今度は目を日本に転じ、おんなの首に描かれた皺(しわ)について、特に浮世絵の美人画に絞って見てみよう。浮世絵は肉筆と版画の二種に大別されるが、いずれも絵師自身の手によって為された描画であることに違いはない。これから例示するのは、だから幾人かの絵師の筆先から生まれてきたおんなの首であり、そこに走る皺である。正しくは顎(あご)の皺も混じるのだが、いずれも普段ならあまりにもあえかな線であるから見過ごしてきた人がほとんどだろう。
版画の浮世絵はまとまって複製され、庶民や好事家に広く販売された。版元を潤し、そこに集う絵師を育んでいった。多くの才人が発見され、往事の鎖国政策も後押しして独特の美術空間が成熟なった訳であるが、木製の板版(いたはん)を用いる工程が、結果的に描線の取捨選択を押し進めた点は無視出来ない。
もちろん神技的にいかなる細く複雑な線も再現する彫師(ほりし)や摺師(すりし)といった職人が版元に雇われ、絵師の飽くなき挑戦を受け止め続けたことは事実であるにしても、工房全体を包む基調として不要な線はなるべく削ろうという意図が働いていったことは容易に想像出来る。髪や着物の柄は徹底的に趣向を凝らして、その逆におんなの肌は曇りなくどこまでも白く保とうとする技巧注力のコントラストを進化させていったように思われる。
鎖国が解けて西洋絵画の技巧が押し寄せる中にあっても、それら美人画の様式は次世代の絵師に引き継がれていき、徐々に面相は違えていっても徹底して「線を選ぶ」ことはやめなかった。だから私たちが浮世絵の美人画を頭に思い浮べると、江戸期であっても明治の作品であっても似たものが湧いて出る。
おんなの顔の部位は明瞭な黒線の輪郭のなかで空中遊泳するように置かれていくのであって、皺という皺が排除された図柄に自然と落ち着くのである。浮世絵で描かれる首の皺というのは、だからやはり僅少な事例となると共に、絵師たちからすれば作為に満ちた加筆となっていて、ある意味で隠れた見せ場となっている。
喜多川歌麿「咲分け言葉の花 かかあ」は享和3年(1803)の制作で、乳児がまさぐる胸の描線と連動するようにして顎線が2本描き加えられている。乳房とともに皮下における脂肪のたくわえが増して、おんなの喉もとの肉付きも豊かとなって生まれた皺なのだが、その線がかえっておんなの盛り、健康的なおんなの官能美を目に訴えてくる。
渓斎英泉(けいさいえいせん)「今様美人拾二景 気がかるそう 両国橋」は文政5年から6年(1822~23)あたりの作品だが、こちらで追加された顎線は長く首すじを横断しており存在感を示す。おんなに内在する瞬発力を感じさせ、強い個性を付与している。
月岡芳年(つきおかよしとし)「新柳二十四時」は明治13年(1880)の刊行だが、この作者らしい物狂おしい面相を携えていて、独特の凄みがある。芳年は顎皺を3本まで描き加え、腹部を縛る下締めのその両端を握っている手指にみなぎる力を補っているのだが、吊り上がった目と歪んだ唇も加わって実に猛々しく、おんなという生きものの奥底にある烈しさを表現している。
豊原国周(とよはらくにちか)「見立昼夜廿四時之内 午前一時」は明治23(1890)年の作品で、思うように眠れないのか、真夜中に手持ち行灯(あんどん)を掲げて壁掛け時計を見やるおんなの半身が描かれている。首には横皺が長く走るのだが、行灯の光が射す方向を考えると必要ない線が加えられたように思われる。上の三例とは違い、顎をぐいと斜めに持ち上げた形であるから、むしろ首の横線は本来目立たないはずであるが、まどろみと覚醒を行き来するおんなの茫洋とした風情をこの一本が引き立たせている。
試しにこれらの画面のそれぞれの皺の上に指先を置き、線の不在がどのように作用するかを想像してみると良いのだが、美人画という範疇であれば一切の支障は感じられないだろう。ただただ美しいと世間が賛辞するおんなの図柄であれば、これらの追加線は不要でさえある。歌麿、英泉、芳年、国周らに代表される稀代(きたい)の絵描きたちは、線一本をそれとなく増やして、読み手に対してほのかに笑って挑んで見える。どうだい、おまえさん方には見えるかい、おんなたちの内奥を膨らませることが出来るかい、俺たちの想像力に追い付けるかい、と試されている。
皺一本を描くか描かないか、描くとすればどのような太さと長さで加えるか。画家とはひと筆に全神経を傾けつづける、常人には計り知れない驚くべき職人である。
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