石井隆が脚本を書いた『天使のはらわた 赤い教室』(1979 曾根中生)のなかで、棘(とげ)となって胸に残るのは中盤の旅館のくだりである。石井の劇とは何だろうか、どのように凝視めたなら深度がより増して焦点が合うのか、思念を積んでいく行程で外せない景色がある。
(『赤い教室』未観賞で読むことに抵抗を感ずる人あらば、ここで頁を閉じてもらっても構わないのだけれど)体読のために物語の輪郭に触れる必要がある。主人公は名美と雑誌編集者の村木である。暴姦された上にその仔細を8ミリフィルムに撮られ、それが世に出回って苦悶する名美(水原ゆう紀)であった。戦場に捨て置かれた負傷兵さながら、息をひそめ、顔を伏せ、身とこころをきゅうきゅうに縮こませて時間をやり過ごしている。
事情を承知で歩み寄ってきた村木(蟹江敬三)の裏表を感じさせない態度にこころは氷解し、その熱い言葉にほだされ、安息の地をようやく得た思いで約束の公園へと足を運んだのだったが、その頃、当の頼りとする村木は編集した雑誌にからんで警察署に拘束されており、いっさいの連絡が取れないのだった。ふたつの誠実な魂に永劫の別れが迫る。公園の闇のとばりにくるまれ、雨に濡れそぼった名美の表情は次第に硬直していく。下心を抱いて声掛けして来た男の誘いに応じ、共に歩き出してしまうのだった。
足元を突き破り、突如隆起しては当事者のみならず周囲のひとの心をも引き裂いていく、そんな出来事が日常には稀に起きる。どうしようもないこと、取り返しのつかない事が蛇のように連なって思いもしなかった現在(いま)を築いていくのであるが、そうこうして行き着く果てに過去の残像と向き合い、瞳を宙にさまよわせる静謐な時間が大概のひとに訪れる。劇に内在する痛ましさとそれがきっと共振を始めてしまうからなのだろう、『赤い教室』という作品に烈しく惹かれ、心酔する人はずいぶんと多い。
どうにも遣る方ないそんな展開に続いて、私たちは場末の連れ込み宿に引きずり込まれ、名美と男とのかりそめの情事(というよりは交接とでも書きたくなる)の果てしなく連なるさまを目撃するはめになるのだったが、ここで男の存在を掻き消す勢いで、行為が一方的におんな側から強要されているところが刮目すべき点である。
男に煮え湯を呑まされ続け、自尊心を粉砕され、なんとか口角をあげて前を目指そうとした矢先にその控えめな笑顔さえも押しつぶされた流れである。名美の清楚な顔立ちの裏側は般若に変幻して、憤激にひどく歪んでいるのだった。迂闊にもそんなおんなに声掛けした男はちっぽけな生餌(いきえ)に成り果て、さんざ弄ばれた挙句にぼろ雑巾のようにやつれて床を這い回る羽目となる。
性愛の深い淵を覗き見れば、女性と男性では身体のつくりもこころの造りも段差があって、おんながその気になりさえすれば武器や道具を手にするまでもなく男を消耗させ、激甚な病変を引き起こさせることもたやすいように(実感として)思う。行きずりの男と交合する『赤い教室』の名美は鬱憤晴らしをしているのではなく、内部に膨張してやり場に困った性欲の処理をしているのでもなくって、このおそるべき性差の実証に取り掛かっているのだろう。“被害者”の側から一転し、男を食い尽くし叩き潰す“加害者”へと変相を遂げている。以降、終幕に至るまで名美はその立ち位置を変えないし、むしろ酷薄さを増していく。人の魂の面立ちと共に劇の流れが“完全に折り返される地点”が、あの旅館のわびしい一室であった。
『赤い教室』の構造を石井の劇画作品に探れば、それは作者自身も「自選劇画集」(創樹社 1985)や単行本「名美・イン・ブルー」(ロッキング・オン 2001)の巻末で打ち明けてもいて、三つの短篇がゆるゆると浮上し絡んでくることは世に知られたところだ。名美を襲った災厄のざらついた手ざわりは【赤い教室】(1976)の中に、映写幕に現れた姿を目にして以来こころがひどく囚われ、面影を追い求めて止まなくなる男の傾斜は【蒼い閃光】(1976)に視止められる。哀しみに狂ったおんなの独壇場となる旅館は【やめないで】(1976)から移植されており、三篇は石井の目論見にしたがって“自然なかたち”で連結を果たし、『赤い教室』という長尺の物語をなおやかに構築したように見える。
一見そう見えるけれど、はたして本当にそうだろうか。あの展開が“自然なかたち”であったのかどうか、私は立ち止まって目を凝らしてしまうのだし、この文面を読む石井のファンにも、同様にしばし足を留めてほんの少しでいいから考えてもらいたい。
ブルーフィルムの名美の容姿と境遇にひどく引き付けられ、おんなの救済と自身の恋着の完遂を願ってひたすら追いすがる【蒼い閃光】の(映画で登用された)前半部分は、男の目線から一方的に描かれていたのに対し、【やめないで】はおんな側に視座が据えられていて、両者の内実は全く異なるベクトルで貫かれている。つまりは“全く違う世界の見え方”がされているもの同士が接木(つぎき)されていた、ということであって、拒絶反応とまではいかないが相当の衝撃が物語の足元を揺らしていた、と捉えるべきではないのか。それが私たちを混乱させ、唖然として視線をきつく縛ったのではなかったか。石井独特の“不自然さ”が横たわっていたのではなかったか。
名美のこころの変貌と、それと同時に劇の変相が突如、それも極めて烈しくあの宿で生じていることと、二つの短篇【蒼い閃光】と【やめないで】がバトンを繋いで物語を橋渡ししていくことは無関係ではなかろう。『赤い教室』、いや、石井世界を語る上でこの点が見過ごされてはなるまい。
どのように喩(たと)えれば、腹のおさまりが良くなるだろう。それぞれの世界に同じ顔をした名美と村木がいて、各々の領域で息をし、必死に暮らしている。ともに聞き上手であるから、ある物語ではひたすら目を細め相手の言葉に耳を傾け、やさしく相槌を打ち続けるのは名美であるかもしれない。しかし、別の物語では役目が交替し、抑えていたものが決壊して、胸の奥の洞窟から風が吹き出るようにして切々とおのれの境遇を相手に語り聞かせていくのが名美となる。まるで視座の異なる恋情劇が島宇宙となって点在し、“ハイライト”が各々佇立しているのであるが、本来独立して在るそれを石井は臆することなく連結させていくのである。
映画『赤い教室』を構成する三つの物語は、ほぼ同じ時期に石井の手を離れて世に放たれているのだけれど、単行本の初出一覧に顔を寄せて発表年月日まで書き写していけば、私が上で書いたことの意味も少しは分かってもらえるのではなかろうか。起承転結の“起”にあたる【赤い教室】は「ヤングコミック」の1976年12月22日号(*1)に掲載されていた。 “承”に相当する【蒼い閃光】は「漫画エロトピア」に二ヶ月前の同年10月26日号に発表され、さらに二ヶ月を遡って同年8月21日号の「増刊ヤングコミック」に、“転”に当たる【やめないで】が場を得ている。この点だけを見ても、三者は元来別々の流れにあったことが読み取れる。
石井の劇とはつまり、複数の異なる視座と異なる拍子の世界が巧みに融合された(縫合と呼んでもいい)その後の全身を指すのである。群像劇ともなれば、時には繋ぐ相手(物語)が二者にとどまらずに三者、四者と連なっていくこともある。世界から世界へ移行する瞬間に“折り返し感”や“違和感”が生じるのは当然過ぎる反応であって、私たちは本能的に居心地の悪さをそこで感じ取るし、それゆえに緊張を強いられ、混乱に苛まれていく。(*2) 石井の劇特有の多層性や深度の創成にも通じる複雑な流れであって、ここに一切言及しない石井論はどこか軽く、片手落ちの印象をぬぐえない。
いまさら何で昔の映画に言及し、くどくど訴えているのかと怪訝に思われるかもしれないが、最新作『フィギュアなあなた』(2013)においても私の目には“物語世界の縫合”が視止められるのであり、この点に触れずして到底感想文など書けない、そう思っての前置きである。
(*2):朝は家族として、昼間は社会や組織に揉まれ、夕には人恋しさや肌恋しさを娯楽で誤魔化し、夜は内観して身悶えし、夢の中に遊んでなんとか溜飲をさげていく、そんな阿修羅像のごとき多面相の、やや分裂気味の日常を重ねる現代の私たちにとって、キメラ的な要素を内在する石井の銀幕世界というのはすぐれた鏡面となって機能を果たしているように感じられる。
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