2012年6月17日日曜日
“水と対峙する者”
近作『花と蛇』(2004)には、石井隆が劇中“水たまり”を登用する際に託す特性や面立ちを、逆方向から際立たせている箇所がある。豪邸でひとり酒をあおって酩酊した遠山隆義(野村宏伸)が、テラスに穿たれた人口池のへりによろよろと踏み出し、両膝を折って水を覗く場面である。礼拝するかのようにして“水”と対峙していく姿が印象深い。
遠山は建築会社の若き総帥であり、生得の豪胆さで組織を束ねることに成功している。時には灰色の札束も山と積み上げて闘っているのだったが、側近である若者がいつの間にか裏社会に取り込まれており、秘匿すべき賄賂提供の顛末の一部始終を隠し撮りされてしまう。遠山の妻静子(杉本彩)はダンサーとして名の知られた存在で、その艶容に裏社会の重鎮田代(石橋蓮司)は心を奪われていて、隠し撮り画像のウェブへの流出をほのめかせて静子の一時的な提供を遠山に迫るのだった。
最愛のおんなを手放してしまった男は、なかなか帰らぬその身を案じながら酒に溺れていく。足もとよろめいて壁や電柱にもたれていく酔った醜態は不況下で減ってはいるものの、終電間際の道筋にいくらでも転がっている光景であるから、外の新鮮な空気を吸おうとしたものか、窓辺に寄り、四つん這いになってしまった『花と蛇』の遠山という男の様子とて決して珍しい形ではない。されど、石井隆という作家を見続けた視線には、この物腰の“不自然さ”が陰影を含んで佇立して来るのである。水面(みなも)に向かい我が身を大いに恥じ、ようやく事態の雲行きのひどく怪しげなことに気付いて慟哭していくのだけれど、あたかもその池に住まう河童か妖精か、人智のおよばぬ何か判然としない魔性におんなが引きずり込まれ、視界の通じぬ深い水底に幽閉されたと考えているような実に気負った姿勢と叫びで酔態の域を越えている。
手にしたグラスを滑らせ、グラスは浅い池の底にぽちゃりと落ちてしまうのだが、男はそれを拾うことすら出来ないのだ。数センチメートルの深さでなく、何千キロメートルもの大海を隔てた見知らぬ街に酒盃が運ばれてしまったかのような身も世もない慌てぶりである。これまで石井が世に送り出した映画なり劇画の諸相と連結させて捉え直せば、ここで浮き彫りにされるのは“水に身を投じられない”男の哀れさ、小心さという事であろう。
仮に先に待つものが破滅であろうとも石井の描く男なりおんなは総じて水を見る、水音を聞く、触れる、濡れる”行為を通じて次の階層に歩み出すものであるが、『花と蛇』の遠山隆義という男はこれが出来ない。“ひとを想う”行為に洗われ、総身呑まれて恋死(こいじ)にしていく道を自ら回避してしまった石井の作暦上新しい性質の男としてフィルムに刻まれている。これは団鬼六の原作の骨格を生かしたための、この時限りの奇異な枝葉であったのだろうが、石井の作劇の特徴を逆照射してみせていて興味深い。(*1)
やや乱雑になってしまったけれど石井隆の劇をめぐる“水”とはかくも雄弁であって、登場人物の心理が増幅しては劇空間を渦巻く情感のさらなる堆積を助ける存在なのだし、わたしたち観客へは次の幕が開けるのを高らかに告げる呼び鈴でもある。(曾根版『天使のはらわた 赤い教室』(1979)のようにして)安易に背を向けて去っていける対象ではないのである。
(*1): 当時の石井がいったいどのような心境にあったか、自身がインタビュウで語った言葉からわたしたちは薄っすらと読み取ってもいる。これに則せば、石井らしい韜晦と吐露が一体となった複雑なキャラクターとして遠山隆義はあるのかもしれず、頼りなくメリハリのない造形だからと言ってそうそう軽んじてはいけない気がしている。
また、“水に呑まれなかった”遠山について想うとき、当時劇場で観て持ち帰った感慨とは別のものが今は浮かび来る。保身や臆病に負けてしまい、この遠山のように“取り残される時”は誰の身にも巡って来る。それを学んだせいだ。
身を捨てることなく、足踏みする時がある。背中を押す手をほどいてやんわりとなだめる時間もある。ある程度の年齢を経れば、水辺は決して珍しいものではない。
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