2016年6月19日日曜日

雪原(3)


 
 石井自身が時おり口にするように、スターシステムを採用した石井の劇画作品群を俯瞰すると、名美と村木という宿命の男女が延々と為す地獄めぐりの観を呈する。さながらダンテの「神曲」での道行きに似た面持ちなのだけれど、ここでいう「神曲」の景色とはウィリアム・ブレイクWilliam Blakeの手による夢現の水彩画ではなく、暗くて色彩のないギュスターヴ・ドレPaul Gustave Doréの版画を想起しなければ嘘だろう。大袈裟でもなんでもなく、紙面上に刻まれるのは世界を構成するあらゆるもの全てであった。岩肌や林、霧や小船に至るまで、視角に映り込むものは何もかも、さも面前に在るがごとく緻密に描かれたドレの地獄と、どこか漂わす気配を石井世界は同じくしている。

 承知の通りそれは、石井の目指すところが漫画以上に“映画”であった為だ。ロケーションにこだわり、光にこだわり、念入りに選択されたその現実空間に名美と村木の役者ふたりがおもむろに配置されていく。近年の映画製作の現場では技術革新によりコンピューター・グラフィックスが多用され、舞台背景の模造と挿し込みは容易となっていて、かならずしも現実空間を切り取る作業ではなくなったようであるが、石井劇画の構築とは一から十まで徹底した現物主義だった。

 当然ながら、背景とのバランスもあって両者の衣装や装飾もずいぶんと手が込んでいた。皺や伸びにこだわり、バイクのヘルメットを描くときには新たに調達するという具合で、背景も現実なら人物も現実に可能な限り近付け、隙間なく縫合され、同等の比重を保って私たちのこころに訴え掛けた。石井隆は描き手である前に当初から監督業をこなしていたのであり、それも美術から衣装から何から何までを自分で準備する大変な役割を負っていた。

 さて、名美の投身によって劇的な終わりを迎えた【おんなの街 雨のエトランゼ】(1979)から少し後になって、石井は同じシリーズ「おんなの街」の連作として【夜に頬よせ】(1979)という中篇を執筆している。愛読者は冒頭から興味を惹かれる場景を目にすることになる。そこは写真スタジオらしく、照明器具に囲われたモデルのおんな(名美)が衣服をはだけて撮影に応じる真っ只中にあるのだが、彼女が被る帽子は【雨のエトランゼ】で名美が愛用していたのと同一のものに見える。もちろんおんなの風貌は名美のままである以上、読者のこころに異様な緊張が生じるのは避けられない。(*1)

 手塚治虫の描くロック(間久部緑郎)が馴染みの黒いスーツ姿であちこちに出没し、颯爽と風を切ってページを闊歩しても私たちはぜんぜん気にしない訳だから、漫画とはそういう無茶なものと捉え、帽子の類似ぐらいにいちいち驚いてはおかしいのかもしれない。石井は余程この帽子が気に入っていたのだ、だからまた使われたに過ぎないと言われてしまえば話は仕舞いなのだが、ついこの前に投身自殺を図ったおんなの面影そのままを同じ雑誌の冒頭に再現して見せる石井の意識というのは、そこまで単純ではないように思う。(*2)

 視座を反転させ、【雨のエトランゼ】という物語を裏側から覗き見るところから【夜に頬よせ】は構想され、前者ではあまり触れられなかったおんなの私生活に肉薄するぞ、これはそういう話なんだよ、と点滅して知らせる信号灯として、あの馴染みの帽子は採用されたと捉えるのが妥当ではないか。実際、両作品の舞台設定は近似する箇所が多く、眩暈を覚えるようなデジャブ感に襲われる読者も少なくない。魂の諸相を描くにはいくら枚数を投じても足らないという信念からか、それとも【雨のエトランゼ】から泣く泣く削ぎ落とされた部分がいつしか脈動して血が通い、細胞分裂を盛んに始めたものなのか。はたまた、スタジオでの撮影を終え、おつかれさまと挨拶を交わして家路につくおんなの姿を以って、【雨のエトランゼ】というロマンティックな映画が終わり、名美という女優が素に戻ったとでも言いたいのか。何にせよ明確な意図が石井には内在していて、遅れて産みおとされたのが【夜に頬よせ】なのであって、【雨のエトランゼ】とは一卵性の双生児だ。

 無謀にも私は石井の【雨のエトランゼ】に川端の「雪国」を重ね見ようとしているが、その【雨のエトランゼ】の執筆時の作者の心境は、【夜に頬よせ】と境なく溶け合っていることをここで再確認しなければならない。

 再びこのあたりで川端康成の方に話を戻すと、【夜に頬よせ】にはあきらかに文豪を想起させる描画がひとつある。それは村木と名美と共に物語の軸芯となる若者、陽介のある晩の行動として表われる。名美はこじんまりした木造アパートにこの陽介と同棲しているのだが、短気でどんな仕事も長続きせず、自らをクズ、能なしと責めては自殺の真似事を繰り返すのだった。ある時、名美が帰宅すると流しの近くに陽介は横たわっており、その手元にはガスのホースが延びている。ご丁寧にもその端を陽介は口にくわえ、うう、ゼエゼエ、ンググ、苦ッ!と喘いでいるのだった。直ぐに狂言と見破った名美はこれに冷静に対処する。

 滑稽でもの悲しいこの自殺演技については、現実にあった騒ぎを根底に置いていて、気付く人はすぐに気付くのだろうが川端の死を知らせる報道とそっくりだ。事件から五ヶ月ほど経ってから家族が雑誌に寄稿し、発見時の突飛な様子は全否定されている。常用していた睡眠薬の飲み過ぎによりひどく酩酊し、誤ってガスを放出させたまま寝入った末の偶発的な事故と説明されている。しかし、新聞紙面を最初に飾った内容は以下の通りに統一されていて、かなりの衝撃を世間に与えたのだった。「当時、この事件を報道した新聞の見出しを拾っただけでも、四十七年四月十七日付の朝刊では、朝日が〈川端康成氏、自殺/仕事場でガス吸入〉、毎日が〈川端康成氏が自殺/ガス管をくわえて〉、サンケイが〈川端康成氏が自殺/初のノーベル賞作家/逗子のマンション/ガス管くわえて〉、東京が〈川端康成氏が自殺/逗子のマンション/ガス管くわえ〉と、いずれも見出しにガス管をくわえていたという事実を大々的に謳っている」(*3)

 川端の事件は1972年であり、石井の各作品、1976年に【暴行雪譜】が、1979年には【雨のエトランゼ】と【夜に頬よせ】がある。それぞれの間には三年程度の隙間が空いていることから、連環を主張することに無謀を感じる人もいるだろうけれど、あるひとりの作家の死が石井のこころに色濃く影を落としたことは間違いないように捉えている。

 
(*1):加えて帽子を被る名美の頭部は、カメラのシャッターの開口部がガッと作動し、その奥に出し抜けに出現している。【雨のエトランゼ】の別離に関わる重要な小道具がカメラであった点を振り返れば、石井の心理に黄泉の国からの帰還、もしくは多重世界があったと想像するのは容易い。
(*2):【雨のエトランゼ】に代表される名美着用のトレンチコートおよび帽子は、『俺は待ってるぜ』監督 蔵原惟繕 1957の北原三枝由来ではないか、という意見がある。
(*3):「自殺作家文壇史」 植田康夫 北辰堂出版 2008 引用は24頁


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