石井隆が新作に撮入したのは耳に入っていたが、その一本が「甘い鞭(むち)」といい、大石圭の同名小説(*1)を土台にしていると知ったのは確か十月の半ばであった。遠方へと列車を乗り継いでの出張が重なったものだから、道中一気呵成に読み進められるものと思い立ち、駅の書店で求めた文庫本をポケットに忍ばせた。 読了したのは外房線の土気(とけ)駅のホームで、顔をあげて眺めた町は妙にまぶしく目に沁みた。面白い読書だったと思う。 あくまで一個人の気ままな感想に過ぎないが、備忘録を兼ねてすこし綴っておきたい。(物語の概要や顛末に触れる箇所があるから、気にする人は閉じてもらっても構わない。)石井隆が原作ものに手を染めるとき、両者の相関を見きわめていくことはとても刺激的で、石井世界に惹かれる者には最高の愉楽じゃないかとわたしは思っている。「甘い鞭」のいくつかの描写には石井作品との相似を観たし、高揚や哀憐といった烈しい感情の渦が理性を壊し、四肢をあやつり、思いがけない“しぐさ”を現実空間に生み落とす様子を丹念に筆先で追っていくのだけれど、この辺りはおんなに向けられたマクロレンズ的な石井のまなざしなり洞察に無理なく重なるように思った。
また、少女を襲ったおぞましき“過去”と、からくも生還して今に至ったおんなの“現在”をカットバックさせた構造を小説はとっているが、“過去”の主だった舞台に“地下室”を選んでいる。男の内部に巣食う原初的なものがそう命じるのかどうか知らないが、略奪されたおんなというものは地下に幽閉されがちであって、たとえば『コレクター』(*2)とか『羊たちの沈黙』(*3)、『盲獣』(*4)なんかが直ぐに浮かぶのだし、石井の【魔奴】(1978)、【魔樂】(1986)にもそんな描写があった。奈緒子という名の少女が突然誘拐されて押し込まれられた地下室は、だから古今東西の物語に満ちているありふれた夢の猟域に過ぎないから、どうしてもその限りにおいては坑道をのたのたと走るトロッコのような、やや冗漫な印象をぬぐえない。だが、その過去と鏡面を成す現在の奈緒子の息づく舞台となるのが“高層”マンションだったり“高層”ホテルの一室であったり、突飛な場処であることに面白味をおぼえた。
劇中の人物の渇望や積怨、意識の覚醒や消沈といったさまざまな魂の波濤を、かねてから石井は階段や階層を使って補強するところが多かった。小説「甘い鞭」が読み手を道づれにするこの下降と上昇のめまぐるしい往復は石井世界とだから符合するところが大きいから、既にして両者は妖しき融合を始めて見えるのだったし、それをひどく喜悦してぷるぷると震顫(しんせん)する気配すら感じ取れる。同作のプロデューサーは石井世界に造詣が深いのだけれど、「甘い鞭」が彼の手になる選定だとすれば、なるほど判っているな、怖ろしく目が利く男だなと感嘆する他ない。
両者の衣香(いこう)なり嗜癖がそこまで似かようのならば、大石の「甘い鞭」はかつての原作起点で綾織られた『魔性の香り』(1985)、『沙耶のいる透視図』(1986)、『死んでもいい』(1992)、『花と蛇』(2004)等と同じようにして石井世界に摂り込まれるものだろうか。名美と村木の面貌をマンドラゴラの根のごとくそなえ、雨滴にしとどなった葉先で空を切り、紅い花弁をてらてらと闇夜に咲かせるものだろうか。私はこの点に強く引きずられて、思案を断つ機会を失ったままもがいている。
たとえば奈緒子というおんなは秘密倶楽部に属しており、男たちの玩弄物となって身を預けていく性描写が幾度も挿入される。なるほど傾斜角のある粗暴この上ない景色なのだが、どこか刹那的で静謐な面持ちを併行して宿しており、ある意味私たち市井(しせい)の者の“ずれた”心をリアルに体現したものと感じられた。おんなは思い出に乗っ取られ、現実を見失っているのだが、そのような事は多かれ少なかれ誰にでもあるものだ。他人の目にはいかに偏奇で淋しげに映ったにせよ、記憶の渦中にたゆたう身は救いを拒絶して孤高を甘受していく。救われてしまうことは忘れること、今はそれを望まないと思い定め、夜具の下で傷口をまさぐり、夢のなかで生乾きのかさぶたを剥がしていく。そんな誠実すぎて不器用なおんなが「甘い鞭」には描かれている。
大石のそれはしかし、映画空間ではあまり見映えのしないかたくなな表情と外界を締め出した態度であって、特に石井の好む“救済劇”とは馴染まないのではなかろうか。何らかの脚色の元で思い切った手を打たなければ、奈緒子はさながら『天使のはらわた 赤い教室』(1979)終幕の名美に似た寂寞たる末路を歩むしかなく、ここをどう解決して私たち観客に示すのか、石井はどうやって奈緒子に(そして惑う私たちに)道を示すのか、固唾を呑んで見守っているところだ。
また、地下空間と高層ホテルの一室とを結ぶ上昇下降の振幅とは別に横方向に貫く動線が原作にはあって、それは女医の奈緒子が勤務する産院と家族の入所するホスピスへの行き来であった。高級車やタクシーを駆って向かうその生と死の汀(みぎわ)は、「甘い鞭」を扇情小説の域からもう少し深度のある方角へと引き寄せているのであるが、振り返れば石井隆という作家は病院や病室を真っ当に描くことを避ける傾向がありはしないか。
『天使のはらわた 名美』(1979)であれ、『同 赤い眩暈』(1988)であれ、消毒液の重たく匂うこの場処は悪鬼や狂人の夜な夜な出没する異空間ではなかったか。『黒の天使 vol.1』(1998)や『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)のそれは風雪に曝(さら)されペンキが剥がれ、酷く廃壊なっており、迷い人を昏い廊下の奥へと誘い込んでは獣(けだもの)が襲い掛かりはしなかったか。【真夜中へのドア】(1980)では死出の旅路の一里塚として明確に在って、おんなたちの身体とこころをことごとく破壊しなかったか。診療行為や人を見舞ったりすることは、石井の創る劇空間ではどうも鬼門であり続けたように思う。
どうなるのだろう。どうするつもりだろう。石井は病室を描くものだろうか。
実は年長の知人が深刻な病気にかかり、当て所のない療養生活に入ったことを聞かされたばかりだ。伝えてくれた縁戚にあたる人の口からは、続けざまに信じられない話もとび出しても来た。まさかといぶかり、偶然に違いないと思う。けれど、やはりとも感じ、必然かもしれぬと疑念は増して胸のどよめきが収まらない。彼女(知人)とわたしとが住まうこの町は母なる懐(ふところ)の温(ぬく)さを奪われ、今ではおぞましい魔女となって横たわっている、そう信じて疑わないからだ。知人の体調と精神を深く案ずると共に、微かな震えと怯えとがすっかり全身を包みこむようだ。
病床見舞いを得意とする者はいないだろう。私なども上唇に余分な緊張が走って、妙な具合にまくれてしまうし、口角をあげても目元までは笑えない。瞼のふちが熱を帯び、虹彩(こうさい)の上には暗い思いが束なるようで、どうにも怖くて瞳をそらしてしまう。励ましに来たはずなのに両の手のひらで相手の肩を小突いて押し倒してしまいそうで、内心びくびくして仕方がない。
いざという時に仮面をかぶり切れない私みたいのが、この先一体全体どれだけの病室見舞いを余儀なくされるのだろう、また、されてしまうのだろう。想像すると暗澹たる気分に囚われてしまうのだけど、差し当たりのこととして何時(いつ)どうやって知人を訪れたら良いか思案する必要があり、もうそれだけで咽喉(のど)元がひりひりと痛み出して途方に暮れる始末だ。身近にそんなこともあるものだから、余計『甘い鞭』の展開が気になっている。
おんなに向けられたマクロレンズ的な石井のまなざしなり洞察は、自然この上ない道筋として“生と死をめぐる現実の光景”にも焦点を結んでいくはずである。生きとし生ける者たちが内なる感情や欲望をひた隠しにし、仮面をかぶって相手と真向かう。───そんな避けがたい情景を、もしかしたら石井は『甘い鞭』で点描するのじゃないか、と勝手な夢想を連ねながら、長い冬の夜を狂おしく彷徨(さまよ)っている。(*5)
(*1):角川ホラー文庫
(*2):The Collector 監督ウイリアム・ワイラー 1965
(*3):The Silence of the Lambs 監督ジョナサン・デミ 1991
(*4):監督増村保造 1969
(*5):石井隆がしかと軸足を移して唯一描いたのは精神科の病棟だけである。魂を病んだ者は隔絶した世界で過去とだけ向き合い、“見舞う者のまるでない”状態か“その存在を解せぬ”まま、永劫の回遊を続けていくしかない。『人が人を愛することのどうしようもなさ』が代表格だが、『ちぎれた愛の殺人』(1993)や【20世紀伝説】(1995)の名美の孤影も尋常ならざる濃さであった。 「甘い鞭」にあるような身体の疾患と対峙していく、いわゆる“病院”をまさに“病院”として機能させ、舞台に用いたことは石井の作劇上これまでにはなく、病をかかえる男は薬を懐中し、公園のベンチで悄然として過ごす内なる時間に潜っていくのだったし、はたまた、限られた日数で愛する者の未来を別の誰かに託せないか、どうにかこうにかリフトアップ出来ないかと深謀をめぐらすのが常であって、聞き分けよく入院などしないのである。細かしいことで笑われそうだけど、映画『甘い鞭』は石井世界の地平線が伸びる可能性を秘めていて、目が離せないでいる。