2016年6月12日日曜日

雪原(1)


 日常の慰めのひとつは、車を駆っていくらかまとまった距離を走ることだ。車種は問わないし、速度もそうは出さない。商談や会議、葬祭に出向く機会にほぼ限られ、やみくもに走る事がない点が自分でもつくづく貧乏性と感じるし、身近な知人と会って過ごした方が余程愉しく有益な時間になると分かってはいるのだけれど、なんだかこの頃は凄く臆病になって逢えずにいる。

 朗読や落語を収めたコンパクトディスクを旅の友と決めて、流れる風景を愛でながら耳を傾ける。俳優や噺家の発する台詞が肌に吸い付くようであり、さらに体内の奥へ吸収されて五臓六腑にじゅんと沁みていく感じが有ってたまらない。

 最近の脳科学の話によれば、ハンドルを握っている私たちの内側でアルファ波と呼ばれる脳波がだだ漏れ状態なのが測定されるらしい。発進時のとがった緊張が煙のように消え去り、タイヤが順調に回りだして以降にいよいよ泉のごとく湧き上がるそれは、甘い快楽や集中力の極度の高まりが運転にともなう確たる証しだ。これは素人推測なのだけど、多分そんな最中に聞く先人の名筆というのは、走行がもたらす愉悦と相互に影響し合い、うねうねと繋がる波形を増幅する効果が有るのだろう。

 言葉に手ごわい浸透圧があって、自身の体験記憶と共鳴しては渦巻き、思考が活発化するのが実に嬉しい。麻薬の酩酊にこれはかなり近しい神経の活性ではないか、と本気で疑っている。三島由紀夫、堀辰雄、サガン、遠藤周作、瀬戸内寂聴といった薬をむさぼる際には、視界がゆらりと明度を増すようでさえあって、あきらかな覚醒作用が働いて感じられる。

 先日、新緑の樹々に抱かれて蛇行する峠道を上り下りしながら、川端康成の「雪国」(1937)(*1)を最初から最後まで聞いた。窓の外は虫たちがわんわんと鳴いて、その生命力を競い合っていた。恥ずかしい話だけれど、こんな年齢になって物語の全容を初めて知る。無菌状態の新興住宅街に生まれ育ち、花街や晩酌とは無縁の幼少年期を過ごしてしまったから、トンネルや列車、それに様ざまに変わる雪の質感や寒気といったもの以外は自身の引き出しに乏しく、絵面がぜんぜん浮かばなかった。最初の数頁をめくっただけで手に負えない気がして放り投げている。ありきたりながらも年相応に経験を重ねて、少しは人情の機微を察するだけの箪笥預金が出来たせいだろう、描かれた男たちの暗澹も女たちの焦慮や諦観も、もはや一方通行ではなく、自分のこころと盛んに交信を始めるところがあった。男優の巧みな話術を借りて血肉化なったおんなの息づかいと肉声が、鼓膜をさわさわと震わせ、明瞭に想いの丈が伝えられた。一字一句が光跡を露わにしつつ、しんしんと胸の内に降り立った。

 川端の創造世界に圧倒された私は車を降りてからもしばらく引きずられ、その残響に耳を傾けた。特に最終章で映画を上映していた繭蔵が出火し、偶然居合わせたものか、それとも蛾が炎に吸い寄せられるようになったか、宿命に打ちのめされた若いおんなが二階から落下する描写と、これに続くヒロイン駒子の「この子、気がちがうわ。気がちがうわ」という絶叫、そしてその刹那に男が見上げる天空の星々の在り様といった大胆なカットバックには衝撃を受けた。

 葉子という娘の墜落は一瞬の出来事で、「あっと人垣が息を呑んで、女の体が落ちるのを見た」その中に男とヒロインも混じるのだが、川端はその時間を巻き戻し、さながら映画フィルムをコマ送りにするか、それとも劇画の枠内に永遠に面影を刻むようにして落下の仔細を読者に再提示する。

 「繭倉は芝居などにも使えるように、形ばかりの二階の客席がつけてある。二階と言っても低い。その二階から落ちたので、地上までほんの瞬間のはずだが、落ちる姿をはっきり眼で追えたほどの時間があったかのように見えた。人形じみた、不思議な落ち方のせいかもしれない。一目で失心していると分った。下に落ちても音はしなかった。水のかかった場所で、埃も立たなかった。新しく燃え移ってゆく火と古い燃えかすに起きる火との中程に落ちたのだった。」

 このように一度書き留めた上で川端は、おんなの身体を二階家まで持ち上げてから再度投げ捨て、落下の描写を執拗に繰り返す。「古い燃えかすの火に向って、ポンプが一台斜めに弓形の水を立てていたが、その前にふっと女の体が浮んだ。そういう落ち方だった。女の体は空中で水平だった。島村はどきっとしたけれども、とっさに危険も恐怖も感じなかった。非現実的な世界の幻影のようだった。硬直していた体が空中に放り落されて柔軟になり、しかし、人形じみた無抵抗さ、命の通っていない自由さで、生も死も休止したような姿だった。島村に閃いた不安と言えば、水平に伸びた女の体で頭の方が下になりはしないか、腰か膝が曲りはしないかということだった。そうなりそうなけはいは見えたが、水平のまま落ちた。」(*2)

 残酷かつ崇美なおんなの墜落の様子を後追いしながら、いつしか私の目のふちには石井の劇画代表作【おんなの街 雨のエトランゼ】(1979)のラストシーンが浮上した。どうかしている、またいつもの馬鹿な連想が始まったかと、誰に言われるまでもなく警戒する囁きが内心に起こり、この場に書き綴ることに躊躇いを覚えたままでしばらく過ごした。

 だいたいにして村木の仕事場のあるビル屋上から投身した名美は失神しておらなかったし、その身体は‟く”の字に少しだけ曲がっていたから水平ではなかった。生も死も休止したような姿で宙に浮かんだ名美の姿は、身体の向きが上向きか下向きかの違いはあっても、どちらかと言えば同名のフランス映画(*3)の冒頭に置かれたスクリーンプロセスで撮られたおんなの投身場面に近しいのであって、川端の「雪国」にある葉子の絵姿と表面上は二重写しとならない。そもそも名美の身体がいよいよ路上に至ったとき、無音という訳でもなかった。

 石井作品との連環はさておき、川端の「雪国」が胸にひどく来たのは事実であって、この際しっかりと記憶に収めたいとまずは考えたのだが、何しろ有名な国民文学であるし、不勉強な自分が未熟な経験と知識で消化するのは困難と感じられ、関連する研究書籍を幾冊か読み漁り、また、岸恵子や岩下志麻の映画も探しては眺めるといった時間をこの半月過ごした。

 そのような行程を経た上でも私は、いや、それで尚更という気持ちなのだけど、川端の「雪国」が石井の“記憶の文学”として機能し、その足跡を石井世界に横たわる真っ白な雪原に残した可能性を否定し切れずにいる。世間にいくら笑われても構わないから仮のテーマとして皆に開示したいと思い、頬を撫ぜていく初夏の風だけを味方にこれを打っている。


(*1):川端康成「雪国」 朗読 加藤剛 新潮社 2001
(*2):「雪国」 川端康成 1937 手元にあるのは新潮文庫141刷 引用は171頁
(*3):『雨のエトランゼ』Un Beau Monstre 監督 セルジョ・ゴッビ 1971

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