2012年3月10日土曜日
“夕餉(ゆうげ)の仕度”
映画『GONIN2』(1996)は、まがう方ない活劇である。白刃(はくじん)が闇を裂き、銃火を映じて赤赤とぬめつく。滑空自在のカメラと畳み掛ける編集、叫び疾走して疲れを見せぬ役者たち、余裕で色香を滲ますおんなたち、そこに絡まり混ざる始原的なドラムの雄たけび──
当然ながら血で血を洗う暴力描写と肉体の躍動する様に、観客の多くの視線は束ねられていく。銃身支える指先を目で追えば、その果てには我らを吸い尽くさんと待ち構えるかのごときおんなの肌がある。瞳なり脳髄がことごとく捕縛されていくのは致し方なく、観劇の後に口を開けば、喜多嶋舞や余貴美子、夏川結衣の暴れぶりとすらりと伸びた肢体を誰もが話題にするのは必然だろう。送り手の石井隆にしてもご満悦、して遣ったりの気分に相違ない。
観客を恍惚の境地へと橋渡しする力技(アクション)以外の、導入部やどちらかと言えば穏やかな箇所は、それでは物語の“尾ひれ”に過ぎないのだろうか。
石井には大衆の抱く曖昧模糊とした夢まぼろしを透かし見て、くっきり生々しく塑造して提供する商業監督の一面がまず在り、これに併行して自身の編み出す世界観(いわゆる“石井世界”)をどこまでも堅守する(気付く人は気付いてしまい、次第に虜(とりこ)になる)突出した作家性がある。明滅を繰り返すこの二種の色相はウロボロスのように互いを侵食してみたり、遺伝子の螺旋を描くように寄り添い舞って、銀色の映写幕をどこまでも覆って見える。
我々の日常とてハレとケとが交互に寄せ来るまだら模様、縞模様の風体であるのだし、人の生きる上で表と裏はつきまとう。どちらが本当とか嘘とか、どちらが上等とか言うのでは決してなく、石井隆とは実に多層で一筋縄にいかぬ作家であることを告げたいだけである。一瞥(いちべつ)をもって見送る訳にはいかぬ、澄んでいながらも光さえ届かぬ深淵を抱えた沼なのだ、底なしなのだ、と虚空に向けて囁きたいだけだ。
そんな目線で『GONIN2』を再度俯瞰すれば、これは食べる前のキャンディにかたちが似るように思う。男の浅慮、暴走しがちな夢想という粘っこい糖質と血しぶき由来の酸味、それにおんなの肝に巣食うさらさらの結晶を絡ませた上で、銃弾と日本刀との衝突がもたらす摩擦熱でどろり成型してみせた宝石大のキャンディ。これを赤いセルロイド紙で包み、両端をねじって金魚の“尾びれ”のように仕上げている。誰もが見惚れる殺陣(たて)は真ん中の飴玉の部分であるのだが、細心の注意を払って折り込まれた両端のひだひだとて、見落とす訳にいかぬ大事な意匠だろう。
たとえば、次のシーンは終幕近くになって挿入されたものだ。貴金属店を急襲した賊の手から宝石の山をまんまと横取りしたおんなたちの内(なか)に、愛を見失って途方に暮れる主婦“志保”(西山由海)がいた。追っ手の包囲網が狭まってもろとも捕獲されんとする寸前、この志保というおんなだけはからくも劇の流れから離脱して日常世界への復帰を果たしている。ところが、その逃げたおんながわざわざ終盤も終盤の押し迫った段階で、忽然と(場処は違えども)戻ってくるのだった。
志保の住む家・台所(同じ頃)
志保が夕餉(ゆうげ)の仕度をしている。流しで、トントントン、野菜を切っている。
後ろのテーブルには、夫の茂行と志保の茶碗類。しかし茂行の姿、気配は、無い。
志 保「……」
志保、黙々と野菜を切り刻み続ける。指にリングは無い。(*1)
(注:この先結末に触れる)──“同じ頃”というのは、後に残してきた他のおんなたちが廃墟然とした建物奥で追っ手に完全に包囲されてしまい、死出を覚悟で敵中突破を図っていくその時日(じじつ)を指す。雨あられと弾が降り注ぎ、銃煙の霧となってたなびく中でおんなたちは次々に“フリーズ”していくのだったが、通常石井世界にあってそれは現世に“死”を穿(うが)つ刻印であるから、ここに一瞬、夕食の支度にいそしむ安全圏のおんなの立ち姿がよぎることに虚を突かれ、思わず呻いてしまった。
やはり“同じ頃”に一陣の風が吹き渡り、先に逝った娼婦サユリ(大竹しのぶ)の身体を巻いていた一枚の毛布をまくり上げている。降りたはずの幕が再度開いた恰好で、つまりは石井なりのカーテンコールであって、逃げおおせた志保の顔も儀礼的に点描したに過ぎない、そう受け止めることはここで可能だろう。
また、余、喜多嶋、夏川の三人の前後に死者と生者を配置して、今まさに潜らんとする死線を明確にする、そんな意図も少しはあるに違いない。どう受け止めてもらっても構わないとする石井のスタンスは常に変わらないから、どれもこれも正解といったところだろうが、私なりにもう半歩だけ踏み込んで得る感触は、この雷光の突如射し入るようにして出現した独りのおんなの情景が街角でもなく旅先でもなく、寝室でもなければ喫茶店でもなくって、“台所”を舞台に選んでいることの幽かな“不自然さ”である。
銃弾に肉と骨とが貫かれ、粉々に砕かれようとも、男たちの横暴に対して覚醒した我が内なる力をもって立ち向かうことを決意した、その“同じ頃”、そうして、傍らに横臥した死者の肉体がそろそろ自己崩壊を始める、その“同じ頃”に対置された“台所”というのは一体全体何だろう。
古今東西“台所の光景”とは母性と寛容とを顕現し、まばゆき光背(こうはい)に縁取られかのような神聖さを付帯されがちであるが、ここで石井もその白さと温かさを強調して、洞窟のような場処で朽ちていくしかなかったおんなたちをより黒々と塗りこめるための補色として対極的に置いたものだろうか。
それとも、魂を粉々に砕かれようとも、男たちの横暴に対して覚醒した我が内なる力をもって立ち向かうことを“決意した者”として、そうして、その傍らに横臥した死者の肉体がそろそろ“自己崩壊を始めるといった状況”の、つまりは“同じ側に立つもの”として、この“台所”を描いたものだろうか。どちらとも取れるが、より石井らしく思えるのは明らかに後者だろう。安全圏にない“台所”が挿されていたように思う。
劇の中盤に描かれた厨房での銃撃線は、活劇映画史に刻まれる凄絶で悪夢的なものだった。ステンレスの大型機器が妖しく反射し、お手頃なシャワーもちゃんと付属している。それゆえに選ばれたに違いないけれど、思えばあの場面とて上記に等しく、そろそろ自己崩壊を始める気配の生肉のでんと転がる“台所”であったのだし、ちひろ(喜多嶋舞)というおんなの転機となる場処であった訳だから、符合するものは確かにあるのだ。
(*1):準備稿 シーン113
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