木綿わたが夜空をくまなく覆って、町がゆっくりと蒸されていく。湿った空気が居座って、西から東へと風が幽かに渡っていくが追い払えず、鬱陶しさが増していく。ブロック塀下の雑草の蔭からは、時おり、ちい、ちい、と、赤子の声にも似た虫の鳴くのが湧いて来る。こんな宵闇に人は雷球や狐火を目撃するのだ。まだ見たことは無いけれど、いつか彼らと出くわして大そう肝をつぶすに違いない。季節の端境には不安定な心持ちとなり、怖い物を避けたくなると同時になぜか妙に惹かれてしまう。
怖いと言えば、「別冊新評 青年劇画の熱風 石井隆の世界」(*1)の巻末に載せられた石井自身による年譜には、常々気になって仕方なかった箇所がある。七歳から十三歳までの少年期をまとめた短文で石井は「床屋での待ち時間に、置いてあった「伝統と奇談」で芳年の「奥州安達ヶ原ひとつ家の図」や伊藤晴雨の絵を目撃、興奮治まらず、目の裏に長く焼きついて離れず」(*2)と書いている。
月岡芳年(つきおかよしとし)と晴雨(せいう)、ふたつの名は石井の対談やインタビュウで顔を覗かせる常連だからそれ自体に驚きはない。世間によく知られたあの縦長の絵、荒縄で縛られ半身着物を剥ぎ取られ、哀れ天井から吊り下げられたおんなの苦悶の様子に石井はそんな早い段階で出逢ってしまったのか、さぞや仰天したことだろうな、三つ子の魂百までとはこういう事だな、そんな風に軽く読み流せば良いのだろうけれど、何となく「伝統と奇談」という題名にはしつこい重力と強面の風情があった。無言のままで背後に居続ける、そんな気配にずっと囚われ、三半規管がやられて五度ほど身体が傾いた気分を振り切れずに過ごした。
調べてみると「伝統と奇談」とあるのは誤植であり、正しくは「傳説と奇談 日本六十余州」という本なのだ。今で言うなら広告が喧しくて記憶に厭でも残るデアゴスティーニ、ああいった分冊形式の販売であって、別巻まで根気強く買い求めた末には十八冊にも膨れあがる。列島北から南までが並び揃って、それぞれの地方に根付いた因習や伝承を網羅する流れだ。
手元にあるのは昭和42年(1967)から翌年にかけての発行と奥付にあって、石井の年譜とずれがある。妙であるからもう少しだけ手を伸ばして探ったところ、装丁の異なる前年発行の薄手のものが直ぐに見つかった。さらに調べるともっと古い物も在るらしく、どうやらこの「傳説と奇談」という冊子は加筆や削除を繰り返しながら版を重ね、時期を何度か見計らっては頒布されたらしい。
この前の休日は珍しく朝から晴れたので、これを利用してごっそりと冊子を両手に抱え出し、日なたでの読書を決めこんだ。もともとこの手の民間伝承は嫌いではないが、夕暮れてからはあまり読みたいと思わない。面白い時間だったけれど、それより何よりおのれの目が少年石井のそれとなり、驚愕や畏怖を追体験できる事が嬉しくって気持ちをはやらせた。頁をめくる毎におどろおどろした図版が立ち上がり、この本の存在をあえて年譜に刻んだ石井の意図が何となく伝わるところがあった。「傳説と奇談」には膨大な画像が掲載されてあるのだが、芳年と晴雨はここでは別格扱いとなっているのが分かる。
とにかく古い本なのだ。鮮度はとうの昔に失われている。昭和三十年代の前半に組まれた頁がずるずると流用され、半端な記述ばかりで資料的価値はほぼゼロと思われる。写真はいずれも平坦で、明朝体で組まれた題字も精細さを欠き、不要な余白ばかりが目立って雑然として見える。もっとも当初から学術書を作るつもりもなかったろうし、読者にしたって漫画や紙芝居の延長として買い求めたに相違ない。
今こうして半世紀の時間越しに眺めていくと、唯一あちらこちらに点在する錦絵と遠近法のやや狂った水彩の挿絵には独特の息吹が宿って感じられ、写真と違って絵筆には底力があると唸らせられる。喜多川歌麿、歌川豊国、それに国芳も交じるのであるが、圧倒的に目立つのは晴雨の絵であるのだし、表紙の多くが芳年であって、両者は全集を牽引するメインの絵師として位置付けられている。
石井が手塚治虫に傾倒していたことは知られた話であるが、漫画とは趣きの異なるこうした一枚絵と向き合ったのも同じ時分であったろう。こうして大量に、それも一気呵成に物語絵との対面を果たし、むら立つ武士、グロテスクな式神、跳躍する天狗、虐げられた娘、魔性のおんなたちからの鈍い放射熱をゆるゆると吸収していった事実は、石井の作歴を考える上で興味深いことだし、もしかしたら極めて大切かもしれない。
手塚の漫画が台頭し、そこに映画的な躍動が注入された。疾走する車、雲を突き破るロケット、地中を掘り進む特殊戦車のけたたましい動きは、背景描写を時に溶解させ、時に黒く塗りつぶして流動性を確保するに至ったが、ある程度の表面積を得ながらも一枚切りで、つまりはひとコマで勝負せざるを得なかった往時の錦絵や挿絵の描き手たちは、空間の拘束からどうにも逃れ得なかった分、結果的に大気や風雨、草や枝葉を大量に多層的に塗り込み、活き活きとした環境を提示することに骨折っている。
人物描写の巧みさもさることながら、画布の隅々を満たしたアトモスフィアを味方にし得る者だけが大衆の視線を獲得して、人気を博していった次第であって、詰まるところそれは石井の劇画、ひいては石井の映画と通底する描写と思う。
石井が劇画家として生計を立てはじめた最初のころ、雑誌向けの挿絵やカットを描くことが多かった訳だけど、これと並行して画集「死場処(しにばしょ)」(1973)を完成させ、胸に大事携えて出版社を巡っている。草むらの葉や茎、湿った畳の目、柱の木目といった細々したものを丹念に描いた、各々独立した絵が脈絡無く並んだ集合体として「死場処」はあったが、これと類似する手触りの石井の初期作品として、幾人かの絵描きとの共作となるが、子供向けの妖怪図鑑の挿絵があった。あれなども恐るべき集中力と繊細さを感じさせる絵が並んでいた訳だが、私は「傳説と奇談」をめくりながらどうしてもこの二冊を思い出さずにはいられない。(*3)
思えば幽霊や妖怪を描くとはどういう事か、自ら筆を持って白い紙に向き合ったつもりで考えるならば、それは対象物を描く以上に現象と空間を取り込む作業となる。どうしようもなく不安にかられる樹々のでこぼこの肌であったり、剥がれ落ちつつある漆喰壁であったり、稲光や雨の勢いであったり、衣服の妙な具合の膨れや皺であったりを描きに描いて、ようやくこの世ならざる光景が垣間見られる。異界の者それ自体の造形と共に崩されていく日常こそが大事であって、その舞台の密度がともなわないと視るものを捕らえて引きずることは難しい。
石井が述べている芳年の「奥州安達ヶ原」にしてもそうで、誰もが不幸な妊婦とそれを見上げる鬼婆に視線をがんじがらめにされるのだけど、壮絶な状況描写を支える背景の造り込みにも同等に着目しなくてはならない。おんなの乳房の背後に穿たれた壁の亀裂や、右手の窓の奥に咲く夕顔の花の白さは作為に溢れ、観察者のこころに侵入していたく刺激する。視線の滞空を延ばし、いつしか一枚絵には時間が宿って鼓動を刻み始める。
タナトス四部作に代表される劇画と監督映画のいくつかには、妖しげで何処か哀しい霊的現象がちりばめられているけれど、もしかしたらそれ等は石井の一部というより本質なのではなかろうか。白く光って糸を引きながら次々に飛来する雨粒、それが作る水紋、雷鳴、奇妙な影、奇怪に林立する柱、禍々しき壁の亀裂。石井が「傳説と奇談」を通じて学んだことが映像となって開花している。それを背後にして、予想し得ない人物がぬっくと立ち現われる。もちろん芳年と晴雨、ビアズリーや伊藤彦造その他大勢の画家の巧みな人物の描写に舌を巻き、いつかこういった姿態、こういった表情をものにしたいと願ったのは違いなかろうけれど、それ以上に幼な心を鷲づかみにした絵の力に石井は心服し、鍛錬を続けたのだ。
生活者の背面に控える自然や日常の変質を通じて、ようやく突破なる局面が物語には潜み、そこに至って初めて醸成される深い恐れや強い悲しみの在ることを石井は信じている。だからこそ、ひたすら雨を呼び、照明の加減や風合いに凝り続ける。絵師としての視線が其処には一貫して注がれている。
(*1):「別冊新評 石井隆の世界」 新評社 1979
(*2):ウェブで開示されている図書館の蔵書情報を手探ると、1959-1960、1巻1号 (昭34.5)という記述があって、これがどうやら初版らしい。これだと石井の年譜とぴたり整合する。
(*3):「とてもこわい幽霊妖怪図鑑」 草川隆 朝日ソノラマ 1974
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