2016年6月19日日曜日

雪原(2)


 石井隆がかつて寄稿した文章やインタビュウにおいて、川端康成に触れた事は一度も無かったと記憶している。水上勉とその文学、映画化なった作品に関しては熱心な言及(*1)が無理なく見つかるのだが、川端についてはどうも見当たらない。石井世界と「雪国」とを結びつける試みは、狂った妄執と捉えられてもだから仕方がない。

 推論が正しいとしても、騒ぎ立てるに価しない話やもしれぬ。作劇を生業とする者なら誰もが熟読していて当然であり、だから、石井の創作現場にどんな反射光が及んでもそれはごくありふれた現象に過ぎない。川端と並行して石井世界を楽しんだ上の世代の人にとって、もはや手垢のついた話題に過ぎず、何を今頃になって吠えているのかと訝り、私のことをひどく哀れと感じるかもしれない。その辺りについては自信がまるでない。


 川端は越後湯沢に何度か足を運び、取材と体験を基にして「雪国」を構築していった。今でこそ舗装道路が完備されて大型トラックが行き交い、全国展開の大手商流に侵され、同じ車種、似た服装、世界に通じる情報端末を誰もが身につけて均一化された次元だけど、昭和初期の格差は恐ろしいほど有って、山懐に抱かれた当時の温泉町というのは東京のそれとは別世界同然だった。冬季の降雪にともなう環境の激変と、それによって育まれた風習や産業に関しては、特に想像の及ばぬ夢幻の領域にあった。

 異邦人として湯町に闖入した川端が、虎の巻として大切に懐中に忍ばせ、当時はまだ「雪国」とは呼ばれていない物語を練るのに使用した古い風土記がある。これは「北越雪譜」という書物だと広く知られているが、どんな本であるのかを簡略にまとめた文章があるから書き写せばこんな具合だ。「『北越雪譜』(ほくえつせっぷ)は、江戸後期における越後魚沼の雪国の生活を活写した書籍。(中略)雪国の諸相が、豊富な挿絵も交えて多角的かつ詳細に記されており、雪国百科事典ともいうべき資料的価値を持つ。著者は、現在の新潟県南魚沼市塩沢で縮仲買商・質屋を営んだ鈴木牧之。1837年(天保8年)に江戸で出版されると当時のベストセラーとなった」(*2)とある。

 実際の執筆にあたってもその文中に盛んに引用を重ねた「北越雪譜」だけど、この本は「雪国」における舞台美術の役割に止まってはいない。形を変えて天地を縦貫する水(雨、雪、水蒸気)の動線が「北越雪譜」の冒頭には紹介されてあるのだが、これに近似した縦方向への動きが「雪国」の逸話や男(島村)の視点に視止められるのだし、また、男の脳裏にこびり付いて物語全体を暗雲のように覆い尽くす“徒労”という意識は、古から雪に対峙して疲弊を極める山間部住民の心情を反射させているだろう。さらには、幕引きにて発狂に至った葉子という娘の造形にも影響を及ぼしていると説く論文も見つかる。(*3)

 「雪国」の中で島村が東京でどのような日々を送っているか、それを彼の目線でやや自嘲的に説明するくだりがあるが、この辺りの茫洋とした感じは「北越雪譜」という書中の奥を彷徨う作者の実像と被って見える。「雪国」という幻想譚には、書物に淫した男の独白という隠れた一面があるのであって、二冊の書物の連結は思いのほか強い。(*4)

 ほとんどの読者はこの“昔の人の本”を実際に手に取ることはしないし、川端の内面と彼の小説にどこまで浸透してその創造を支援したか気にしないのだけど、「北越雪譜」と「雪国」の執筆活動は融け合っており、両者の解離は許されない。

 さて、前置きは終えて本題、つまりは川端と石井隆の連環について語るなら、先ず瞠目すべきはこの鈴木牧之(すずきぼくし)の遺した「北越雪譜」という書名だ。おそらく造語であるのだろう“雪譜(せっぷ)”という語句に汎用性は皆無であり、いくら探してもシンセサイザー奏者のアルバムタイトルが僅かに見つかるだけであって、ほぼ全ての検索結果が「北越雪譜」という書物に集約されてしまう。ところが、石井の初期の劇画には、他ではほとんど見られないこの“雪譜”を題名に用いた短篇が見つかるのであって、これは果たして偶然の一致と言えるだろうか。

 1976年(昭和51年)のヤングコミックに掲載された二十一頁のそれは、【暴行雪譜】と題されたもので、同年「女地獄」と銘打たれた特選集にも再収録されている。強姦未遂事件を起こした若者が切羽詰って秋田行きの夜行列車に飛び乗り、雪に覆われた海辺の駅に降り立つ。そこで淋しげな風情のおんなと出会うのだった。

 いつか運命的な出逢いが訪れ、互いに惹かれ合い、霊肉一致の融合を果たす日が必ず来ると信じて生きる街住まいの人間の翳を、どちらかと言えば石井は丹念に描いてきた。地方の町から都会の底辺へと漂着した男女の弧弱を見つめ続ける石井隆の作歴において、それとは真逆のベクトルを示す関東圏からの脱出行と、雪深い僻村での和服姿のおんなとのいじらしいとも言える出逢いが描かれていて、【暴行雪譜】は奇妙な潮目と波形を湛えている。石井が川端「雪国」を自分なりに咀嚼し、現代に蘇らせた小品と捉えるのがどうしたって自然ではないか。

 物語の最後で断崖に突き出た雪庇(せっぴ)が突如として崩れ、声をあげる間もなく海面へと真っ逆さまに落ちていく若者の様子というのは、(水上原作の映画とも似ていることは似ているけれど、)川端の創造した葉子という娘の墜落場面ともひそやかに共鳴するところがありはしないか。


(*1):「記憶の映画3」聞き手 権藤晋「石井隆コレクション3 曼珠沙華」1998 まんだらけ 所載 「水上作品が僕を惹きつけて、原作を買っては読み耽っていた」
(*2):ウィキペディアより
(*3):「川端康成『雪国』を読む」奥出健 三弥井書店 1989 158頁 「行男の死後この二人は決定的な違いをみせる。駒子は極力行男のことに触れまいとするのに対し、葉子はまるで〈物の怪〉に憑かれたように墓参を繰り返す。この葉子の姿は『北越雪譜』──「織女の発狂」の項─に記されている名品を織ろうとして気の狂った機織娘に似ている。」 

(*4):「西洋舞踊の書物と写真を集め、ポスタアやプログスムの類まで苦労して外国から手に入れた。異国と未知とへの好奇心ばかりでは決してなかった。ここに新しく見つけた喜びは、目のあたり西洋人の踊を見ることが出来ないといるところにあった。その証拠に島村は日本人の西洋舞踊は見向きもしないのだった。西洋の印刷物を頼りに西洋舞踊について書くほど安楽なことはなかった。見ない舞踊などこの世ならぬ話である。これほど机上の空論はなく、天国の詩である。研究とは名づけても勝手気儘な想像で、舞踊家の生きた肉体が踊る芸術を鑑賞するのではなく、西洋の言葉や写真から浮ぶ彼自身の空想が踊る幻影を鑑賞しているのだった。見ぬ恋にあこがれるようなものである。しかも、時々西洋舞踊の紹介など書くので文筆家の端くれに数えられ、それを自ら冷笑しながら職業のない彼の心休めとなることもあるのだった。」「雪国」 川端康成 1937 手元にあるのは新潮文庫141刷 引用は24頁

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