2012年6月14日木曜日
“水につらなる者”
『GONIN』(1995)の冒頭を飾ったのは、佐藤浩市演ずる青年実業家、万代樹彦(ばんだいみきひこ)の夢の描写である。ここにも印象的な“水たまり”を見ることができる。万代の経営するディスコは借入金が膨らみ、返済に追われる苦しい毎日だ。建屋の一角、奥まったところに寝床が敷かれており、疲れて眠るその顔が真っ先にクローズアップされるのだったが、まぶたの薄皮の向こうでは右へ左へとせわしなく眼球が動いているのが見て取れ、今まさに男がレム睡眠と呼ばれる夢見の時間を漂っていることが強調される。
──さまよい入るのは湿った路地裏だ。長年のひとの往来により削られたものか、足元には浅いへこみが延々と連なっている。脇の壁から円柱型の樋(とい)が陰茎のように垂れ下っており、先端からとろり“雨水”が噴きこぼれて、なだらかな溝をゆるゆると伝っていく。細く切り取られた空を妖しげに反射させながら奥へ奥へと伸びる銀色の“水路”は、さながら巨きなナメクジが這った痕であり、先では黒い人影がふたつ、何か盛んに言い争っている──そんな夢に男は取り込まれている。
屋根板の塗装が剥げて亀裂が生じたか、それとも、天井裏を走る配管が目詰まりでも起こしたせいか、現実空間に“雨漏れ”が生じていて、寝台のすぐ脇の床にぴちゃり、ぴちゃり、と滴(しずく)を垂らしている。反復するその響きが男を一定の悪夢にいざなっているのだったが、目覚めた男がまるで意に介さない事から“雨漏れ”が突発的なものでなく、馴染みの現象であることが読み取れる。資金繰りの無間地獄に放り置かれ、舞台袖の修繕までは到底手が回らない状況なのだ、と小声で耳打ちしてみせる巧みな演出なのだけれど、そういう話術の域を越えてつよく訴えて来るものを誰もが感じる場面である。丸い張りをもって床面に膨らみ、気持ちをざわつかせる、妙に色っぽい“水たまり”が形成されて、私たちの瞳を射抜くのだった。
似たような悪夢(=淫夢)は『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)にも出現していたが、人間の内奥を仕切る壁や境界がいずれも“水たまり”を起点として融け落ちていく感じである。明らかに石井の劇空間での“水(たまり)”は魂の変容を誘う触媒となって働くのである。跋扈する夢の主(あるじ)の凶暴な影なり、その艶姿(えんし)に脚をすくわれ、じたばたと足掻いては指先を伸ばしていく、はたまた、昏い山中に迷ったような具合に途方に暮れて瞳を泳がすきっかけが“水”である。現実と妄執、生と死の関所をいつまでも行き戻りして落ち着くところがない。
日常と己をつなぐ頸木(くびき)は溶け落ち、今や完全に外されてしまった。両腕をたかく振り上げ、叫び声をあげて闇雲に駆け出したくなる気分だ。それぐらい怖く、それぐらい嬉しい──いや、夢のなかに限らない。石井の創る人物は実際にそうなってしまうのだった。『GONIN』の“水路をさまよった男”は金融機関や弁護士事務所へと参内して血路を拓(ひら)こうとするのでなくって、美しい男娼(本木雅弘)に向かって心身共にしなだれ掛かっていき、一緒になって無謀な犯罪を推し進めてしまうのだったし、『赤い眩暈』の“水に呑まれた”村木(竹中直人)は偶然出会い、怪我を負わせてしまった娘(桂木麻也子)を世間から隠して介抱するうち、そんな滑稽きわまる行為に生きる意味と目的をそっくり移行させてしまう。
とめどなく視線の交叉し吐息が綾織られる、身にしみて愛しい昼夜が描かれるのだけれど、その裏側で、いや、その表側と言うべきか、冷徹な金利計算が瞬時も止まることなく、かちかちと数字を堆(うずたか)く積み上げている訳だし、組織の論理は免疫機能を起動させて、軌道を外れた心優しき異分子を追い落としにかかるのは明らかなのだけど、水に侵(おか)された石井の男たち、おんなたちは忘却の淵にそんな現実を押しやり、束の間訪れた(どこか無理のある)安息に向けて悲しげで固い微笑みを返しては、危うい夢見を続けようと試みる。
『死んでもいい』(1992)のローマ風呂での逢瀬、『ヌードの夜』(1993)、『夜がまた来る』(1994)での入水(じゅすい)といったものも含め、石井隆の劇における“水を見る、水音を聞く、触れる、濡れる”行為は日ごろ私たちが体感するものとは段差を含んでいて、物語中の人間に劇的に作用し、思いもしなかった暴挙へと背中を押していく。時にその生命を奪い、時には覚醒を誘って、生涯忘れがたき道標(どうひょう)を打ち込んでいく。
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