ここで掲載誌の当時の状況を振り返る。以前の文章と重複するが、とても大切なところと思う。『フィギュアなあなた』(2013)の原作である短編【無口なあなた】(1992)を掲載した「ヤングコミック」は、私の世代からはひときわ輝いて見えるコミック誌の巨星である。1967年に少年画報社から創刊され、小池一夫原作【御用牙】が看板となって強く牽引した時期もあり、また、宮谷一彦、望月三起也、上村一夫、そして石井隆といった筆達者な絵師にも恵まれたことから青年劇画誌界で隆盛を誇った。しかし、栄枯盛衰は世のならい、1982年1月27日号にて突然の休刊宣言を行なってしまうのだった。
紆余曲折あって月刊誌として再スタートしたのだったが、いつ果てるともわからない混乱と停滞感にくるまれて息切れは増すばかりで、傍目にも濁流に揺られる小船のような様相を呈した。コンビニエンスストアが地方にも乱立し、既存の書店を圧倒する商流の侵食が始まっていた。強力なその販売網に幻惑され、刹那的な“読み切り”を編集部として訴求した面がきっとあったのだろう、誌面を彩っていた連載は徐々に姿を潜め、一話完結ものに置き換わっていく。ひとつひとつの物語の隆起は自ずと低くなったし、人物描写の奥行きや陰影は極端に減って意味のない台詞ばかりが誌面に踊り、かしましさを覚えた。花冠(かかん)は次々と地に堕ちて、輝きは失われていく。百花繚乱たる時代は去ったのである。
石井隆の戦史もこれに倣(なら)う。1991年9月4日発売の10月号から短編の発表へと移行するが、それが九話からなる連作【カンタレッラの匣(はこ)】であったのだ。連載予告や扉絵に添えられた宣伝文は、これまでの石井のスタイルから脱却する旨を宣言している。
「コミック深まる。男と女 そこに綾なす無数のドラマを独自の美学で貫いた緊張と興奮の一大綺想世界!巨匠のファンタジックな舞台に酔いしれるのも別のコミックの楽しみ!! コミックの壁をクリアするとネオGEKIGAの衝撃世界が!!」
石井は掲載誌を取り巻く烈風を肌で感じ、重い鎧を自ら脱いで新しい戦端を開いたのだった。現在『フィギュアなあなた』の試写会が重ねられ、ウェブ上には石井のこれまでの映画に慣れ親しんだ参加者が上げる驚嘆の声が散見できるのだけれど、それは当然と言えば当然の成り行きなのだ。『フィギュアなあなた』を支配する洒脱な気風は、原作が【天使のはらわた】(1978-79)や【おんなの街】(1979-80)といった“石井劇画”ではなくって、上のような経緯で到達した“石井マンガ”だからだ。
付け加えるなら『フィギュアなあなた』には、【無口なあなた】とは別のもうひとつの“マンガ”の面影が移植されている。1990年8月より約一年に渡り先行して連載されていた異色の近未来バイオレンス、【THE DEAD NEW REIKO デッド・ニュー・レイコ】(以下【レイコ】)である。このマンガの世界観が映画『フィギュアなあなた』の骨格にどこまで符合するかは知らないが、等身大フィギュア(佐々木心音 ささきここね)の面立ちは間違いなくそれである。セーラー服姿のレイコ(*1)はつるつるの人工皮膜で首から下を覆って素肌を防護しながら、強靭な意志と捨て身の戦法で親の仇を追っていくのだったが、銀幕での佐々木心音の身姿とレイコのそれは完全に重なるのである。
(注意─石井がこのマンガに託したものを探る上で、結末に触れねばならない。)レイコの住まう世界はスラム化した高層建築に犯罪者が巣食い、異形のレプリカントが人間と混然となって暮らす未来社会であるのだが、レシーバー越しに寄越される母親の声に導かれながらレイコは、敵をもとめて廃墟ビルへの潜入を重ねるのだった。対する凶悪レプリカントは火を吹き、怪力をふるい、幻術を使い、大斧を振り上げてレイコを絶体絶命の危機に追い込む。レイコは日本刀を振りかざして彼らに立ち向かっていくのであるが、その闘いのなかで自らの出生に疑問を抱き、いつしか声を聞かせるばかりでついぞ姿を見せぬ母親との面会を渇望するようになる。
当初は女豹さながらの鋭さを眼光に湛(たた)えていたレイコだったが、自身の生い立ちがどうやら普通でないと気付いてしまった辺りから徐々に伏目がちになる。母親の居場所を知って駆けつけたレイコを待っていたのは、水槽に浮かんだ女の生首であり、ガラスの湾曲によって巨大な影となって目に前にそびえているのだった。
母親はレイコに対し、おまえはレプリカントである、と泡(あぶく)をゴボゴボと吹きながら言い放ち、創造者である自分への服従を厳命するのであったが、レイコの戸惑いと怒りは止まることを知らず、ひどい混沌の末に母親は暴れ狂って自身の容器を破壊し絶命してしまう。爆砕するガラスの破片はレイコをも襲い、無残にもその首をちぎり飛ばすのだった。水煙に霞んだ広間にレイコの胴体がよろよろと起き上がり、涙に頬を濡らす頭部をやさしく持ち上げるところで物語は幕を閉じている。
劇画の緻密さ、周到さとは距離を置いた縦横無尽の視座の転換があり、マンガ本来の躍動が最後まで持続していた。奇想天外な景色の連続であるのだが、どこか懐かしい感じも受けるのを当時は不思議に感じたものだった。
最近になってようやく気付いた事がある。それはこの【レイコ】と手塚治虫の【鉄腕アトム】(1952-68)との相似である。水槽の中にて世界を牛耳る首だけのおんなというのは、アトムのエピソードのひとつ【ゾロモンの宝石】(1967)に登場するベラロイドの女王シーラそのものであるし、主人公であるロボットの頭部が吹き飛ぶという描写は【青騎士】(1965)の終幕などで破壊されていくアトムの様子とそっくりだ。(*2)
石井隆のインタビュウでたびたび顔をのぞかせる「手塚治虫」や「アトム」という言葉は、幼年時から多感な少年期にかけて漫画の神さまがどれだけ石井に影響を及ぼしたかを示すに止まらず、マンガらしい“マンガ”を書くことを迫られた劇画家時代の石井に強く作用した可能性を示唆する。回転し、飛び降り、天空に飛翔し、悪漢を叩き潰す、そんな『フィギュアなあなた』の佐々木心音には、だからレイコの容色と共にアトムの面影がそっと寄り添って見えるのである。
乱暴な括(くく)りをすれば、アトムは捨て子や棄民の物語であろう。蔑視や偏見、悪用がのさばり、理不尽に鞭打たれ、用済みと宣告されては次々に廃棄されていく、そんな存在(仲間たち)にちいさな心を痛め、背中を丸めて歩く、そんなアトムのやさしさが佐々木のまなざしには宿っている。
(*1):セーラー服の少女が抜刀して悪鬼と格闘するという絵柄は、押井守が企画して制作されたアニメーション『BLOOD THE LAST VAMPIRE』(ブラッド ザ ラスト ヴァンパイア)とも似ているが、『BLOOD』は2000年の作品であった訳だから、石井の着想が10年近く先行している。
(*2):アトムの人工頭脳は胴体に収納されてあるため、頭部が破壊もしくは切り離されてもよほどの損傷がなければ歩行や会話の機能は停止しない。おのれの頭部を抱えて歩み去ろうとする苛酷すぎるレイコの末路は、アトム的な身体構造がレイコに附与されていたことを物語っている。
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