2023年5月7日日曜日

“石井隆が加えた首線<1>” ヴィナスの首飾りについて(4)


 現代の女性たちは老化と醜悪の象徴と誤解する首の横皺(しわ)、「ヴィナスの首飾り the necklace of Venus 」と呼ばれるものがかつては人を引き付ける魅力と捉えていて、絵画的にも大切な装飾となっていたことが分かった。その表現に絵師たちが知恵を絞り、成功した事例においては観る者の感情に鮮烈な印象を刻むことも知った。

 石井隆(いしいたかし)が「ヴィナスの首飾り」もしくはそれに準ずる皺をどう表現していたか、遺した厖大な劇画について振り返ってみれば、先達と比して劣らない、あえかでありながら相当に奥深い技巧をそれとなく凝らした箇所が見つかって驚かされると共に、いかに石井が自分の絵に魂を込めていたか、どれほど腕の立つ匠だったか思い知らされる。

 原則的に石井は自作において、登場するおんなたちを絶えず美しく描こうと尽力した。初期の習作や端役は別にして、メインで描かれるおんなたちを美しく捉えるべく努めた。雨や水、わずかで逆光ともなりがちな照明、時に血に染まり、時に過酷な性的搾取の状況に置かれていても、石井はそんなおんなたちを美しく描かねばならないと考えた。

 おんなという存在を崇(あが)め、哀しみ、指先を伸ばし続けた。神の如き俯瞰を用い、また、拝跪(はいき)するような低位置から凝視め、硬貨一枚ほどの穴から見守りながら、おんなという存在の美しさと強さを紙面とフィルムと電子データに定着させようと自らに課した作家だった。

 そうであれば描かれるおんなの首すじは白く滑らかになり、「美人画」が主体となっていくのは道理である。ハイパーリアリズムで人体や家屋を描き、取材した写真を多用もした石井の劇画や絵画を私たちは現実の写し絵と捉えがちで、おんなたちも肉感あふれる現実の存在と見てしまいけれど、いくらページをめくっても首に横皺は走らない。石井の使命感は紙面の隅々にまで及んでいて、余分な皺は排除されている。

 次に例示するのは、そのような美人画の大海に突如現われた加筆線である。稀に生じている分、石井の作為が感じられるし、そこに託された想いを考えるのは石井世界を思案する上で邪魔にはならないように思う。

 【黒の天使】のエピソード「黒のⅣ ブラックストリッパー」(1981)において、石井はクライマックスの激闘の場面でおんなの首に太い線を描き足している。椅子に縛りつけられた男装のおんなに対し、その性別を探るため衣服を剥ぐという乱暴が為された瞬間、おんなの首すじに線が亀裂か雷光のように走ったのである。読者がそのコマに瞳を凝らして停止飛行する秒数は幾つか分からない。ほんの1秒か2秒だろう。その特殊な線が引かれたことに違和感を認めた者がどれだけいるかと考えると、ほぼゼロではなかったか。

 同じく「ブラックストリッパー」ではもう一箇所、暗殺業務に失敗した主人公の魔世(まよ)が凄惨な私刑に遭い、起死回生を図って逆襲する場面にて首に線が加えられた。両足を使って敵を羽交い絞めにして自由を奪っただけでなく、頚椎を折って相手を無力化するという過激なコマで石井はおんなの首に荒々しい線を描き加えている。

 大きな動作にともなう効果線みたいにも見える。たとえば【過去からの声】(1983)では街路を歩行中にかつての恋人と再会した男が強く振り向き、その際に不自然な太い線が顎付近に走っていて、これは男の激しい身振りを読者に実感させるための効果線として機能していた。

 しかし「ブラックストリッパー」の当該コマをよくよく見直せば、おんなたちの首付近は静止状態か、今まさに静止するところであって、動きのベクトルは希薄なのである。だから、ここで石井が線を描き加えている意図を探れば、これは多分に内面的な、おんなたちの精神面を露呈させた象徴的なもの、もしくは憤激や緊張といった感情の起伏なり湧出を補うための「精神線」として加えられたと捉えるべきだろう。

 すなわち、「美人」であらねばならないという使命が喪失した一瞬なのである。「おんな」であることを拒絶し、純粋な一個の生命体として生き返った場面なのだ。外観は変わらない。変わらないから見せようがない。でも、ここでこの白い首のままではいられないな、と石井はペン先を押し付けた。

 我々読者がいちいちこの線を認識している訳ではない。コマを追うので精一杯なのだし、それ以上の解読を石井も望んではいない。いつも通り、分かる人に分かってもらえれば良いという淡淡とした姿勢のままで原稿を仕上げ、担当編集者に託したに違いない。

 もはや石井にこの声は届かないのだが、恐るべき絵師であったことを再認識させられている。ここまで抑制したのだ。どこまでも筆先をコントロールして、劇を演出し続けたのだ。勢いに任せるのではなく、徹底して世界を組み立てている。とても忍耐強い人だったと思う。





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