時満ちて三叉路へと至った恋情なり友愛にあって大概の者は、別涙に暮れ、慙悔(ざんかい)にまみれて濡れそぼち、また、足元はすっかり揺らいで膝折ることとなる。
同じ陽射しに肌を焼き、夜ともなれば月の光を湯浴みするように受け止める。肩並べて銀幕を眺めては微笑み、頁を繰って意見を交わす──そんなささやかな安らぎがことごとく失われ、茫洋とした空隙にすり替わっていく。おのれを軸心にして放射状に広がっていく真空のごとき喪失感は気持ちの不燃を招き、いら立ちばかりが陽炎のように立ち踊る。鈍痛が胃の腑なり胸底なり、さらには四肢にも襲いかかる。時にひどく疼きもして、想いの暴走するさまにたじろぐ。それはやはり物淋しい、遣る瀬ない環境の段差である。当たり前と言えば当たり前の事だけど、幾つになっても岐路に佇むことは骨身に堪える。大なり小なり私たちは消耗する。凡庸な人生を歩んでしまい、それほど経験値の高くない者なら尚更にきついものが訪れる。
生きるということは、聴く、嗅ぐ、触れる、食べるといった五感を総動員して「記憶」という題名のフィルムをリールに巻く行為に等しい。豊潤なるピアノの音色、体臭や化粧品の脳幹を鞭打つ香り、手のひらを経ておごそかに交感していく体温、繊細さと大胆さを重ねて口腔を圧倒する料理の数々や甘露と砕氷入り乱れて馥郁たるカクテルといったものは克明に記憶され、私たちを延延と捕縛していく。なかでも“見る”という行為が占める割合はとてつもなく巨大であって、隣接する他の官能たちが秘儀や禁じ手を尽くしてもなかなか勝負にならない。“見る、見られる”ことの勢いが減じ、ことによっては断絶に至ることは目を持つ誰しもが避けようのない宿命であろうにしても、そこには幻肢痛に似た腹立たしさ、悔しさが渦巻くものだし、いくら理詰めで事態を捉えようとしてみても、大抵気持ちは治まらない。
“見る、見られる”ことの愉悦が置き土産とする残像は網膜にいよいよ根張ってしまい、日々の暮らしを浸食していく。面影は狂人の視る白昼夢さながら周囲を浮遊し、そうそう消え去ってはくれない。
作劇上、“見る、見られる”ことが別離の段で大いに誇張されるのはだから道理であって、わたしたちを取り巻く古今東西の物語空間で組み込まれ、星の数ほども提示されている。石井隆の創造するドラマ群、いわゆる「石井世界」においても例外ではない。ただ、人がひとに想いを馳せる心の旅路の、その終幕を飾る“見る、見られる”は、石井世界においては“不自然さ”を匂わすほどの硬度や純度をもって突出して来るのであって、この事は作品の相観や神髄を語る上で無視できないテーマと思う。
劇画【天使のはらわた】(1978-79)および【おんなの街 雨のエトランゼ】(1979)の登場以来、細部の変相はあれ“馴染んだ形”が石井世界には有って、多くの作品の終盤を盛り立てている。すなわち、寄る辺なき二つの魂が縁あって出逢ってしまい悶着を重ねて蛇行する。幕引き寸前になってようやく間近から、真正面から互いを“見ること、見られること”を成し遂げ、刹那はげしい昂揚と生の実感を手中にする、という形である。『天使のはらわた 赤い淫画』(監督池田敏春 1981)、【雨の慕情】(1988)、『ガッデム!!』(監督神野太 1991)、『死んでもいい』(1992)、『ヌードの夜』(1993)、『夜がまた来る』(1994)、最近では『花と蛇 パリ/静子』(2005)、『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)等がその流れに組みしよう。
私見ではあるけれど、たとえ数ミリメートルの至近距離にあったにしても、また、瞬きもせずいくら時間をかけて両の瞳を熱心に覗き込んだとて、相手の全てを見取ることなど本当のところ出来はしない。虹彩の妖しさ、美しさのその奥にある望みや歓び、苦渋や哀憐をくまなく読み取ったつもりでいても大概は自己満足に過ぎないし、夢想の域を出ないことが多い。籠にくるまれた鳥のように、造作なく、されど至極大切に抱きかかえることが可能な親密な間柄であっても、向こうもこちらも懐に育むのは広大無辺の内宇宙である。か細く、儚い生き物とその触感に導かれるまま判断するのは早計であって、秘めたる力は存外強く、風を読み、大海を渡る膂力(りょりょく)とて具えるかもしれない。そうそう簡単にひとが人という存在の総体を受け止め切れるものではない。視線をからめただけで理解し得たと感じるのは、慢心というものだ。
会話の堆積と精神面に喰い込む(制限時間のない拳闘にも似た、一種血みどろの)同居しか真に融合するための方策はないのであって、それの迂回なり敬遠をもって万一恋路(こうじ)に臨めば、束の間の共振なり舞踏は可能であっても“番(つが)うこと”は永劫に困難と思う。もちろんそんな事は石井とて充分に体得しているはずなのだが、生来のサービス精神の発露なのか、ロマンティークな北国生れの血によるのか、それともしたたかなサバイバーとしての戦術の一端なのか判らぬが、先にあげたような全能たる瞬間、“見る、見られる”ことを通じての甘酸っぱい至福の一瞬がわたしたちに向けて絶えず示される。
さながら“壮大な思い違い”、“絶望的な迂闊さ”とでも呼べるかもしれない(*1)曖昧で不思議なものに導かれ、“見ること、見られること”に酩酊し、互いをもはや分かち難い相手と信じ込んでいく名美たち、村木たちがいる。承知の通り、その時、一方の肉体は銃弾か刃物といった類いでひどく傷付けられており、祈りは届かず事切れて視界は暗転(=フリーズ)、両者の幸福な時間はたちまち霧散していくのだった───恋の焔に束の間の暖を取る者に対し、背後から石井はそっと忍び寄るのである。脳天めがけて弾丸を撃ち込んだり、刃物を振り下ろして暗転(=フリーズ)に至らしめる訳なのだが、この唐突な結末の意味するものは一体全体何だろうと思う。
紅涙を絞らせ、読み手内部のカタルシスを完遂へと追い込むプロフェッショナルの手管かもしれず、はたまた世間に伝えて憚らぬ生粋のペシミストとしての矜持の顕われかもしれず、想うところは色々である。
『花と蛇』(2004)、『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)の劇中で起動し、性差別と暴力にさいなまれた主人公を“緊急避難”させた狂気に倣って考えるのが、今の私にはいちばんと身に添うて心地好いところがある。どうしようもない延焼というものが人生には時折起こる。“石井フリーズ”とは、そんな荒ぶる力に主導権を握られ、まず足をやられ、次に目を曇らせ、闇雲に歩を進めて世間との絆を断ち切り、孤立を深め自壊し溺れ果てていく運命の汀に至った恋人たちに作者から贈られた、もしかしたら“安楽死”に他ならないのではないか。
これ以上高空へとリフトするのが難しいと判断し、幸せの只中において暗転(=フリーズ)した方がよい、それも神より託された“生きるということ”の貫徹なった姿であろうとの“救いの意志”が働いた、一種の「無理心中」が延々と繰り広げられている可能性を幽かに想う。
そうあればどれほど良いか、どれほど嬉しかったかと春風に鈍った頭で我が若き日を振り返って考えもする。あの時その時の名美たち、村木たちにすれば作者に討たれて本望であったかもしれぬ、ようやっと救われた、そんな心地だったかもしれぬ。煌々たる満月の夜空に翼広げるものを目で追いながら、そんな埒もない夢想に耽っている。
(*1):そうとばかりも言い切れない出逢いもある。
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