はたして川端康成の「雪国」は石井世界と直結するのかどうか、此処から先はどうしたって足が鈍る。先ずもって石井が何時どのようにして「雪国」と接触したか、小説なのかそれ以外か皆目分からない。出逢っているのは違いないのだけど、さまざまなバリエーションを映画やテレビジョン、舞台の上に展開させてきた作品であるから、読み手の印象はどの媒体に拠ったかで相当違ってくるだろう。「雪国」の総体をつぶさに見比べ、さらに石井の各作品と照合するのは困難は話で、これ以上の深掘りは諦めざるを得ない。(*1)
そもそも男とおんながいる限りにおいて、「雪国」的な情景は日々この世界に星のごとく生まれては消えていくのであって、小説に限って言っても手繰っていけば似た場面がすぐに見つかるだろう。特別視しては滑稽だし、他人が磨き上げた水晶玉の内側に石井の劇が小さく収斂されることなど、考えてみれば最初から有り得ない話で、仮に「雪国」の影響があったとしても、それは肩に降り立った雪片程度の重みでしかない。いい加減、この辺りで話を打ち切らないと笑われそうだ。
備忘録を兼ねて、最後に二点のみ書きとめたい。ひとつは繭蔵の二階から落下した葉子という娘の解釈。ある人は「葉子の終焉が果たして死なのか、あるいは狂気なのか、小説「雪国」は明らかにしていない。失神した彼女を抱いた駒子は「この子、気がちがふわ」と叫ぶから、たぶん狂女として生きのびるのであろう」(*2)と書いていて、確かに川端の本意はそこであろう。最初に映画化された折りに八千草薫が演じた葉子は、顔面に大火傷を負った姿で幕引きにも現われていたけれど、あれなどは随分と歪曲された演出と感じられる。「島村はやはりなぜか死は感じなったが、葉子の内生命が変形する、その移り目のようなものを感じた」と原文にもあるから、葉子はその身を狂気にゆだね、一線を越えて業火に身を投げたと捉えるのが正解となる。
それにしても小説の冒頭で「悲しいほど美しい声」を発し、「澄んだ冷たさ」を同居させていた娘が、巻末ではその「内生命を変形させて」狂ったまま生きのびていく状況というのは、まったくもって酷い話であって、小説家というのは怖ろしい思考回路をしていると唖然とするより他ない。2004年以降の石井隆の映画には、狂気へと緊急避難するしかなかったおんなが続出するのだが、その原石のひとつとして、「雪国」の葉子が石井のこころの奥のどこかに佇んでいる可能性が(雪片程度の確率で)あるだろう。
また、「雪国」の劇中で男とおんなの間にちょっとした言葉の行き違いがあり、おんなが激昂する場面がある。読みながら、人が人と触れあい、心根を語っていくことのどれだけ繊細で困難な作業かを考えさせられる事しきりだった。男の気持ちに悪意は潜んでいなかったが、安易に用いた言葉がおんなの精神をひどく迷倒させる。(*3)
偶然にもそのやりとりは、以前に調べた『天使のはらわた 赤い教室』(1979 曾根中生)での台本改訂箇所とそっくりであって、あの映画での名美は「雪国」の駒子と違って怒りに我を忘れることはなかったのだけど、それは演出家がそこまで気が回らなかった為であって、石井自身が自ら指揮していたら、やはりあんな不用意な発言は村木に許さなかったと思われる。「君はいい子だね」と「君はいい女だね」に天と地の開きが「雪国」に生まれたように、石井が「女(ひと)」と書くときはあくまでも「女(ひと)」であり、「女(おんな)」とは別次元なのだが、あの映画の監督はそんな事は蹴散らして進むひとだった。そこまで細かなところに心を砕く点から言っても、石井隆は川端の血筋に当たる。私の人生に川端は寄り添わなかったが、後継者と信じ得る存在とこうして併走し、精緻な伽藍が建立なっていく過程を日々見上上げることが叶うのは、つくづく幸せで嬉しいことだ。
(*1):主な作品 ウィキペディアより
映画『雪国』(東宝)監督 豊田四郎 出演 池部良、岸惠子、八千草薫 1957
テレビドラマ『雪国』(NET)若原雅夫、小山明子、矢代京子 1961
テレビドラマ『雪国』(TBS)池内淳子、山内明、岸久美子 1962
映画『雪国』(松竹)監督 大庭秀雄 出演 岩下志麻、木村功、加賀まりこ 1965
テレビドラマ『雪国』(NHK)中村玉緒、田村高廣、亀井光代 1970
舞台劇『雪国』 芸術座 若尾文子、内藤洋子 1970
テレビドラマ『雪国』(KTV)大谷直子、山口崇、三浦真弓 1973
(*2):「川端康成研究叢書5 虚実の皮膜 雪国・高原・牧歌」 川端文学研究会 教育出版センター 1979所載 『雪国』の作品構造 上田真 91頁
(*3): 島村がしばらくしてぽつりと言った。
「君はいい子だね。」
「どうして?どこがいいの。」
「いい子だよ。」
「そう?いやな人ね。なにを言ってるの。しっかりしてちょうだい」と、駒子はそっぽを向いて島村を揺すぶりながら、切れ切れに叩くように言うと、じっと黙っていた。(中略)
駒子は自分を振り返るように、長いこと静かにしていた。その一人の女の生きる感じが温かく島村に伝わって来た。
「君はいい女だね。」
「どういいの。」
「いい女だよ。」
「おかしなひと。」と、肩がくすぐったそうに顔を隠したが、なんと思ったか、突然むくっと片肘立てて首を上げると、
「それどういう意味?ねえ、なんのこと?」
島村は驚いて駒子を見た。
「言ってちょうだい。それで通ってらしたの?あんた私を笑ってたのね。やっぱり笑ってらしたのね。」
真赤になって島村を睨みつけながら詰問するうちに、駒子の肩は激しい怒りに顫えて来て、すうっと青さめると、涙をぼろぼろ落した。
「雪国」 川端康成 1937 手元にあるのは新潮文庫141刷 引用は145-147頁
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