もう一方は「おんなの街」(*1)で、頁の順が狂っていて、右から左へと目を移した瞬間に時間と空間が飛んでしまうのだった。“面付け”の工程で事故を起こしたのは明らかだ。六話おさめられているが不自然な箇所は中篇【雨のエトランゼ】(1979)に集中しており、ほかの物語には問題はない。
承知の通り【雨のエトランゼ】は屋上を舞台に組み込んでおり、劇画を語る上でも、その後の映像作品を語る上でも視角から外せない作品だ。整然と隣り合うダイヤモンドの切子面(ファセット)のように石井世界は複数の顔をそなえており、それぞれが輝きを競い、ときに光は溶け合って虹色に滲(にじ)んでいくのであるが、【雨のエトランゼ】は中でも大きな切り口を占めており、放射されるものはすこぶる強い。
具体名をあげれば『魔性の香り』(1985 監督池田敏春)、『沙耶のいる透視図』(1986 監督和泉聖治)、『ヌードの夜』(1993)といった作品で、屋上(またはそれに準ずる場処)からの投身を描いて像を重ねている。また、『天使のはらわた 名美』(1979 監督田中登)と『天使のはらわた 赤い閃光』(1994)の二作は雑誌の編集者をドラマの主軸にすえていて、系譜を連ねると言って差し支えないだろう。劇画の内容を継いでおらなくとも内包する視線が近しいものとして、『死んでもいい』(1992)や『夜がまた来る』(1994)なども上げられるから、明るさは半端ではない。
かような位置を占める【雨のエトランゼ】が破壊された訳である。不様な装本を苦々しく感じ、また読者に対して面目なく思い、熱心な働きかけに背中も押されて石井は二十年ぶりに完全版(*2)を上梓している。そのあたりの事情はよく伝わっている話だから、あえて説明するまでもないだろうが、はっきり言えることは私の手元にある古い方の【雨のエトランゼ】は炉にくべて灰にしても構わない立場に今は置かれて、作者もそれを切望しているということだ。
石井にとって古傷に等しいものを公の目にさらし、わたしは最低の輩だろうか。けれど、稀少であろう、奇観であろうと自慢している訳では決してない。石井の作品と呼ばれるものの中で作者の“意に沿わぬもの”をつぶさに、厭かずに凝視(みつ)めていくことが、結果的に回り回って石井隆という作家の輪郭線を見きわめる事に結びつくという思いが、日毎夜毎に渦巻いて消えないのだ。
(*1):石井隆作品集「おんなの街」 石井隆 少年画報社 1981
(*2):「おんなの街 Ⅰ 雨のエトランゼ」 石井隆 ワイズ出版 2000
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