石井隆の劇空間には、人形に耽溺していく話が見当たらない。だから、【無口なあなた】が月刊誌に掲載された当時は随分と首を傾げたものだった。廃棄されたマネキンを自宅に持ち帰り、それに語り掛け、献身することで気をまぎらわせていく孤独な若者の行為は心情的に分からないでもないけれど、石井の敷いてきたレールからは正直脱線して見えた。(*1) しかし、この作品が石井の想うところの“マンガ”を具現化したものと捉え直すなら、嚥下(えんげ)するのも容易となる。
石井のマンガ作品【THE DEAD NEW REIKO デッド・ニュー・レイコ】(以下【レイコ】1990)に手塚治虫のアトムの遺伝子を視止めた上で、改めて【レイコ】に近接して描かれた短篇マンガ【無口なあなた】(1992)を読み返していくと、こちらも少しだけ手塚の残り香が薫るように思えてくる。(*2)
手塚作品に見え隠れする独特の嗜好については、竹内オサムや大野晃の研究本(*3)に詳しいが、その中には人形に対する尋常ならざる執心が含まれる。マネキン人形は【地球を呑む】(1968)の挿話【アダジオ・モデラート】でも重要な役回りを果たすし、【ザ・クレーター】の一篇である【風穴】(1969)では、人目を気にせず絶えずマネキンを同伴するカーレーサーが登場する。【ばるぼら】(1973)の主人公である作家はデパートのマネキンに本気で心奪われ、精神の崩壊なる寸前で同居する娘に救われている。
マネキンという形状にとらわれずに見渡せば、“人形愛”の類型はさらに数を増していくのだし、激しさも極まっていく。【人間昆虫記】(1970)のヒロイン十村十枝子は死んだ母親の蝋人形に甘えてすがり、【やけっぱちのマリア】(1970)の焼野矢八は自身のエクトプラズムを飲み込んだダッチワイフのために粉骨砕身して売られた喧嘩を買っていくのだったし、【火の鳥 復活編】(1970)では交通事故で脳を損傷し、復活手術を受けたレオナ・宮津がチヒロ61298というロボットに恋をし、相思相愛となった両者は魂の融合を目指して苦難の道を突き進む。代表作の【鉄腕アトム】(1952-68)にしたって、結局のところ人間がロボットを愛し切れるかどうかを問うことに終始していたと思う。
上に掲げた手塚作品を石井が熱心に読んでいたものかどうか、世代的にも微妙なところだし、本人に問うても笑顔を返すのみで取り合わないに決まっているのだが、劇画という頸木(くびき)を自ら外した石井が敬愛する手塚の発想なり描法を思い返しながら跳躍を果たそうとするのは、流れ的にはまったくおかしくない、いや、むしろ自然であるようにわたしは思う。
リアルであることを封じ、激情のおもむくままに筆を走らせた結果、背景は輪郭のみを残して続々と記号化したのではなかったか。のど奥に押し殺した喜怒哀楽は顔面に露呈して、マンガによくある百面相を人物に与えたのではなかったか。どちらかが破壊なるまでアンドロイド少女と同族とを戦わせ、マネキン人形には生命を与え、尽きることの無い生命の連環を大胆に想ったのではなかったか。石井は脱線したのではなく、あの時大急ぎで始発駅まで立ち戻って、夢の超特急に乗り換えたのではなかろうか。
ウェブで公開されている颯爽として動きの早い予告編を繰り返し眺めながら、石井隆という作家の根源にある“少年マンガ”のロマンティスムが充溢していると感じる。アトムの周りで交わされていたイノセンスな台詞、荒唐無稽で弾力のある場面展開、晴れ渡る蒼空のような人間賛歌といったフィクションの無限の夢なり歓びが、結果的に『フィギュアなあなた』(2013)という作品の内で増幅され、爆発し、四方八方に放出されているのじゃないか、と勝手に想像して愉しんでいる。
原作(自作であっても)を徹底的に咀嚼し、換骨奪胎していく石井の演出法はもちろん健在であろうから、意外な景色がとんでもない勢いで銀幕に拡がるかも知れぬ。劇場での鑑賞を今から心待ちにしながら、のんびりと気ままな思索に耽っている。
(*1):石井隆の世界には人形へ粘着する景色は見当たらない。フランス人形風のものを手元に置いて愛でる程度のことは、劇中それまでも散見できた。たとえば【レイコ】にしても寝具脇にアンティークドールは控えている。けれど、主人公が恋情の対象と思い定め、総身を人形に傾けていくという偏愛はどこにも見受けられない。誘拐したおんなを殺め、蝋の皮膜で覆って永久に保管しようと企てる犯罪者の狂った熱情が初期の劇画の幾篇かには描かれていたが、それは“おんな”そのものの収監を夢見るものであるから全く別次元の話だ。後年『GONIN2』(1996)において、男性恐怖症に陥ったおんなが等身大の人形を蒐集する小部屋が写されていたが、あれとて鑑賞物の域であって恋愛の相手ではなかった。
(*2):此処に展開したものは完全に私だけの妄想であって、石井隆の【無口なあなた】および、その映画化である『フィギュアなあなた』の世界観がこうだと断言するものではない。石井は何も語っていないし、この先もきっと言葉を選ぶか沈黙を守るのだろう。過日書いたように何か結線するものはないかと期待し、人形を題材とする古今東西の小説や映画を読んでみたり眺めたりする毎日なのだが、【無口なあなた】と二重写しになり、これだ、と膝を打ちたくなる古典に突き当たることはなかった。今のところ私のなかで木霊(こだま)を響かせるものは、同じく“マンガ”であるところの手塚治虫の手になる一連の作品だけなのだ。つまり、あの手この手を尽くして、私がわたし自身を納得させているに過ぎない訳であって、確たるものは何ひとつない。ゆめゆめ早合点はされぬよう、お願いします。
(*3):「手塚治虫論」 竹内オサム 平凡社 1992
「手塚治虫 〈変容〉と〈異形〉」 大野晃 翰林書房 2000
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