石井の劇に向けてウェブ上で繰り返される寸評に、かならずと言って良いほど現われる括り方がある。曰く、石井隆の作品の主人公は決まって名美と村木という名前(*1)で、最後どちらかが死んでしまう、どうにも救いようのない話ばかり、という表現である。そう言われれば『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)や『ヌードの夜』(1993)といったタイトルが即座に、それも幾つも思い浮かんでしまうから、この括りはややもすれば石井作品の心象を固定化しかねない勢いを持つ。嘘ではないけれど、言葉はひどく足りない。だいたい“救いようのない”と言うところの“救い”とは何だろう。何をもって“救われた”と言うのだろう。
散華する恋人たちの姿は石井作品の花であり、月であり、美酒であろうけれど、その裏側には濡れた土くれがあるのだし、天空には幽かな光を放つ昏い星が潜み、涙のみが希釈し得る濁り酒とて準備されている。“見ること、見られること”の至福の陰で、“見ない、見せない”ことを自らに強いた孤影が輪郭をまざまざと刻んでいくのであって、そこでは誰も最後まで死ななかったりする。死んでしまわないからこそ、どうにも救いようのない様相を呈していて、私のような天邪鬼はどちらかと言えばこの方に惹かれるところがある。石井隆の真価というものは、この暗い局面にこそ宿っているように感じてもいる。
『天使のはらわた 赤い教室』(監督曾根中生 1979)や『ラブホテル』(監督相米慎二 1985)の流れであり、なるほど映画でいえば数はまばらである。されど、当初石井が青年誌で描いて来た劇画というのはどちらかと言えばこの手の寂然とした作品が多いのであって、全体を通じての水量として見劣りするものでは決してないのだ。傍流というのではなく、むしろ底流というか、無尽蔵の地下水脈とでも呼べるだろうか。前に取り上げたロマンティークな作品群は石井世界という大河にとっては、もしかしたら限られた“上澄み”と呼べる部分かもしれぬ。
劇画の話が通じるひとは限られようから、仔細を縷縷(るる)並べるつもりはない。題名のみを列記するならば【おんなの顔】(1976)や【夜にアイ・ラブ・ユー】(1979)などがその代表格となる。粘つく体液に濡れ浸り、肌をこすって紅々と染めながら真っしぐらに重なり合う身体と身体であるのに、ここでの名美たち、村木たちは真正面から向き合うことを巧妙に避けており、まなざしの交差はご丁寧にも鏡やカメラのファインダー、ブラウン管越しと決めている。まるでゴルゴーンに立ち向かうペルセウスさながらに、とことん“見ない”よう努めているのであって、そこには石井らしい“不自然さ”が際立っている。まぐわう相手が開放されていく様を冷淡に眺めてみたり、はたまた深慮が過ぎて己の真意なり期待を相手に“見せる”機会を逸してしまう。自然と会話はぶつ切れとなるし、相互介入を拒絶してしまうから、煩悶は発熱したまま男なりおんなの内部に湯気立てて幽閉されたままとなる。安らぎもなく穏やかさも生れず、当然ながら救われる瞬間も終ぞめぐり来ない。
私たちの日常にありがちな薄暗がりに、これら作品群はぽつねんと置かれている。閉塞感、手詰まり感が充満し、沈鬱としか言いようがない。恋情なり性愛なりを扱っていながら、夢や希望という言葉とは程遠い膠着ばかりが目に止まり、時折風が吹き荒れては鎌鼬(かまいたち)並のざっくりした切り口を穿っていく。その酷薄さというか、奈落めいた闇穴こそが石井世界という井泉(せいせん)の湧き出す場処になっているように思う。『GONIN』(1995)や『黒の天使 Vol.1』(1998)といった絢爛豪華な美粧にほだされ、もっと活劇を、もっと絵物語をと待ち望んで地上から覗く私たちが目にするのは、水鏡(みずかがみ)に映じた私たち自身の惑い乱れる姿である。黒々としてそら恐ろしく、触れれば身を切るように冷たい。けれど、慣れてくれば肌に馴染んで、むしろ和むものがある。娯楽活劇の演出術も石井は一級の腕前なれど、この等身大で描かれた心理劇は不思議と年を追うごとに水嵩(みずかさ)を増えて見えて、読めども尽きぬ無限の感を抱く。
“見る、見られる”そして“見ない、見せない”という動作のひとつひとつに思い入れるものがどれ程大きく、その為に石井の作劇上の“かたち”がどれ程左右され変形していくかを例示しようとするならば、傑作として世に知られる【水銀灯】(1976)のラストショットを引くのが適当だろう。恋着の終焉に派生してしまう男女の愁嘆場を克明に描いた短編で、舞台は団地に付随した夜の児童公園である。ブランコを揺らす男はおんなの悲壮な“まなざし”に知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいるから、“両者の視線は最初から噛み合わない”。
おんなは準備してきた包丁を取り出すと、矢庭にその光る刃先を自らの腹に突き立てていくのだった。痛みと失血に蒼白な面持ちとなりながら恋醒めを嘆き、男の不人情を責めるのだったが、やがて膝折れ前に傾いで、半身は地面へ向かって一気に崩れる。片手は下着をむずと摑んで引き下ろし、もう一方は包丁の柄の部分を強く握ったままであるから、おんなの体重は右脚の膝小僧とかろうじて大地を踏んだままの左足裏と、今や完全に逆立ちとなった頭頂部の三点のみで支えられている。一見すれば石井フリーズが起きているようにも窺えるコマであるけれど、対する男は恐怖に歪んだ口元を顔に貼り付かせたままブランコを漕ぎ続けているのであるから、この奇怪な三点倒立はしばらく続いたと読み解くのが妥当だろう。
頭を疑われそうだが、この一連の動作を実際に(屋内で普段着による)再現してみた。名美と呼ばれるおんなの体躯と私のそれとはまるで違っているし、体重だって倍も違うように思えるから言い切って良いか分からないけれど、この姿勢を維持することは相当に難しい。リゾートホテルの部屋に据えられバネのよく利くキングサイズのベッドでならまだしも、小石散らばる未舗装面で長々と続けられる恰好ではない。数秒で頭頂部は痛み出し、膝は笑い始める。つまり、このとき瀕死の体にある土屋名美は石井の劇空間らしい“不自然さ”の只中に在るのであって、「ああっ」と表面上はうめくばかりでありながら、実際は私たち読者に向けて盛んに何事かを囁く“多弁な段階”に踏み入っている。
肝をつぶした男はこれまでと打って変わり、惑いや嫌悪の“視線”をおんなに向けて大量に注いでいくのであるが、これに対しておんなは背を丸めて頭を地に付けてしまい、顔面は男のいる側とはすっかり反対向きに転じている。噴いて溢れる鮮血の、長々と糸引き落ちるその量は刻一刻と増えて止まる気配なく、おんなの意識が程なく溶暗するのはもはや避けがたい。眉根から力の抜け落ち、薄っすらと夜陰に染まって見える面に、まぶた二つが逆さまになって並んでいる。この後、おんなは霞んだ半眼となり、白い目を剥き出しにして醜い断末魔の形相を世界に向けたものだったか。
穏やかさをより増して、むしろ美しい顔立ちへと作者によって粧飾されたおんなの顔がそこにはあり、目はしっかりと意識的に閉じられている。男の目線とすれ違うように反対を向き、堅く目を瞑る──。明らかに“見ること、見られること”を拒絶せんとする覚悟や諦観が示されている。
ハイパーリアリズムの騎手と言われた石井隆の劇画は、現実にありそうな背景に現実にいそうな人物を置いていると見られがちだけれど、この【水銀灯】のラストシーケンスが語っているように、あり得ない姿勢や起こし得ない動作、内実を極端に増幅させた表情やまなざし、その逆に隠蔽された面貌なり目線に画面は溢れ返っていて、実は絵画や彫刻にこそ通底している。多重多層の視座が準備されており、見つめれば見つめるだけ爛々(らんらん)と反射して返されるものが多く有るのであって、まったく油断ならない相手と思う。
【水銀灯】の解釈は最終的に読み手それぞれに任せられる。うねって苦しい道程に時折訪れてしまう分岐点、そこでの大人としての心得を石井の【水銀灯】は指南しているように私には見える。未来を憂い、孤絶なることに怯えて人はついつい夢にすがり、優しさに餓(かつ)えて“見る、見られる”相手を探し求めるのだけれど、その恋情なり友愛の終着においては誰もが依存や隷属を立ち切ってひたすら内観を深め、“見ない、見せない”者としておごそかに自立していく──。
驚かされるのは、このような達観した作品を三十そこそこで石井は描いていたという事実であり、それより遥かに高い年齢となってしまった私みたいな輩が再読のたびにしみじみと頷いたりするのは、こちらが相当の晩熟(おくて)であるせいなのか、石井がずば抜けて老成していたのか。よく分からないが、多分そのどちらも当たっている。石井の劇が放つ光は時代を楽々と跨いで、その時代、その時々の迷い人のこころに沁み入り、慰撫する力を発揮しているのは間違いない。
人であれ物(小説や映画、漫画といったもの)であれ、出逢いというものが担う意味なり役割は本当に死ぬ寸前まで分からないということに、ようやく気付いたところだ。これを機会にもう一度、石井の劇画作品を丹念に読み返したいと思う。
(*1):実際は違うように思うのだけど、石井のインタビュウには「スター・システム」を肯定するような発言もあって何とも複雑である。
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