2014年5月5日月曜日

“結界に踏み入ること”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[5]~


 綿密な打ち合わせと熟思の賜物だろうが、石井の手になる劇画と脚本が早い時期から完成度の高い顔貌をそなえることが分かってきた。その特性を踏まえた上で、私たちは“あのとき”に何が起きたのかを考える必要がありそうだ。

 現在書店に並んでいるものでなく前の号になってしまうのだけど、「映画芸術」(*1)誌に石井隆とは盟友とも呼べる間柄の映画プロデューサー成田尚哉(なりたなおや)氏が書評を寄せていた。「曽根中生 過激にして愛嬌あり」(*2)と題する本に関してなのだが、そこで氏は石井が映画界に踏みこむきっかけとなった『天使のはらわた 赤い教室』(1979)につき、これまで語られることがなかった事情を開陳している。

 成田氏の発言は、『赤い教室』の終幕部分に関する曽根の言葉に端を発している。それはウェブ上で既に広まっていたから、首を傾げつつ私も読んでいた。嚥下(えんげ)し得ず、自分なりに解釈をきわめて上手く離脱しないと頭が変になりそうで、懸命に屁理屈を書きなぐってこの場処に収めたりした。それでどうにか気持ちを落ち着かせた訳だったが、無理やりに接ぎ木したような文章になっていて今読むと滑稽を感じる。(*3) 石井作品につよく魅せられる者の多くが、同じように朦朧とした時間を過ごしたのだった。この度の成田氏の状況説明は疑問をすっかり氷解させるところがあって、実に有り難いと思う。

 曽根の発言をここで再度蒸し返すと混乱するので止めておくが、これをそのまま言葉通りに受け止めて転載した評論本と、それを読むだろう映画愛好者に向けて、成田氏は当時企画者として携わった身から有りのままを綴っている。正すべき点は正しておきたいというスタンスのもと、言葉を選びながら、けれど断固とした勢いで書かれたものである。

 曽根側が脚本に無断で加筆し、さらに共同脚本として名を連ねようとしたこと。これに驚愕した石井が手を引く意志を露わにして、製作が頓挫する寸前にまで至ったこと。成田氏の将来を慮(おもんばか)った石井が折れて、どうにか撮入なったこと。それを決裂と仮に呼ぶとして、それと劇の終幕部での別れの情景は無関係であるのだし、あの結末の一挙手一投足は石井が当初から提示した姿であって曽根の創造するところでは決してないこと。要約すればそのような内容であった。

 監督と脚本家(原作者)の間に立ち、もつれた糸をほどいて活路を拓かねばならない。硬い面持ちで行き来を繰り返した往時の関係者の姿が目に浮かんでも来て、もの作りにともなう難所の数々とその険しさ、雨や風の耐え難さ、ともなう慙愧の深さを思った。

 そうして思うことは『天使のはらわた 赤い教室』につき、にっかつロマンポルノの傑作という観点でなく、従来の賞賛に一度フタをして再度歩み寄り、どう評価するのが正当であるかを私たちは見きわめる必要がある、ということだ。“石井作品にして石井の意に沿わぬもの”として『天使のはらわた 赤い教室』を認識し直すことで、私たちはもう一歩だけ映画世界という結界へ踏み入り、それにより視野はきっと拡がるように思うのだ。

(*1):映画芸術 2014年冬 446号 Book Reviews 倉田剛著「曽根中生 過激にして愛嬌あり」評 成田尚哉「『天使のはらわた 赤い教室』で何が起きたか?」
(*2):「曽根中生 過激にして愛嬌あり」 倉田剛 ワイズ出版 2013
(*3):http://grotta-birds.blogspot.jp/2012/05/blog-post_26.html


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