々しくヌメ光る。この変態野郎、どこ見てんだよ、場処と相手をわきまえろ、馬鹿奴え、殺すぞ手前え、と無言のうちに凄むかもしれぬ。

 社会で細々と生かされる無力の身なれば、そういう誤解や軋轢は是非とも避けたいところだ。そもそも紳士たる者は女性の容姿や振る舞いは直接生臭い視線で見やるのではなく、焦点を外した隅の方でそ知らぬ顔で愛でる事が肝要と思われる。では、もしも、興味や欲望が抑え切れず、異性の身体的な特徴を執拗に観察したくなったならどうするか。劇場がとうに死滅し、踊り子の居らぬこんな小さな町で、また、華やかな衣装で接客する女性のいる店とも距離をおく貧乏性の自分が、だから目を凝らしていくのは闇にぼうっと浮ぶ銀幕に限られてしまう。

 先日足を運んだ映画館で、主演俳優の首すじばかりを舐めるようにして観て過ごした。首の長いそのおんなは、それを自分の魅惑的な長所と認識し、衣装係や演出者と同意の上でことさら胸元近くまで露わにした服を装着していた。布地は落ち着いた反射をともなわない黒色で、おんなの白い首を余計にまぶしくする。暗闇のなかで物語の展開をそっちのけでそんなおんなの白い首すじを凝視めては、舌なめずりする勢いで独りにやけている姿を他人がもしも見止めたならば、ノスフェラトゥに憑かれた狂人とでも思ったかもしれない。

 おんなの首に唇を寄せ、その明るい肌にがぶりと咬み付きたい、というのでは毛頭なく、ひたすら「ヴィナスの首飾り」を探していた。その言葉を知ったのは小泉八雲 ラフカディオ・ハーンLafcadio Hearnの「日本瞥見記」で、最初は読んで皆目内容がわからなかった。ここまで意味不明の文章にめぐり会うことも珍しく、かえって強く印象に残った。ちょっと長くなるが書き写してみる。

「うちへくる女髪結は、おコトさんといって、出雲ではこの人の右に出る者はないという、腕っこきの髪結である。三十年配の小柄な女で、いまでもちょいと人の目につく女である。この女髪結の首のまわりには、西洋の美術鑑定家が、その道のことばで「ヴィナスの首飾り」といっている、三本の柔らかな美しい筋が出ている。これはめったに見られない女のきりょう道具の一つである」(*1)

 うーん、全然分からない、なんだそれ。首のまわりの美しい筋って何なの、西洋の美術鑑定家のその道のことばって、そんな話題これまで読んだ記憶がない、女のきりょう道具、なんだその言い方。いずれも不勉強な私にはまるでぴんと来なかった。女性について大概の男並みに惹かれてしまう困った性分であるから、尚更この文面が気になって仕方ない。

 原文をウェブで探してみると直ぐに見つかる。Haiku Foundation(俳句財団)というバージニア州の組織が運営するサイトで紹介されている。こちらも書き写してみる。

The family kamiyui, O-Koto-San, the most skilful of her craft in Izumo, is a little woman of about thirty, still quite attractive. About her neck there are three soft pretty lines, forming what connoisseurs of beauty term 'the necklace of Venus.' This is a rare charm; (*2)

 1894(明治27)年に出版された本に収まったこの文章では、soft pretty lines、つまり皺にまでは至らぬけれど、それに近しいリング状の線を、人を引き付ける魅力や魔力として説いているのだけど、そういうものがこの世に在るとは考えたことがなかった。翻訳者と出版社の力添えで、実に百三十年近い長い時間をまたいで語りかけてくる八雲の気持ちが上手く酌めない。

 実際、「ヴィナスの首飾り」に準じた言葉をあれこれ検索をかけても、美術鑑定家が讃える絵画は一向に出てこない。それどころか、現代を生きる女性たちには完全に目の仇にされていることが分かる。「ヴィーナスリング」は「年齢とともに現れ」、「ハリの喪失と絶え間ない動きに対する皮膚の抵抗力の低下によって引き起こされ」ていき、二十歳過ぎれば「抗酸化剤とハイドロフィクサーを含むクリーム、日焼け止めは首に塗る必要があり」、三十歳を越えれば「ペプチドと活性糖コラーゲンとエラスチンの合成を人工的に刺激して増やす」べきであり、「兆候が現れ始めるとすぐにリフティングとヒアルロン酸を用いて」出現を防止すべきだ、と恐怖を煽りまくる美容品のサイトにたどり着いてしまう。

 毎朝の髭そりと数ヶ月置きの散髪以外、まるで無頓着な私にはそんな美容知識はまったく育っていないから、八雲の指差し示すリング状のものに敵対心など持ちようがないにしても、これは現代では別の意味でめったに見られないもの、絶滅危惧におかれるものじゃないかと気付く。いつしか「三本の柔らかな美しい筋」への疑問や見たいという願望がもわもわと膨張していき、瞳がついつい身近な女性の喉もとを走って撫で回すようになってしまった。これはいけない、ハラスメントと糾弾されてしまう、いやはや、これは困った事態と感じていたそんな折りに観たのが、最初に書いたとある映画なのだった。

 銀幕にアップされる俳優の首に、確かに呼吸のたび、発声のたびに柔らかな線が浮んでは消えていく。感情が激する場面では、たぶんそのリング部分は若干皮膚が薄いせいであろう、桃色に淡くやさしく発色して見えて色香が匂い立った。ひくつき、上下するその部分には男たる自分の目を吸い寄せる力が確実にあって、唇や髪や細い肩や、見え隠れする温かく濡れた部分と同等に麗しく、強烈な磁場をそなえて見えた。こんなに素敵なものを世の女性たちはこぞって嫌い、隠そうと躍起になっているのか、なんて勿体ないひどい勘違いであろう、と暗闇のなかでおんなの首にうっとりとしながら、自分の方の首はさかんに傾げてばかりだった。

(*1):「日本瞥見記〈下〉」 小泉八雲 著、平井呈一 訳 恒文社 1975 第十八章 女の髪 104頁

(*2): Glimpses of Unfamiliar Japan Second Series by Lafcadio Hearn 1894

https://www.thehaikufoundation.org/omeka/files/original/4c231f26cb70e01cc43fafe0a0954e33.pdf


0 件のコメント:

コメントを投稿