冒頭、野武士に拉致されかけた夏川結衣は既(すんで)のところで助かるが、足が痛む、到底歩けないと柳葉敏郎に視線を送り、その背中を借りるのだった。この足の負傷もお芝居であるのかどうか。確かに足袋は白く綺麗なままで現実味が乏しい。
次の場面では、煩悩の渦にうろたえる男がコミカルに描かれる。胴体を密着させたおんなに対し、臀部に伸ばしたおのれの手のやり場に困る。会話するたびにおんなの息が首すじをくすぐる。さらに私たち視聴者は、おんなの首がにょろりと一瞬だけ伸びるのを目撃してしまう。色香に脆い男の本性を鼻で笑い、やれやれこの程度の芝居にだまされおって、痴れ者め、と考える。だから、おんなの足首の話もかなりの確率で嘘と疑うのは道理である。
ところが野武士の巣窟での死闘を経て、生首がようやく取り戻され、元気に蘇生して見える夏川がなぜか足をずるずるとひきずっているのだった。山道をくだる柳葉の背中を必死に追う姿が痛々しい。もはや無理だな、遠慮せずに俺の背に負ぶされと柳葉が気遣うに至って、その繰り返される光景のくどさに私たちは石井らしい粘着した語り口を認める。「気付いたかい、分かるかい」とつぶやく石井の声と視線を感じ取る。
此処から解釈されるのは、足の痛みは芝居ではなかったという真実だ。殺害に至った(首を斬られるに至った)過去現実の、さらにはもしかしたら冒頭で再現された二度目の現場でも、おんなは理不尽な性暴力に遭って怪我を被ったという設定である。
この『ろくろ首』には石井の劇画【天使のはらわた】(1978)とイメージの相似があることを先に書いたが、【天使のはらわた】の第一部で土屋名美が川島哲郎たちに襲撃され、雨がそぼ降る鉄道操車場に追い詰められた際に、足を挫いて歩行が困難となる様子が添えられている。夏川結衣演じる月乃というおんなに対して、石井は名美の面影を託しているのは間違いない。
【天使のはらわた】の名美という娘は幾度も幾度も性暴力の被害に遭うという凄惨な造形がされた特異なキャラクターであるのだが、その血を継いだ月乃という戦乱の世に生まれたおんなに対し、石井は「よく分からない形」で、繰り返される暴姦の憂き目を強いているのである。夏の夜の誰でも楽しめる幽霊奇譚にしては、どこまでも身体の痛みや苦しみを追求した脚本である。
それにしても、ここまで反復を繰り広げ、わざわざ地獄を再体験させていく作劇はどうだろう。この執拗さは何だろうか。山道を柳葉が登って来る様子を木立の陰から遠目でうかがい、先回りして木の根元に腰を下ろし、ああ、痛い、足を挫いてしまった、とても歩けないわ、と顔を歪めれば、芝居は、台本はひとまず成立しただろうに。この過酷さは一体全体どうした訳だ。
わざわざ現実の(再度の)暴姦場面の渦中に身を晒して、このような目に遭ったのだ、大勢に襲われたのだ、叫べども誰も助けには来ず、泣いて懇願しても耳を傾けてはくれず、襲われ続けて足を傷め、首を切られて私は殺されたのだ、と、「よく分からない形」で見せつけている。
月乃、夏川結衣に尋常な域ではない芝居を指示していながら、苛烈な様相をそうっと死角に置いていく。「不在を描く」石井ならではのリアルティがある。『ろくろ首』はまぎれもなく石井世界という伽藍の一部となっている。
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