2014年5月31日土曜日

“三角関係”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[9]~


   『天使のはらわた 赤い教室』(1979 監督曽根中生)を流れる時間は脚本の改訂によって混ぜこぜとなり、村木(蟹江敬三)は恋人と運命のおんな、つまり裕子(水島美奈子)と名美(水原ゆう紀)のふたりを代わる代わる相手せねばならなくなった。(*1) 複数の光軸を抱えてしまい右から左、左から右へと視線を泳がせる訳なのだが、それにつれて映画もまた絞りの甘いどこか弱々しい印象を帯びはじめる。

 言い訳でしどろもどろとなった村木に向けて裕子は、「そんな話、今まで一度もしてくれなかった。うれしい」と微笑むのだった。さらにエロスに固執する村木の本作りに対し、あなたの仕事に一切干渉しない、その代わりに時間は下さいと言葉を継いで共寝(ともね)をねだっている。翌朝の様子から察するに、村木は求めに応じて交渉を持ったようだ。

 驚くべきことにこれは意中の名美を探し当て、翌日の約束までした直後の場景である。情に負けたのか浮気心を取り繕うためか知らないけれど、あっさり肉体をつなげていく『赤い教室』の主人公というのはまったく村木らしからぬ男だし、弁明にじたばたする背中にだまされ、晴れ晴れとした風情で「うれしい」と声弾ませる裕子というおんなの造形もまた実に“非・石井的”な軽さではないだろうか。
 
 ここで思い出されるのは別の石井脚本による作品、『ラブホテル』(1985 監督相米慎二)の景色だ。『赤い教室』から六年を経て発表されたそれは妻の良子(志水季里子)と名美(速水典子)というおんな二人が村木(寺田農)の前に立ちゆらめき、感情を交差させていくいわゆる三角関係を描いており、『赤い教室』と似たつくりとなっていた。

 こちらの村木も元々は出版社を経営していた身だから、面影や口振りがどこか似ている。私服姿が妙にぎこちないのだし、奥歯あたりにきゅっと力がこもり、言葉や所作のいちいちに慎重さを漂わせる。名美というおんなに出会い、その表情に圧倒され、やがて再会するという流れも重なるから両者は石井世界において同根なのだろう。

 過去の作品と似た設定や展開を採りつつ大胆に視座を変え、別の色に染めてみせる、そういう既視感をもたらす“新作”を石井はおもむろに差し出す傾向がある。かさぶたを剥がすようにして物語が過去の記憶から乖離していき、妖しげに、そして豊かに光っていく。そういったパラレルな展開を石井は好んで採用するのだが、両者はその一環と言っても構うまい。

 ボタンの掛け違いによって、まるで違う様相を呈していくのが日常の怖さだ。昨日と今日はわずかに違い、思いもやらぬ岐路をたどって別方向にずんずんと押しやられてしまう。遡行を一切許さないその運命の無慈悲さ、酷薄さをこそ自分は描きたいのだと囁(ささや)くように、また、その乖離を通じて何事か重大なことを耳打ちするように石井は自己作品の反復に強くこだわり続けるのだけれど、この『ラブホテル』にも幾らかそういう衣香(いこう)が漂う。さて、この『ラブホテル』にも光軸の狂いが生じて劇の活力を奪ったものだろうか。三角関係においては、どう足掻いても混沌は避けられないのか。

 両者間の目立った段差は開幕して直ぐ、村木の経営する出版社が倒産してしまう事だ。その顛末を通じて村木と妻との関係は大きく損ねられ、回復不能の局面に至っている点が大事だろう。別居した妻の良子は村木の独り暮らしのアパートに通い、家事をこなして関係の継続を願うのだけれど、村木のまなざしは下降するばかりで良子へは積極的に注がれない。おそらく良子というおんなの中にも深い諦念が宿り始めていて、村木に寄せる想いがひとり相撲だと知っている。

  一方の村木の名美に曳(ひ)かれる理由は出版社の破綻を経て商売っ気を度外視したものとなり、はるかに切実な魂の交信へと滑(ぬめ)り込んで見える。事業の失敗で深傷を負った男の眼光は微弱であり、名美に対して活き活きと纏(まと)わり付くものとなっていないのだけど確かに放射されてはいるのだった。『赤い教室』と同じくおんな二人に挟まれた男ではあるのだが、一方からはすでに離脱し掛かり、もう一方からは徐々に目が離せなくなっていくのであって、八方美人的に視線が飛び交うという事ではなかった。

 相手がどう自分を見ているか、自分は何を見ているか、絶えず意識せざるを得ない程、劇中の各人のまなざしは整理され、か細くはあるが真っ直ぐに伸びる。劇中を一文字に横断する。これならば誰もが劇中に飛び込みやすいだろう。石井らしい一方通行の“まなざし”を共に獲得しており、抱え持つ思慕の純度は確実に上がり、その分だけ執着と暴走へと押し出されても見える。

 『赤い教室』の裕子と同じスタンスで弁当を片手に住まいに押しかけ、自ら下着をおろして同じように情交を迫る良子なのだが、こちらの村木は“名美と再会してから”は当然のようにぎこちない。石井はここで男に言い訳する隙(すき)を与えないばかりか、床面に名美の落していった髪の毛を書き込み、それをわざわざ良子に発見させるのだった。長く重たい沈黙が生じ、その後村木は激高して内奥をさらけ出していく。別のおんなの存在を肯定してみせる。

 耐え切れずに良子は退場し、“まなざし”の整頓が加速している。平衡は一気に崩れて、村木は名美へとひた走ることになる。石井の劇らしい真っ直ぐな疾走が開始され、私たちの目線を釘付けにしていくのだ。

 夫婦間に別の存在が突き刺さっていく時、より現実的(リアル)であるのはどちらだろう。映画『赤い教室』にあったような軋轢を回避して心と身体が裏腹となる無様な惨状が普通なのかもしれないが、“石井隆の作品”では決してそうはならない。躊躇いが生じるほど『赤い教室』には雑多なもの、異常なものが浸入しているという事実があり、それがひとつの方向性を持って行なわれて見える。村木というキャラクターが意図的に破壊されたのではないか、とさえ私は訝(いぶか)しんでいる。

(*1):窮地に立たされて見えないところも、石井世界の基調からの大きく逸脱して見える。ここでの村木はもてもてであり、遊び人風に見えなくもない。


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