2023年7月22日土曜日

“修羅場に芽吹く純愛”~『ろくろ首』考(5)~

 


 石井隆が世に放った怪奇譚『ろくろ首』の輪郭をざっと辿れば、以上のようにまとめられる。ずいぶんと込みいった話であること、了解いただけると思う。次にこのドラマを石井世界と照らし合わせてどう捉えるべきか、私たちに何が見えてくるかを考えたい。

 第二幕の月乃(月姫)救出を目撃して、私たちは複数の石井作品からの木霊(こだま)を聞く。悲鳴を聞いて駆けつけた柳葉敏郎が目にしたのは男に襲われて着物の裾をはだけた夏川結衣である。暴姦される寸前のおんなを救い出したことに端を発する物語は、石井が繰り返し用いた導入部のひとつだ。相似する場面を内蔵する作品をここに並べることはじつに容易い。すなわち、劇画【天使のはらわた】(1978)や『黒の天使vol.2』(1999)が浮上する。

 乱暴狼藉をはたらく荒くれから女性を救う。この手の英雄描写はありふれたもので石井の専売特許ではなく、誰もが見覚えのある人情劇の枝葉である。かつて量産された時代劇でも題名は忘れたが、まさにこんな発端を観ている。峠道で追い剥ぎに襲われた母娘ふたり連れが危機に追いやられる。少し遅れて同じ道を歩いていた孤高にして美形の剣士が異変に気付いて駆け寄れば、すでに母親は背中を真一文字に切られて絶命しており、娘の周りには砂糖にむらがる蟻のように複数の男たちが嘲笑いながら屈みこんでいる、そんな場面である。抜刀した剣士は目が醒めるほどの剣さばきを披露し、たちまち暴漢たちは泥土を舐め、蹴散らされるのも定番の流れだ。

 それであれば、何もここでわざわざ【天使のはらわた】と『黒の天使vol.2』を引き合いに出すまでもないじゃないか、そう人は思うだろう。ブラウン管に手垢のついた状況が映し出され、予定調和的に駆けつけた武芸者がこれを救う、それだけではないか。お喋りをしながら、家事をしながら、片手間に眺めても安心していられるバラエティ色つよい構成である。危なかったのね、ああ、助かったのね、良かったわね、それで十分ではないか。

 されどこのような話の展開は小泉八雲(こいずみやくも)Patrick Lafcadio Hearnの原作には影もかたちもなく、石井が積極的に注入したエピソードである点は無視出来ない。この辺については後述するが、石井隆の花押(かおう)として暴行救出の場面が組み入れられた点につき、私たちはつよく意識して良いのであるし、何よりいちばん意識したのは石井本人であるだろう。

 つまり石井隆は大胆にも『天使のはらわた ろくろ首』を披露してみせたのであって、それを意識して鑑賞することを暗に求められている訳なのである。この視線の獲得を為し得た瞬間に、私たちは石井独特のまなざしと呟きを体感することになるが、お化けの出る娯楽作品とのみ了解して終わってしまえば、石井隆とは思えない乾燥した面立ちに思えてならず、どうしてこんな軽い企画に乗ったものだろう、誰が書いても同じじゃないか、よくある道中ものでしかない、そう戸惑うばかりだろう。

 【天使のはらわた】と『黒の天使vol.2』は闇世界で糊口をしのぐ青春劇であり、魑魅魍魎の蠢く群像劇でもあるので視点がゆれて焦点が定まりにくいところがあるが、前者の川島哲郎と土屋名美、後者の魔世(天海祐希)と山部辰雄(大和武士)の立ち位置は「純愛」であるから、『ろくろ首』にも「純愛」の芳香が付き纏う。恋に落ちる男とおんなのなれそめを、どうしてこうも過酷な修羅場に持っていこうとするのか。石井隆という作家の特異性がここでも目立っているが、40分という短時間にもかかわらず、この出逢い以降の『ろくろ首』の顛末を丁寧に咀嚼していくと、思いがけずどこまでも石井世界の連結があることが分かってくる。



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