2014年5月31日土曜日
“三角関係”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[9]~
『天使のはらわた 赤い教室』(1979 監督曽根中生)を流れる時間は脚本の改訂によって混ぜこぜとなり、村木(蟹江敬三)は恋人と運命のおんな、つまり裕子(水島美奈子)と名美(水原ゆう紀)のふたりを代わる代わる相手せねばならなくなった。(*1) 複数の光軸を抱えてしまい右から左、左から右へと視線を泳がせる訳なのだが、それにつれて映画もまた絞りの甘いどこか弱々しい印象を帯びはじめる。
言い訳でしどろもどろとなった村木に向けて裕子は、「そんな話、今まで一度もしてくれなかった。うれしい」と微笑むのだった。さらにエロスに固執する村木の本作りに対し、あなたの仕事に一切干渉しない、その代わりに時間は下さいと言葉を継いで共寝(ともね)をねだっている。翌朝の様子から察するに、村木は求めに応じて交渉を持ったようだ。
驚くべきことにこれは意中の名美を探し当て、翌日の約束までした直後の場景である。情に負けたのか浮気心を取り繕うためか知らないけれど、あっさり肉体をつなげていく『赤い教室』の主人公というのはまったく村木らしからぬ男だし、弁明にじたばたする背中にだまされ、晴れ晴れとした風情で「うれしい」と声弾ませる裕子というおんなの造形もまた実に“非・石井的”な軽さではないだろうか。
ここで思い出されるのは別の石井脚本による作品、『ラブホテル』(1985 監督相米慎二)の景色だ。『赤い教室』から六年を経て発表されたそれは妻の良子(志水季里子)と名美(速水典子)というおんな二人が村木(寺田農)の前に立ちゆらめき、感情を交差させていくいわゆる三角関係を描いており、『赤い教室』と似たつくりとなっていた。
こちらの村木も元々は出版社を経営していた身だから、面影や口振りがどこか似ている。私服姿が妙にぎこちないのだし、奥歯あたりにきゅっと力がこもり、言葉や所作のいちいちに慎重さを漂わせる。名美というおんなに出会い、その表情に圧倒され、やがて再会するという流れも重なるから両者は石井世界において同根なのだろう。
過去の作品と似た設定や展開を採りつつ大胆に視座を変え、別の色に染めてみせる、そういう既視感をもたらす“新作”を石井はおもむろに差し出す傾向がある。かさぶたを剥がすようにして物語が過去の記憶から乖離していき、妖しげに、そして豊かに光っていく。そういったパラレルな展開を石井は好んで採用するのだが、両者はその一環と言っても構うまい。
ボタンの掛け違いによって、まるで違う様相を呈していくのが日常の怖さだ。昨日と今日はわずかに違い、思いもやらぬ岐路をたどって別方向にずんずんと押しやられてしまう。遡行を一切許さないその運命の無慈悲さ、酷薄さをこそ自分は描きたいのだと囁(ささや)くように、また、その乖離を通じて何事か重大なことを耳打ちするように石井は自己作品の反復に強くこだわり続けるのだけれど、この『ラブホテル』にも幾らかそういう衣香(いこう)が漂う。さて、この『ラブホテル』にも光軸の狂いが生じて劇の活力を奪ったものだろうか。三角関係においては、どう足掻いても混沌は避けられないのか。
両者間の目立った段差は開幕して直ぐ、村木の経営する出版社が倒産してしまう事だ。その顛末を通じて村木と妻との関係は大きく損ねられ、回復不能の局面に至っている点が大事だろう。別居した妻の良子は村木の独り暮らしのアパートに通い、家事をこなして関係の継続を願うのだけれど、村木のまなざしは下降するばかりで良子へは積極的に注がれない。おそらく良子というおんなの中にも深い諦念が宿り始めていて、村木に寄せる想いがひとり相撲だと知っている。
一方の村木の名美に曳(ひ)かれる理由は出版社の破綻を経て商売っ気を度外視したものとなり、はるかに切実な魂の交信へと滑(ぬめ)り込んで見える。事業の失敗で深傷を負った男の眼光は微弱であり、名美に対して活き活きと纏(まと)わり付くものとなっていないのだけど確かに放射されてはいるのだった。『赤い教室』と同じくおんな二人に挟まれた男ではあるのだが、一方からはすでに離脱し掛かり、もう一方からは徐々に目が離せなくなっていくのであって、八方美人的に視線が飛び交うという事ではなかった。
相手がどう自分を見ているか、自分は何を見ているか、絶えず意識せざるを得ない程、劇中の各人のまなざしは整理され、か細くはあるが真っ直ぐに伸びる。劇中を一文字に横断する。これならば誰もが劇中に飛び込みやすいだろう。石井らしい一方通行の“まなざし”を共に獲得しており、抱え持つ思慕の純度は確実に上がり、その分だけ執着と暴走へと押し出されても見える。
『赤い教室』の裕子と同じスタンスで弁当を片手に住まいに押しかけ、自ら下着をおろして同じように情交を迫る良子なのだが、こちらの村木は“名美と再会してから”は当然のようにぎこちない。石井はここで男に言い訳する隙(すき)を与えないばかりか、床面に名美の落していった髪の毛を書き込み、それをわざわざ良子に発見させるのだった。長く重たい沈黙が生じ、その後村木は激高して内奥をさらけ出していく。別のおんなの存在を肯定してみせる。
耐え切れずに良子は退場し、“まなざし”の整頓が加速している。平衡は一気に崩れて、村木は名美へとひた走ることになる。石井の劇らしい真っ直ぐな疾走が開始され、私たちの目線を釘付けにしていくのだ。
夫婦間に別の存在が突き刺さっていく時、より現実的(リアル)であるのはどちらだろう。映画『赤い教室』にあったような軋轢を回避して心と身体が裏腹となる無様な惨状が普通なのかもしれないが、“石井隆の作品”では決してそうはならない。躊躇いが生じるほど『赤い教室』には雑多なもの、異常なものが浸入しているという事実があり、それがひとつの方向性を持って行なわれて見える。村木というキャラクターが意図的に破壊されたのではないか、とさえ私は訝(いぶか)しんでいる。
(*1):窮地に立たされて見えないところも、石井世界の基調からの大きく逸脱して見える。ここでの村木はもてもてであり、遊び人風に見えなくもない。
2014年5月22日木曜日
“縮約”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[8]~
映画『天使のはらわた 赤い教室』(1979)には、石井隆の脚本第二稿と異なる箇所がいくつかある。読解の糸口とするため挙げていくが、先ずもって村木(蟹江敬三)の恋人でやがて妻となる川名裕子(水島美奈子)の造形が突飛であり、これが足懸りとして適当と思う。
先に紹介した「映画芸術」によれば、石井をひどく当惑させ、撮入を危うくした曽根の加筆とはこの裕子というおんなの台詞であった。往時の関係者は具体的にどの箇所が問題視されたか明言していないのだけど、なるほど目を凝らし耳をすませば、言動やそれに対峙する村木の物腰は石井の書くものとは全くもって異質である。
裕子は村木の仕事場兼住居である雑誌社に押しかけ、仮眠用の寝台に自ら服を脱いでもぐり込んでは情交を迫るのだった。気持ちが乗らない村木は「今日は帰ってくれよ、ひとりでいたいんだよ」と叫んで、裕子をはね退ける。ブルーフィルムに刻まれた名美の表情に囚われ、また偶然にも彼女を街なかに発見して言葉を交わした村木である。「あっちもこっちも、そんなに器用な人間じゃないんだ」と思わず口を滑らせてしまうのだった。裕子に内奥を見透かされると慌てた村木は、仕事に行き詰って頭がいっぱいなのだと話題のすりかえに懸命となる。
石井作品に深く潜水するに至らぬ人にとっては、特段おかしな点は感じられない“ごくありふれた男女の会話”かもしれないが、これと近似する場面なり台詞をわたしは石井の作品に見とめたことがない。立ち姿から言葉から、何から何まで馴染まない。明らかに曽根の世界が侵入して異なる拍子で明滅している。石井の劇は能やパントマイムにどこか通じる静謐さ、寡黙さが身上であって、単純に現実をトレースするものではない。このような底の浅い“ごくありふれた会話”の場を石井は通常用意しない。
承知の通り『赤い教室』の村木は“映像に淫する者”であり、『天使のはらわた 赤い淫画』(1981 監督池田敏春)の青年や、『死霊の罠』(1988 同)の怪人、『フィギュアなあなた』(2006)の造型師、それに『花と蛇』(2004)の老人といった者たちの源流に立っている。写真やモニターに映されたおんなの一瞬の表情にこころを鷲摑みにされ、命を賭して接近を図るのが石井世界の“映像に淫する者”の定めであり、私たちはエウロペやペルセポネの誘拐にも通じる物狂おしい執心や集中、そして暴走の軌跡を目撃することになる。
一心不乱に熱視(みつ)め続ける、その集光の凄まじさこそが石井の劇の肝であるから、裕子と名美というふたつの人格に挟まれ、焦点が絞りきれない曽根版『赤い教室』にて減速感が生まれるのは当然だろう。浮気がばれそうになって詭弁を弄する村木というのは、これは石井世界では類を見ない風変わりな造形と言わねばならないし、石井の劇の底流にある無骨さや生真面目さ、並外れた一途さといったものの踏襲や再現から逸脱してひどく矮小化されている。
そうなった理由は簡単で、曽根が物語の順序を大幅に入れ替えたからだ。オリジナル脚本においてシーンナンバーは全部で77あるのだけれど、村木が名美の写ったブルーフィルムと邂逅するのは12と付された場面であって、映画にあるような端緒ではない。石井の発案では冒頭からしばらくは村木の身辺に寄り添い、その日常を通じてこの男の真情を垣間見ようと努めるはずだった。別の出版社を辞めてまでエロスを模索し、三年もの間試行錯誤を続けている、内向的でやや湿った情熱を秘めた男の日常が淡々と綴られるはずだった。曽根はそういう堅苦しい描写は観客をうんざりさせると踏んだのか、完成作品では名美のブルーフィルムの仔細とそれを見て凍りつく村木の様子をいきなり見せてしまった。
物語がゆるゆると上昇をはじめ、安定飛行に入った辺りになって名美は村木の眼前に出現し、そこで気流が大いに乱れるはずだった。それがシーン12である。ところが、脚本の1から10番あたりまでの日常描写はすべて12の後方へと迂回させられ、6番目に配置されていた村木と裕子とのホテルでの情事も同様に劇の中ごろへと跳ばされてしまった。つまり、裕子の出番は主演女優に席を譲るかたちで遅らせられた訳である。
石井原案での裕子というおんなはシーン6の自らの出番を終えると村木の前からいったん退場し、完全に気配を殺している。「三年後」に妻となり母となって再登場するのは同じだけれど、裕子にとっては村木と名美との出会いやそれに対する村木の灼熱、そして、煮えたぎる奔流に足をすくわれてじたばたする男の動向というのは一切感知し得ない遥か彼方に置かれてあるはずだった。
村木と名美の間に神話的とも言える荒ぶる狂恋なり暴走をうながす為に、邪魔になる裕子という存在をそっと石井は舞台袖へと引き入れたに違いないのだが、曽根の改訂によって名美という暴風圏は開幕直後に発生してしまったのだし、裕子は舞台からしりぞく機会を失い、劇の中頃を風に玩(もてあそ)ばれる木の葉のように行きつ戻りつする羽目になった。“名美の表情にすでに囚われ”、魂が“ひかれている”男が裕子の前に無残にも立たされ、村木は神から生身の男に立ち戻って保身にひた走る体たらくとなったわけである。
蟹江を追悼する記事が週刊誌をいくつも飾ったが、その中のひとつで曽根は『赤い教室』に蟹江を起用した経緯を次のように語っている。「家庭があるのに女に惚れてしまい、かといって仕事を投げ出すほどはのめり込めない、このような忸怩(じくじ)たる思いに駆られる男を、ただ居るだけで演じることができる人がいないか? と同じ映画監督の神代さんに尋ねました。すると、『蟹江ってのが、中々良いよ』と教えられたのです」(*1)
三十五年も前の仕事場の風景なり会話を、どれだけ人は鮮烈に記憶にとどめ得るのか。大抵は不可能と思うから、記述どおりのやり取りが実際にあったかどうかは分からない。けれど、これが曽根の内部にある『赤い教室』の輪郭なり影であるのは間違いないだろう。「家庭があるのに女に惚れてしまい、かといって仕事を投げ出すほどはのめり込めない、このような忸怩(じくじ)たる思いに駆られる男」が“村木”とは。ここまで石井の描く男の内情を縮約(しゅくやく)してしまえば、神話性が崩れて減速するのは自明である。
(*1):「週刊文春」四月十七日号 「追悼蟹江敬三 ロマンボルノ監督が明かす迫真の“寝取られ演技”」 32頁
2014年5月16日金曜日
“浮彫”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[7]~
『天使のはらわた 赤い教室』(1979 監督曽根中生)の終幕、名美(水原ゆう紀)と村木(蟹江敬三)の想いは掴みどころを得ず、闇のかなたへ散り散りとなる。これに関して曽根の発言があり、伝え聞いて首を傾げた関係者の述懐が映画専門誌を飾る。双方の隔たりは大きく、さながら藪の中の様相を呈している。気持ちがざわめいてしょうがないから、『赤い教室』を再見することに決めたのだった。石井隆の脚本(第二稿)と照らしながら気になる台詞は巻き戻したりもして、舐めるように見入っていく。ゆっくりと時間をかけて二回観終えたところだ。
初見の際にどうして『赤い教室』を乱雑と感じたのか。結論から書けば、完成された映画は脚本と比して随分と雑(ま)ぜくり返されてあるのだった。曽根は大鉈(なた)を振るってシーンの順序(*1)を冒頭からひっくり返してみせ、複雑な接ぎ木も次々に行なっていてよく言えば変幻自在、悪く書けば刃物三昧が透けて見える。フレッツ・ラングやオーソン・ウェルズの作品をここで引き合いに出せば格好良いのだろうけれど、素直に白状すれば私の頭をよぎったのはゴア・ヴィダルの『カリギュア CALIGULA』(*2)だった。あれも相当だが、『赤い教室』もなかなか凄いことになっている。
意に反した細工がほどこされ、まるで違った印象の作品を産み落とすことは映画興行につきものだが、『赤い教室』においては監督の思惑に沿った脚色なり編集が為された訳だから不幸な作品とか異常な作品とは呼びがたい。三十年以上を経てたくさんの人の心に住み続けているのだから、むしろ幸せな作品なのだろうし、観客を楽しませたい一心で編集作業に没入し、粘りに粘った結果がこれであろうことは観ていて伝わるのだった。亀裂の入った鉄管を溶接する現場に居合わせたような、ねばねばした放射熱が顔を撫でる。
けれど石井隆にとってみれば、また、石井世界にとっては微妙な話と思うがどうだろう。一階に二階、二階の上には三階を着実に重ねながら物語を構築する作風がのっけから壊されているのを目撃し、温度の異なる場面が突如挿入されるのに私は慌てた。初見の際は確かに分からなかったし、脚本と照らし合わしてまで読み解く人はいなかっただろうから、大方の人が呆然としてやり過ごしたに違いない。その中でひとり石井だけが、観客の後頭部越しにはらはらしながら銀幕を眺めたはずである。その胸中を想像すると、なんだかそれだけで息が苦しくなる。
脚本の共同執筆を曽根が途中から希望し、逡巡のはてに石井は企画者の立場を慮って折れた。脚本の第二稿を撮影所に残して、実質的に距離を置いたのである。(*3) 『赤い教室』は結果的に観客から支持されて「天使のはらわた」はシリーズ化されて人気を誇ったわけだし、脚本家として石井を起用する動きに弾みは付いた。そんな流れの末に現職の映画監督業を石井は射止めたのだし、承知の通り、『死んでもいい』(1992)、『ヌードの夜』(1993)、『GONIN』(1995)、『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)といった傑作が陸続として出現し、私たちはそれを大いに愉しんだ。苦渋の決断であったろうが、『赤い教室』を空中分解させなかった石井の姿勢は正しかったように思う。
そのように頭では分かっているのだけれど、だからと言って曽根中生版『赤い教室』を無条件に礼賛するばかりでは、やはりつまらない気もする。少なくとも石井隆の世界に魅了され、その作家性をユニークに感じて注視を怠らない映画愛好者には石井版『赤い教室』と曽根版の違いを知ってもらい、石井の本来描こうとしたドラマの実の部分に触れさせたいし、そうあるべきという気持ちが勢いづいて行く。
(*1):2014年5月12日の毎日新聞の「悼む」には蟹江敬三を送る曽根の短文が載っている。出逢いの場を作った『赤い教室』の撮影現場を振り返り、飾り気のない調子で蟹江の様子を綴っている。人と人が同じ時間を共有し、同じ空気を吸っていくことの心強さ、嬉しさ、置いてきぼりにされる切なさ、さみしさがよく伝わる内容だった。そこで曽根は『赤い教室』の撮影初日が多摩川の川原であったと書いている。これは石井の脚本の冒頭の場面であるから、順撮りを意識して現場が動いた可能性が高いと推察している。
(*2): CALIGULA 監督ティント・ブラス、ボブ・グッチョーネ、ジャンカルロ・ルイ 1979
ゴア・ヴィダルの脚本に沿って再編集した仮想ディレクターズカットがThe Imperial Editionの名称で発売されている。上映された版と再編集版では、多くの共通する素材が使われているが趣きがまるで異なっている。好みは人それぞれだろうがこの再編集版を観るとどうしてあれ程の芸達者たちが招聘されたか理解できるし、人物像が見事なレリーフとなって列を成し、それぞれの苦悩や焦燥が明瞭に伝わってくる。映画製作の面白さと難しさが呑み込める絶好の教材になっているから、一見の価値はあるように思う。
(*3):「シナリオ」1984年9月号(シナリオ作家協会)のインタビュウで石井は次のように答えている。「二稿目までは直したんだけど、決定稿にするための直しの作業には、行き違いがあって加われなくて、決定稿が出来上がってから知らされまして」 89頁
2014年5月11日日曜日
“稜線をむすぶ”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[6]~
『天使のはらわた 赤い教室』(1979 監督曽根中生)の題名をウェブで検索すると、“傑作”という言葉が即座に返る。主演の蟹江敬三の死を悼む書き込みも多く、演技や存在感を褒めたたえるものが目につく。かれこれ三十五年も経っているのに、まだまだ愛されている。
はじめに断わらないと怖い気がするのだけれど、以下に書くのは私個人が漂着した、それも現時点に限っての読み解きとなる。一本の映画に想いを馳せれば、劇場に至る街路や取り巻いていた人間関係もありありと蘇える。先が読めずにむしゃくしゃしていたっけ、何とか映画がなだめてくれたのだったよな、そんな感傷に浸ることもしばしばだ。折々の心理状況は映画の色彩なり解釈を変えるし、記憶まで捩じ曲げるから、詰まるところ映画は人それぞれ、その時々のものとなり、誤解や思い違いも含めて各人の所有物と呼べるだろう。どのような『赤い教室』の評価があっても良いわけだし、各人が抱くそれを否定する気もなければ折伏(しゃくぶく)するつもりもない。
さて、曽根発言とこれを正そうとする「映画芸術」誌の書評(*1)について、どう捉えたらよいのだろう。方法はいたって簡単で、石井隆の書いた台本と完成作品を比較すればよい。手元には現物はないから、脚本を所載する「別冊新評 石井隆の世界」と「シナリオ」の二冊が頼りとなる。発行時期には五年程の開きがあり、前者は石井の劇画が熱狂的に読まれた頃に編まれた評論集であり、後者は『ルージュ』(1984 監督那須博之)の公開に合わせ、脚本家としての石井隆に焦点を絞った特集が組まれていた。
掲載されている二篇を比較すると両者の間に差異を探すのが困難であり、石井が自信をもって呈する『赤い教室』の全身像はここに尽きるということがわかる。また、末尾には注釈が添えられてある。「このシナリオはにっかつ映画「天使のはらわた・赤い教室」のために書かれた第一稿です。決定稿ではありませんが、もっともオリジナルなものであり、石井隆氏の希望によります」(*2)、「決定稿は、曽根監督がこの稿に手を加えて撮影台本としましたが、編集の都合上、石井氏のオリジナル第二稿を掲載しました」(*3) ───先ずこの数行を何度か読み返し、噛み締めなければなるまい。
話の腰を折ってしまうが、私が『赤い教室』にどう触れてきたかを先に書いてしまいたい。実はこれらの本の入手が先で、映像はかなり後から目にしている。脚本を読んで夢想するばかりの時間が長く続いて、その後で名画座かどこかで完成品を観たのだった。ふつうとは違う、ちょっと変則的な流れになってしまった。
その頃、つまり、わたしが『赤い教室』を観た時期の、劇画家石井隆は堂々たる面持ちだった。闊達且つ華麗な独自の世界を誌面に築いていて、何よりも描線に艶が乗っていよいよ美しいのだった。長編作品にはさまざまな大きさのコマや大胆不敵な見開きが挿し込まれ、人物の動作なり表情を緩急自在に操った。短編での語り口もあざやかで、色盛りの印象を強めた。【黒の天使】(1981)だったり【女高生ナイトティーチャー】(1983)がそれに当たるのだが、構図や適度なボリュームで盛られた台詞には映画に近しい薫りが充満し、すいぶん酔わされた。
また、脚本家としても着実に歩を進めていて、相米慎二(そうまいしんじ)や池田敏春と組んだ作品が次々に開花していた。『ラブホテル』(1985)や『魔性の香り』(1985)なんかを銀幕で観終わって外に出ると、街のどこもかしこもロマンティークな光を帯び、道行くおんなたちは誰もが秘密をかかえて見えた。すれ違うたびに濃厚に匂って、どぎまぎさせられた。石井の世界が急速に実体化して日常になだれ込んで来たように錯覚して、そわそわした気分にさせられるのだった。そのような劇画と映画世界の橋渡しが盛んに行われた日々に、やや出遅れて私は『赤い教室』を観ている。
『ラブホテル』やその少し前に撮られた『天使のはらわた 赤い淫画』(1981 監督池田敏春)といった作品は、もちろん各演出家の生理が反映されているし、お得意の技巧が随所に用いられていて、“彼ら監督の”代表作に数えられている。それと同時に石井の劇画世界を映像化することに対して妙な気負いや反撥が感じられず、結果的になだらかに稜線を結んで“石井の”作品にも成っていたように思う。
曖昧な表現しかひり出せなくてもどかしいが、石井世界には独特の気圧というか霧(ミスト)のようなものが各情景の隅々まで立ち込めていて、それを手で払いのけるような過剰な構築(セットであったり小道具だったりする)に走ってしまうと途端に劇そのものが求心力を失い、ぼんやりと拡散して安手のメロドラマ然としてしまう不思議な特性がある。『沙耶のいる透視図』(1986 監督和泉聖治)しかり、『ルージュ』(1984 監督那須博之)もそうだった。
わたしが石井の劇画に心酔するあまり、目新しい道具を異物として感じて拒絶反応を起こしているわけではなく、石井の劇は本質として極めてシンプルであり、視線は大概一点に、男女の立ち姿なり表情に誘導されていくのであって、その間無闇に目玉をきょろきょろさせるきっかけとなるものは巧妙に排除されるか、よくよく吟味された上でそっと置かれる傾向があるように思う。監督の体質が似ていたのか、それとも彼らなりの石井世界への歩み寄りの結果であったのか、その辺は今でも判然としないのだけど、『ラブホテル』や『赤い淫画』の寂寞とした空間構成はわたしの目線を心地好く縛り、結果的に石井世界の裾野に着地させられたのだった。
『赤い教室』をそれ等の後に観てしまった自分には、ああ、これはやはり昔の作品だな、ちぐはぐな部分は仕様がないな、と感じた訳なのだった。劇画で見たような河原なり公園を無難に選び、意識して似通わせた構図が劇中に点在しているにもかかわらず、何故かがちゃがちゃとして迷走する印象を抱いた。
不満に感じなかったのは、たぶん主演の水原ゆう紀のあごから唇にかけての、力んでぐっと硬い感じが石井の描く名美にすごく似ていたことがひとつ、それから酒場の二階で見せつけられる凄惨な場面が脳天を直撃し、総て押し流す勢いがあったからだろう。細かいところはどうでもよくなった。何より先に書いた新たな連結が始まっている以上は、石井にしても読者にしても、尾根をひたすら登りつづけるしかない、前に進むしかない、そのように感じられて『赤い教室』は自然と意識の外に追いやられたのだった。
(*1):映画芸術 2014年冬 446号 Book Reviews 倉田剛著「曽根中生 過激にして愛嬌あり」評 成田尚哉「『天使のはらわた 赤い教室』で何が起きたか?」
(*2):「別冊新評 石井隆の世界」 新評社 1979 218頁
(*3):「シナリオ」1984年9月号 シナリオ作家協会 140頁 『ルージュ』と『赤い教室』以外にも『天使のはらわた 名美』(1979 監督田中登)、それから『天使のはらわた 赤い淫画』も合わせて収められていて読み応えがある。
2014年5月5日月曜日
“結界に踏み入ること”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[5]~
綿密な打ち合わせと熟思の賜物だろうが、石井の手になる劇画と脚本が早い時期から完成度の高い顔貌をそなえることが分かってきた。その特性を踏まえた上で、私たちは“あのとき”に何が起きたのかを考える必要がありそうだ。
現在書店に並んでいるものでなく前の号になってしまうのだけど、「映画芸術」(*1)誌に石井隆とは盟友とも呼べる間柄の映画プロデューサー成田尚哉(なりたなおや)氏が書評を寄せていた。「曽根中生 過激にして愛嬌あり」(*2)と題する本に関してなのだが、そこで氏は石井が映画界に踏みこむきっかけとなった『天使のはらわた 赤い教室』(1979)につき、これまで語られることがなかった事情を開陳している。
成田氏の発言は、『赤い教室』の終幕部分に関する曽根の言葉に端を発している。それはウェブ上で既に広まっていたから、首を傾げつつ私も読んでいた。嚥下(えんげ)し得ず、自分なりに解釈をきわめて上手く離脱しないと頭が変になりそうで、懸命に屁理屈を書きなぐってこの場処に収めたりした。それでどうにか気持ちを落ち着かせた訳だったが、無理やりに接ぎ木したような文章になっていて今読むと滑稽を感じる。(*3) 石井作品につよく魅せられる者の多くが、同じように朦朧とした時間を過ごしたのだった。この度の成田氏の状況説明は疑問をすっかり氷解させるところがあって、実に有り難いと思う。
曽根の発言をここで再度蒸し返すと混乱するので止めておくが、これをそのまま言葉通りに受け止めて転載した評論本と、それを読むだろう映画愛好者に向けて、成田氏は当時企画者として携わった身から有りのままを綴っている。正すべき点は正しておきたいというスタンスのもと、言葉を選びながら、けれど断固とした勢いで書かれたものである。
曽根側が脚本に無断で加筆し、さらに共同脚本として名を連ねようとしたこと。これに驚愕した石井が手を引く意志を露わにして、製作が頓挫する寸前にまで至ったこと。成田氏の将来を慮(おもんばか)った石井が折れて、どうにか撮入なったこと。それを決裂と仮に呼ぶとして、それと劇の終幕部での別れの情景は無関係であるのだし、あの結末の一挙手一投足は石井が当初から提示した姿であって曽根の創造するところでは決してないこと。要約すればそのような内容であった。
監督と脚本家(原作者)の間に立ち、もつれた糸をほどいて活路を拓かねばならない。硬い面持ちで行き来を繰り返した往時の関係者の姿が目に浮かんでも来て、もの作りにともなう難所の数々とその険しさ、雨や風の耐え難さ、ともなう慙愧の深さを思った。
そうして思うことは『天使のはらわた 赤い教室』につき、にっかつロマンポルノの傑作という観点でなく、従来の賞賛に一度フタをして再度歩み寄り、どう評価するのが正当であるかを私たちは見きわめる必要がある、ということだ。“石井作品にして石井の意に沿わぬもの”として『天使のはらわた 赤い教室』を認識し直すことで、私たちはもう一歩だけ映画世界という結界へ踏み入り、それにより視野はきっと拡がるように思うのだ。
(*1):映画芸術 2014年冬 446号 Book Reviews 倉田剛著「曽根中生 過激にして愛嬌あり」評 成田尚哉「『天使のはらわた 赤い教室』で何が起きたか?」
(*2):「曽根中生 過激にして愛嬌あり」 倉田剛 ワイズ出版 2013
(*3):http://grotta-birds.blogspot.jp/2012/05/blog-post_26.html
“硬度と慎重さ”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[4]~
石井の劇が現実と過去双方の描写の堅い積み上げから成り立っていて、骨太の印象を受けると先に書いた。これと似た筆触は古書店などから映画用台本を入手して読み進めたときにも決まって在って、強く意識されるのだった。
当初は原作の題名そのままに『火の蛾』と呼ばれ、紆余曲折を経て『死んでもいい』(1992)となったもの、はたまた黒雲が急に湧いて視界を遮るのにめげず、困難な航海をやり遂げている『GONIN2』(1996)といった作品の準備稿に目を通していくと、意外にも完成品と趣きがほとんど変わらないことに驚かされる。微妙な変更箇所は確かにあるが、いずれも枝葉に過ぎず、骨格なり血脈、つまり挿話それぞれの順列や台詞といったものに手を加えずに最後まで突き進んでいるのがよく分かる。
準備稿の横に決定稿を広げて一字一句を見比べていっても当然ながら変更箇所はわずかであり、新たな発見を期待して目を皿にする側からすれば物足りなく感じることが多い。映画づくりの工程で台本がどの時期に、どの程度の助言を周辺から吸い上げて輪郭なり硬度を決定していくのか門外漢には分からない領域であるし、人の手による仕事である以上は様々な経緯をたどるのは当然であるのだが、こうして過去の石井作品をめぐる資料の収集と読解を丹念に続けていくと、どうも石井の筆になる台本というのは足し引き無用の硬度にまで鍛錬され、磨き上げられたものがかなり早い段階から提示されてあるようだ。原作の咀嚼と理詰めで流れを決めていく時間、飽かず反芻をおこない微調整を加える昼夜が幾重にも挟まれた末の“納品”なのだろう。
たとえば池田敏春(いけだとしはる)が監督をつとめ、血みどろの殺戮描写を売り物にした『死霊の罠』(1988)は石井が脚本を担ったひとつだが、これを最初に観たときは大いに面食らったものだった。石井の描くロマンティークな悲恋群像に耽溺する目には、いくら何でもこんな殺伐とした景色を石井は書かないのではないかと思われ、台本はもっと違った光に染まっているに相違ないと信じた。石井の記した文面の片鱗すら残らぬ乱暴な改変が現場で起きたのではないかと訝(いぶか)しんだのだけど、決定稿を入手して目を通してみるとあにはからんや、伊藤高志(いとうたかし)を起用した終幕の激闘以外はほとんどそのまま石井の筆が疾走し、のたのたと蠢き、おどろおどろした惨劇を次から次に産み落としていた。(*1)
石井のつむぐ台本とは、繊細なあや織りにも似て縦糸と横糸が意味ありげに交差し、それらは別の作品でも起用されて色つやを放っていく面白さ、奥深さがあるのだが、どうやら一度仕上がったものにおいては多少の揺れや振動ではびくともしない建築物となっていき、現場にかかわる多くの仲間を束ねて牽引するようである。
ひとまとめにすると笑われそうだが、そのことは石井の劇画づくりにも言えることだ。作品の原稿が書籍やウェブで幾つか散見される。じっくり時間をかけてその線をたどって見ると分かるのだが、背景であれ、手前に配された衣服や家具であれ、それからコマを囲む枠線にしてもそうなのだが、画面に組み込まれたあらゆるものが精密に完成度高く描かれてある。人物にしても主線(おもせん)がすでに決定されてあり、ぶれや迷い、曖昧な箇所がいっさい無い。こういう“下絵”はあまり見られない。アシスタントの役割はその線を慎重になぞったり、間を染めたり、トーンを貼ったりするものと決められている。石井隆という創り手がどれ程自身の仕事と世界観に対して愛着と責任を持って臨んでいるか、それがどれ程の硬度と慎重さをそなえるものか、ここでも確認することが出来る。
(*1):『死霊の罠』は【魔樂】(1986)の発表後、割合と近い場所で書かれた作品である。モニター越しにからみ合う視線であったり、理解してもらえぬ煩悶であったり、ライターを小道具に使う点など石井の血がひっそりと交じる内容であって、そのように俯瞰して見れば他の石井作品と自然と連結を果たすように思う。
2014年5月4日日曜日
“錯乱の域でなく”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[3]~
1981年に上梓された石井隆の作品集「おんなの街」(*1)、いや、それに収まった【雨のエトランゼ】(1979)には、製本所内のミスによる乱丁があった。物語の流れがどう乱されたものか、ざっと記せば次の通りである。
べたべたと愛着(あいじゃく)するカメラマン川島に根負けし、同棲を始めてしまう名美である。どこか己れと似た部分、たとえば暗いまなざしを端正な顔立ちに宿した編集者村木の方に惹かれるものがあったのだが、あいつは家庭を持つ身と川島から聞かされ、燃える芯に水をかける勢いで身体を許したのだった。川島は名美をモデル派遣会社に登録する。アマチュア向けの撮影会へ出張などしながら献身的にこたえる名美であったが、虚栄心が強く、金を浪費する川島はいつしかその状況に甘えていき、挙句の果てに一線を越してしまうのだった。身体をもてあそぶ目的の秘密の撮影会へと名美を差し出すのだった。
縛られて自由の利かぬのを良いことに、取り囲んだ男たちの行いがエスカレートしていく。そばにいる川島は気づかぬふりをしたり、名美を拝むようにしてみたりして、いずれにしても男の風上にも置けない体たらくである。この時の写真が世に出まわり、週刊誌にも掲載されて名美を絶望の淵へと追い込んでいくのだった。ふたりの行状が気になる村木は仲間を通じて薄々は知っていたのであるが、街角の書店でその暴露記事を目の当たりにして憤激の念にかられる。
これを口火として村木の推測を交えた撮影会の場景が紙面に再現されていき、名美の回想がそれに重なって奥行きを増す仕掛けとなっている。乱丁はこの推測と記憶とが交叉する箇所に生じている。滑らかなコマの運びが損なわれてえらく混沌としているのだった。
再び私事となってしまうが、雑誌の連載を通じてではなく、単行本にて接触を果たした読者のひとりがどのように捉えたかを白状すれば、当初は例によって気付かないまま過ごしている。先述の白紙の挟まった【赤い教室】(1976)と【蒼い閃光】(1976)についてはさすがに程なく目が醒めて、おかしなものを掴まされたと気付いたのだったが、この【雨のエトランゼ】については察するまでに少し月数が掛かった。鈍感というかお人好しというか、今もそうかもしれないが救いようのない馬鹿である。
最初から妙だとは感じていた。だけど、作者は意図的に混沌を産み落とし、生と死の境界に肉迫しようと試みていると解釈してしまった。これぐらいの“錯乱”は自死を選ばざるを得ない人間にとって当然かもしれないと考えた。
名美というおんながその内側で過去を繰り返し再生し、今となってははっきり岐路と解かるその時と場処まで舞い戻りして目を伏し音もなくたたずんでいる、そんな哀切きわまる孤影の在ることを私は信じて怯えたのだった。人を想って全身全霊を捧げていくことで、喜びと誇りに身が震えるようだった温かい陽射しの午後と、何もかもが不確かで安定を欠くのが世の常と悟った泥沼のような夜とを狂ったように脳内で切り返す様を痛ましく、哀しく思い、もらい泣きしながら読んだ。
ああ、これは頁が組み違いになっているのか、そりゃ跳ぶわなと気付いたのはいつだったか。思い込みというものは現実をどこまでも歪め、過誤を見えにくくしてしまうものである。しかし、だからといって自分が【雨のエトランゼ】を完全に読み違っていたとは思わない。遡行し得ない生の流れのなかで、追憶が重みを増して人を苛(さいな)んでいき、ときに耐え切れず瓦解する。【雨のエトランゼ】という劇の根幹に潜むそんな真実が、乱丁という物理的な破壊と偶然にも重なっていたのだった。もの恐ろしい気分を引きずって、幾月も呆然として過ごした。
おいおい、それじゃおまえは製本事故を意味あるものと捉えているのか、おまえは創り手の行為をそんなにいい加減なものと思っているか、と叱声が飛んで来そうだ。落丁や乱丁を肯定しているわけではないし、それが石井隆と作品たちにダメージを与えこそすれ、プラスになるものは何もなかったと考えてもいる。いったい何を伝えたいかと言うと、そのような“石井作品にして石井の意に沿わぬもの”が私の前には最初からあって、目を凝らす時間が増えた。ごくごく自然な形で石井のリズムであったり色彩であったりに敏感になった、ということだ。二十年近い歳月を経て完全版(*2)を手にし、あるべき場所にあるべき頁が整列した【雨のエトランゼ】を読み直した。そこで浮上した感懐には“石井作品にして石井の意に沿わぬもの”を玩読した目線でしか判別し得ないもの、が含まれるということなのだ。
石井劇画というものが骨太というか、きわめて堅牢な空間描写の積み重ねの上に成り立っているという認識がまず生まれた。一階の上に二階、二階の上には三階が載っていて、それぞれがきっちり作り込まれてある印象を受けた。
また、時間や記憶に対してどう向き合うべきか、揺るがないものが個性として在って、石井の創作全般を貫いているように感じられた。登場人物が記憶をまさぐっても、その過去は現実空間と同じ密度と手触りで面前を流れていき、そこを泳ぐ人の体温を奪い、息苦しくさせ、消耗させていく。もちろん、その逆もしかりなのだが、過去が過去として忘却の一途に向かうことを許されず、同等の比重を保持しながら現実と並走していくところが特徴として読み解けるように思う。
若かった私は乱丁を映画手法でいうカットバックと似たものと勘違いし、その過激さがおんなの魂のささくれ、ひきつれを代弁して見えたのであるが、石井の描くおんなは過去を生きて再度傷ついてしまうのだし、その果てに過去の堆積に負けて圧死するというのが本当であって、表現として正しいかどうか分からないが、しっかりと狂って、しっかりと死んでいくのである。錯乱という域でなくって、確実に圧し潰されていくのである。
(*1):石井隆作品集「おんなの街」 石井隆 少年画報社 1981
(*2):「おんなの街 Ⅰ 雨のエトランゼ」 石井隆 ワイズ出版 2000
引用画像は、雑誌「ヤングコミック」連載時のカラー頁
2014年5月2日金曜日
“乱れる”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[2]~
もう一方は「おんなの街」(*1)で、頁の順が狂っていて、右から左へと目を移した瞬間に時間と空間が飛んでしまうのだった。“面付け”の工程で事故を起こしたのは明らかだ。六話おさめられているが不自然な箇所は中篇【雨のエトランゼ】(1979)に集中しており、ほかの物語には問題はない。
承知の通り【雨のエトランゼ】は屋上を舞台に組み込んでおり、劇画を語る上でも、その後の映像作品を語る上でも視角から外せない作品だ。整然と隣り合うダイヤモンドの切子面(ファセット)のように石井世界は複数の顔をそなえており、それぞれが輝きを競い、ときに光は溶け合って虹色に滲(にじ)んでいくのであるが、【雨のエトランゼ】は中でも大きな切り口を占めており、放射されるものはすこぶる強い。
具体名をあげれば『魔性の香り』(1985 監督池田敏春)、『沙耶のいる透視図』(1986 監督和泉聖治)、『ヌードの夜』(1993)といった作品で、屋上(またはそれに準ずる場処)からの投身を描いて像を重ねている。また、『天使のはらわた 名美』(1979 監督田中登)と『天使のはらわた 赤い閃光』(1994)の二作は雑誌の編集者をドラマの主軸にすえていて、系譜を連ねると言って差し支えないだろう。劇画の内容を継いでおらなくとも内包する視線が近しいものとして、『死んでもいい』(1992)や『夜がまた来る』(1994)なども上げられるから、明るさは半端ではない。
かような位置を占める【雨のエトランゼ】が破壊された訳である。不様な装本を苦々しく感じ、また読者に対して面目なく思い、熱心な働きかけに背中も押されて石井は二十年ぶりに完全版(*2)を上梓している。そのあたりの事情はよく伝わっている話だから、あえて説明するまでもないだろうが、はっきり言えることは私の手元にある古い方の【雨のエトランゼ】は炉にくべて灰にしても構わない立場に今は置かれて、作者もそれを切望しているということだ。
石井にとって古傷に等しいものを公の目にさらし、わたしは最低の輩だろうか。けれど、稀少であろう、奇観であろうと自慢している訳では決してない。石井の作品と呼ばれるものの中で作者の“意に沿わぬもの”をつぶさに、厭かずに凝視(みつ)めていくことが、結果的に回り回って石井隆という作家の輪郭線を見きわめる事に結びつくという思いが、日毎夜毎に渦巻いて消えないのだ。
(*1):石井隆作品集「おんなの街」 石井隆 少年画報社 1981
(*2):「おんなの街 Ⅰ 雨のエトランゼ」 石井隆 ワイズ出版 2000
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