「ヴィナスの首飾り」という言葉を足掛かりに石井の劇画を振り返り、首に生じる不自然で強い皺を幾例か紹介した訳であるけれど、中でも真骨頂と呼ぶべき作品がある。それは1979年に発表された【果てるまで】の最終頁(ページ)だ。
日常社会から滑落し、隠花植物のようにひっそり暮らす男女を描いた小編で、石井劇画のなかでは佳作のひとつに数えられる。ここに登場する男とおんなはお互いを頼りとしながら、ひたすら性愛にのめり込んでいく。絶壁を登攀するクライマーさながらの充実と寂寥があふれる作品だけど、ここで命綱たる登山ロープの役目を果たしているのは裸身をきつく縛る麻縄である。遊戯と呼ぶには遥かに真剣な面持ちでふたりは互いをいたぶり、慰めながら、自分たちが此処にいることをかろうじて確認していく。
最後のコマは一枚絵の裁ち切りとなっており、おんなは中空に浮いた状態で吊るされている。ゴールラインにいつまでも達することがない性愛に戸惑った男が、ぶら下がったおんなを見やりながら嘆息している図柄である。対するおんなは無言であるのだが、そんなおんなの露わになった首を仔細に観察すれば、「ヴィナスの首飾り」が出現する箇所に、あえかな、極めて短い線が視止められる。
先述の「ブラックストリッパー」の加筆が「美人画」からの離脱を表わすという方程式に従えば、こちらの【果てるまで】にわずかに加えられた短線も、一種の「精神線」として引かれたように感じられる。石井の絵には細い首を大気に明瞭に晒して世間に示すものが少なくないが、「ヴィナスの首飾り」を意識させる線は本当に見当たらない。余程の想いがなければペン先は紙面を穿たない。
「美人画」、端的には「おんな」たることに対する限界、逡巡といったものが急速に発現して線を結んだ、という事である。石井の劇は「おんな」の皮をかぶったおんなと「男」の皮をかぶった男が性愛を通じて理解しようとし、結局のところはすれ違うという「人間」の孤独を描く側面があるけれど、この【果てるまで】での終幕においては、おんなもまた「おんな」であることに倦(う)んでしまい、遂に言葉を失ったという解釈が成り立つ。
見えるか見えないかのノイズのような短線であるから、おんなの美貌を曇らせるほどの傷痕ではない。しかし、その擦痕には悲鳴や溜め息が貼り付いている。誇大妄想と笑わば笑え、石井隆という作家はこの手の微細な描き分けを好んで行なうところが確実にあった。描線を隠密みたいに自在に使い、性愛の軍場(いくさば)を駆け抜けさせながら、人間(ひと)を描き、消耗し尽くした果てに再び立ち上がって走り続けた。
ひとの世はおおよそ負けつづけ、諦めつづけ、壁に突き当たって煩悶することの繰り返しであるが、それは君だけではないよ、ひと皮むけば誰もが同じだよ、と語り聞かされている気がする。
石井の劇とこれを愛する者の間には、この【果てるまで】が示すような、台詞ならざる台詞に引き寄せられる静謐な時間が訪れる。無言に対しては無言のままで頷き、その都度、言葉では表現出来ない共振が生じて打ち震える。
とんでもない作り手であった。私たちはそんな人に逢えた、まったき幸せな結縁ではあるまいか。石井の居らない世界はたまらなく味気ないが、モニターには、紙面には、まだまだ数限りない「仕掛け」があり、それに気づくたびに私たちを驚かせ、奈落の底に突き落とし、ときには肩抱きしめて励ましてくれるに違いない。
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