2013年5月3日金曜日

『フィギュアなあなた』を観るあなたへ②


 ここで掲載誌の当時の状況を振り返る。以前の文章と重複するが、とても大切なところと思う。『フィギュアなあなた』(2013)の原作である短編【無口なあなた】(1992)を掲載した「ヤングコミック」は、私の世代からはひときわ輝いて見えるコミック誌の巨星である。1967年に少年画報社から創刊され、小池一夫原作【御用牙】が看板となって強く牽引した時期もあり、また、宮谷一彦、望月三起也、上村一夫、そして石井隆といった筆達者な絵師にも恵まれたことから青年劇画誌界で隆盛を誇った。しかし、栄枯盛衰は世のならい、1982年1月27日号にて突然の休刊宣言を行なってしまうのだった。

 紆余曲折あって月刊誌として再スタートしたのだったが、いつ果てるともわからない混乱と停滞感にくるまれて息切れは増すばかりで、傍目にも濁流に揺られる小船のような様相を呈した。コンビニエンスストアが地方にも乱立し、既存の書店を圧倒する商流の侵食が始まっていた。強力なその販売網に幻惑され、刹那的な“読み切り”を編集部として訴求した面がきっとあったのだろう、誌面を彩っていた連載は徐々に姿を潜め、一話完結ものに置き換わっていく。ひとつひとつの物語の隆起は自ずと低くなったし、人物描写の奥行きや陰影は極端に減って意味のない台詞ばかりが誌面に踊り、かしましさを覚えた。花冠(かかん)は次々と地に堕ちて、輝きは失われていく。百花繚乱たる時代は去ったのである。 

 石井隆の戦史もこれに倣(なら)う。1991年9月4日発売の10月号から短編の発表へと移行するが、それが九話からなる連作【カンタレッラの匣(はこ)】であったのだ。連載予告や扉絵に添えられた宣伝文は、これまでの石井のスタイルから脱却する旨を宣言している。  

「コミック深まる。男と女 そこに綾なす無数のドラマを独自の美学で貫いた緊張と興奮の一大綺想世界!巨匠のファンタジックな舞台に酔いしれるのも別のコミックの楽しみ!! コミックの壁をクリアするとネオGEKIGAの衝撃世界が!!」

 石井は掲載誌を取り巻く烈風を肌で感じ、重い鎧を自ら脱いで新しい戦端を開いたのだった。現在『フィギュアなあなた』の試写会が重ねられ、ウェブ上には石井のこれまでの映画に慣れ親しんだ参加者が上げる驚嘆の声が散見できるのだけれど、それは当然と言えば当然の成り行きなのだ。『フィギュアなあなた』を支配する洒脱な気風は、原作が【天使のはらわた】(1978-79)や【おんなの街】(1979-80)といった“石井劇画”ではなくって、上のような経緯で到達した“石井マンガ”だからだ。


 付け加えるなら『フィギュアなあなた』には、【無口なあなた】とは別のもうひとつの“マンガ”の面影が移植されている。1990年8月より約一年に渡り先行して連載されていた異色の近未来バイオレンス、【THE DEAD NEW REIKO デッド・ニュー・レイコ】(以下【レイコ】)である。このマンガの世界観が映画『フィギュアなあなた』の骨格にどこまで符合するかは知らないが、等身大フィギュア(佐々木心音 ささきここね)の面立ちは間違いなくそれである。セーラー服姿のレイコ(*1)はつるつるの人工皮膜で首から下を覆って素肌を防護しながら、強靭な意志と捨て身の戦法で親の仇を追っていくのだったが、銀幕での佐々木心音の身姿とレイコのそれは完全に重なるのである。

 (注意─石井がこのマンガに託したものを探る上で、結末に触れねばならない。)レイコの住まう世界はスラム化した高層建築に犯罪者が巣食い、異形のレプリカントが人間と混然となって暮らす未来社会であるのだが、レシーバー越しに寄越される母親の声に導かれながらレイコは、敵をもとめて廃墟ビルへの潜入を重ねるのだった。対する凶悪レプリカントは火を吹き、怪力をふるい、幻術を使い、大斧を振り上げてレイコを絶体絶命の危機に追い込む。レイコは日本刀を振りかざして彼らに立ち向かっていくのであるが、その闘いのなかで自らの出生に疑問を抱き、いつしか声を聞かせるばかりでついぞ姿を見せぬ母親との面会を渇望するようになる。

 当初は女豹さながらの鋭さを眼光に湛(たた)えていたレイコだったが、自身の生い立ちがどうやら普通でないと気付いてしまった辺りから徐々に伏目がちになる。母親の居場所を知って駆けつけたレイコを待っていたのは、水槽に浮かんだ女の生首であり、ガラスの湾曲によって巨大な影となって目に前にそびえているのだった。

 母親はレイコに対し、おまえはレプリカントである、と泡(あぶく)をゴボゴボと吹きながら言い放ち、創造者である自分への服従を厳命するのであったが、レイコの戸惑いと怒りは止まることを知らず、ひどい混沌の末に母親は暴れ狂って自身の容器を破壊し絶命してしまう。爆砕するガラスの破片はレイコをも襲い、無残にもその首をちぎり飛ばすのだった。水煙に霞んだ広間にレイコの胴体がよろよろと起き上がり、涙に頬を濡らす頭部をやさしく持ち上げるところで物語は幕を閉じている。

 劇画の緻密さ、周到さとは距離を置いた縦横無尽の視座の転換があり、マンガ本来の躍動が最後まで持続していた。奇想天外な景色の連続であるのだが、どこか懐かしい感じも受けるのを当時は不思議に感じたものだった。

 最近になってようやく気付いた事がある。それはこの【レイコ】と手塚治虫の【鉄腕アトム】(1952-68)との相似である。水槽の中にて世界を牛耳る首だけのおんなというのは、アトムのエピソードのひとつ【ゾロモンの宝石】(1967)に登場するベラロイドの女王シーラそのものであるし、主人公であるロボットの頭部が吹き飛ぶという描写は【青騎士】(1965)の終幕などで破壊されていくアトムの様子とそっくりだ。(*2)

 石井隆のインタビュウでたびたび顔をのぞかせる「手塚治虫」や「アトム」という言葉は、幼年時から多感な少年期にかけて漫画の神さまがどれだけ石井に影響を及ぼしたかを示すに止まらず、マンガらしい“マンガ”を書くことを迫られた劇画家時代の石井に強く作用した可能性を示唆する。回転し、飛び降り、天空に飛翔し、悪漢を叩き潰す、そんな『フィギュアなあなた』の佐々木心音には、だからレイコの容色と共にアトムの面影がそっと寄り添って見えるのである。

 乱暴な括(くく)りをすれば、アトムは捨て子や棄民の物語であろう。蔑視や偏見、悪用がのさばり、理不尽に鞭打たれ、用済みと宣告されては次々に廃棄されていく、そんな存在(仲間たち)にちいさな心を痛め、背中を丸めて歩く、そんなアトムのやさしさが佐々木のまなざしには宿っている。

(*1):セーラー服の少女が抜刀して悪鬼と格闘するという絵柄は、押井守が企画して制作されたアニメーション『BLOOD THE LAST VAMPIRE』(ブラッド ザ ラスト ヴァンパイア)とも似ているが、『BLOOD』は2000年の作品であった訳だから、石井の着想が10年近く先行している。
(*2):アトムの人工頭脳は胴体に収納されてあるため、頭部が破壊もしくは切り離されてもよほどの損傷がなければ歩行や会話の機能は停止しない。おのれの頭部を抱えて歩み去ろうとする苛酷すぎるレイコの末路は、アトム的な身体構造がレイコに附与されていたことを物語っている。




『フィギュアなあなた』を観るあなたへ①


 石井隆の『フィギュアなあなた』(2013)の鳴動が、ここに来てはげしさを増している。なおやかさと同時に勇胆を白き肌に裏打ちした、ヒロイン佐々木心音(ささきここね)の押し出しが楽しく、小心そうな柄本祐(えもとたすく)のときときした所作もまた可笑しい。こころを和ませて、こちらの笑顔が思わず引き出される。こんなにも停滞し切った世相にあるから、息抜きの時間を欲して劇場へと足向ける人は多かろう。

  そこには独特の映像美と語り口に惹かれる生粋の石井ファンも交じるわけだが、さて、そのうちどれ程の人がどれだけ遠い過去まで振り返り、この『フィギュアなあなた』の解釈を試みるものだろうか。承知の通り『フィギュアなあなた』には原作がある。かつて石井が雑誌に発表した短編劇画【無口なあなた】(*1)であるのだが、掲載の時期を調べ直せば1992年の2月だ。発表からかれこれ21年が経過している。今さらそんな昔の作品をがらがらと掘削(くっさく)しても、意味ないことと捉える人がほとんどだろう。

  けれど私はそのような視線の遠投が、石井世界の読み解きには有効だと信じている。“尾根(おね)の連なり”や“神経線維(シナプス)の結束”にも似た作品同士の連環や照射が、石井隆の世界には往々にして起きる。石井の作家性に言及する上でこの飛距離なり息の長さは外せないし、絶対に譲れないところだ。古い記憶をたどり、再認識すべき点はしっかりと頭に叩き込んで銀幕に臨む事は今回とて無駄ではないはずだから、そのあたりの事をよくよく吟味した上でしばし持論を広げようと思う。なお、好奇心まで殺(そ)いでしまっては本末転倒になるから、具体的な話の筋道には触れないか、もし触れても既に公式サイトに掲示なっている域を越えるつもりはない。


  【無口なあなた】は【カンタレッラの匣(はこ)】(*2)と銘打たれた短編連作のひとつで、掲載誌「ヤングコミック」には第6話(六の匣)として登場したのだったが、私には当時もいまもこの【カンタレッラの匣】が、石井世界のなかで異彩を放って瞳に映るのだ。前年に石井が発表した【THE DEAD NEW REIKO デッド・ニュー・レイコ】(1990 後ほど触れる)あたりからその変調は目立っていたのだが、長らく石井の劇画を愛読してきた者にとって【カンタレッラの匣(はこ)】は、石井劇画の決定的な転進を突きつけられる内容であった。(*3)

  【無口なあなた】を読みかえしていくと、前の方に酒場の情景が挿し込まれているのだけれど、ここも石井の描法と姿勢がいかに変化したかを物語る良い例である。上司からの罵声を浴びて消沈した若いサラリーマンが、気をまぎらわせる目的で歓楽街をさまよい歩き、とある酒場で独り盃を重ねるうちに程なく酔いつぶれる。隣席のボトルに手を伸ばして注意されたことに逆切れして、つまらぬ騒動を起こしていく。

  隣席の男との距離や卓上に散らかるグラスや皿から、若者が座るのはカウンターなのだと推察させる。正面から若者をとらえた絵の背後には、薄墨に染まる店内が描かれており、他にも数組の客があって、それぞれが酒器を傾けながら歓談している様子がうかがえる。上司や同僚にむけて噴出する憎悪と、拡大して止まらないひと恋しさ──二極の感傷が逆巻く酒舗(しゅほ)の幽暗がうまく補われており、よくある風景と大概の読者は割り切りながら次のコマを追ったはずだ。

  しかしながら、よくよくその背景画を見つめてみれば、描かれてあるのは他の客たちがカウンターに腰をおろして、揃って背中を向ける姿である訳だから、考えると眩暈にも似た不安な心持ちになるのだった。だって、こっちもあっちもカウンターって変じゃないの。若者が足を踏み入れたのは通路を挟んで手前と奥の両方の壁際に、「二」の字、はたまた「コ」の字型にカウンターを配した奇怪な間取りの店だったのだろうか。それとも先の解釈が誤っており、泥酔する若者はカウンターではなくテーブル席にいるのであって、本来ならホステスの座るべき通路側になぜか腰を下ろし、同じく通路側に腰を下ろす相席の男といさかいを起こした、という、通常ありえないことが起きたことを示す特別の景色だったのか。

  座席の位置はさておくとしても、奥の棚に並ぶ酒壜(びん)のあじきない顔といったらどうだ。渾身の筆さばきで世に送って来た細密画、例えばビールのラベルに載るひと文字ひと文字の再現に努めた、あの鬼神のごとき背景づくりは霧散して、「酒壜が並んでいる」という説明を簡略な線で示すにとどまっている。チベットの砂曼荼羅のような、あの恐るべきこだわりは一体どこに消えてしまったのだろう。

  石井の劇空間において“酒場”の多くは過去の罪との邂逅の場処であり、他者と向き合い感情を交差させ、血を酩酊させるか沸騰させていく祭壇といった趣きがあった。【天使のはらわた】(1978-79)で哲郎と名美が再会を果たす“梢”を筆頭とし、【シングルベット】(1984)、【酒場の花】(1988)、【月の砂漠】(1989)といった作品の光景がすぐに頭に浮かぶのだし、『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)や『ヌードの夜』(1993)といった映画作品であっても、その場所の湿度と温度はたいへんに高く、憧憬や憐憫といった剥き出しの感情がはらはらと交錯した。

  人のこころを鋼(はがね)に鍛えて顔を能面に変化(へんげ)させもしたし、逆に弱い部分をまさぐって、深く、甘く慰撫するところがあった。どうしようもなく訪れてしまう人生の転機の道標として働きもして、ドラマの渦潮(うずしお)がひそかに底流し、漂う紫煙の奥で出番の来るのを上目遣いに待っていると予感させる場処だった。【無口なあなた】の酒場では、もはやドラマは発現しない。おだやかに弛緩を手招く会話もなければ、後悔の念も膨らまない。物語を展開する上で必要な“酔い”をただ単に注入する装置として置かれていて、そこに名美が腰かける椅子はない。

  簡略化された記号となって提示された酒壜(びん)が象徴するように、また、間取りもまるで分からぬ曖昧な空間が人物を包みこむことが証左するように、従来の石井劇画から離脱した、つまり、私たちがよく見知った“マンガ”の口上に従って【無口なあなた】は描かれた、と解釈してきっと良いのだろう。石井は自身を呪縛する劇画のスタイルを壊して、“マンガ”をここで描こうとしたのは明らかである。

(*1):「カンタレッラの匣」 ロッキング・オン 2000 所載
(*2): 1991年9月4日発売の「ヤングコミック」10月号から掲載開始
(*3):最も分かりやすい変貌がおんな(名美に代表される)の顔の描かれ方であり、これまで目にしたことがない険しい表情を読者に見せて衝撃があった。飛び上がらんばかりに驚いた私は、その点を延々と文章(*4)に書き綴って動揺を抑えようとしたほどだ。また、石井隆のお家芸であり、林静一からは“ハイパーリアリズム”と称された精密描写がほんの少し手控えられ、その分だけ弾力や復元力を世界が獲得していたように思う。主人公の設定年齢が低く抑えられているのも特徴のひとつで、石井の伸びやかで闊達な描線は彼らの内部に派生する抑えの利かぬ、鉄板で油の飛び跳ねるがごとき欲情や焦燥、寂しさ、躁鬱、反撥といった生臭い息を上手く表現し、勢いよくほとばしらせて誌面を覆って見えた。
(*4): http://mixi.jp/view_diary.pl?id=218039166&owner_id=3993869


2013年4月18日木曜日

“書棚のこと”



 書棚の前にたたずみ、書籍を遠眼鏡となして相手の内奥に迫ろうとする。悪癖とは思うが、どうしても止められない。 敵対する気持ちはなく、なんとか繋がりたいと願ってのことだ。道徳観、官能のおもむく方向、情欲の強弱、その傾き具合、現実家なのか夢想家なのか、自惚れや限界、弱点などを手繰ってしまう。平静を装っているが内心は身悶えしながら、赤赤とした恋火にもがくように視線を注いでいる。

  才気にあふれる人の蒐集棚は、闇夜に爆(は)ぜ散る火花のごとく、多方面に、それも硬軟とりまぜて集積なっているのが見て取れ、圧倒されるし、惚れ惚れもするし、誰をも魅了して止まない磁場の源泉が此処だったか、と即座に合点がいって爽快この上ない。書棚というのは良い意味でも悪い意味でも磨かれた鏡面となって、人の姿をまざまざと映しこむように出来ている。


 そんな訳だから、映画を観ても銀幕の隅にひかえる書棚が気になり、手元に伏された本の作者や題名を読み取りたいと想いが馳せるのだ。人物造形の一端として劇中の蔵書にまで気が配られ、その選択やら配列、撮り込みの仕方に薫風が舞い、妙味が感ぜられたりすると、のどは鳴り、共振は勢い付いて柔らかな波紋を産み落とす。

  このような過剰な思い入れが、視界に粘度や歪みを与えてしまい、解釈をひどく捻じ曲げている可能性もないとは言えないけれど、たとえば石井隆の近作『ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う』(2010)を観るたびに思考がさまよう景色があって、それは本棚に関わる中盤以降の件(くだり)なのだった。

 愛するおんな“名美”を喪って十七年の間、路傍の立ち木のように茫々と生き永らえて来た“村木”という男(竹中直人)が登場する。いまは管理者という名目で廃工場の小部屋をあてがわれ、かろうじて雨露をしのいでいるのだったが、パイプ造りのちっぽけな寝台が無造作に置かれたその奥の壁際に、奇妙な面相の書棚がのっそりとそびえており、物語の行く末をまばたきもせずに見つめている風だった。
 
  そこに並んだ本たちはそろいもそろって背表紙をあちら向きにして挿し込まれていて、だから棚の外観は頁の重なった部分(小口)ばかりが露出して、白漆喰の壁のごとき面妖さなのである。『愛は惜しみなく奪う』の特集が石井の公式ファンサイトには組まれており、撮影用のセットに点在する小道具を接写し簡単な説明を加えている箇所がある。このおかしな白い本棚についても言及されているから、ちょっと書き写してみればこうある。

 “次郎はどこからか拾って来た本を読み終わると、背表紙を隠して本棚に仕舞う。いくら本を読んでも、次郎にとって名美のいない人生はただ「無意味」なだけ”(*1)──ここでの“次郎”とは、生業の“何でも代行”を行なう際の村木の変名だ。

  愛する人との死別が男の気力を根こそぎにして、手に取る本にひたすら駄目出しをしていく、ということなのか。この本もこころに降りて来ない、こっちも無駄であった、何の役にも立つものか、二度と見返すつもりはない、と背表紙を奥に向けて押し込んでいく。虚しい時間の堆積が奇妙な書棚となって徐々にかたち作られていく。

 これに納得する読み手もいるだろう。そもそも大概の観客は気にも留めることなく、あっさりと手前の寝台に目を転じ、そこで展開される男とおんなの情炎の対話を追うばかりだし、それが普通だろう。だけど、私は “不自然さ”をどうしようもなく覚えて足が止まってしまう。男の本棚の前からなかなか立ち去れないままでいる。

  石井劇画の代表作のいくつかは現実の雑誌編集室を舞台に選んでおり、丹念な取材と入魂の筆致により往時の面影を定着させるのに成功している。写真雑誌やスクラップブック、辞典などがひしめき合う書棚があり、画面を構成するそのいちいちに、現世で格闘する業界人の息吹きが香ったのだったし、汗だの涙などの塩味(しおみ)と苦さを連想させた。緻密な舞台設定が支柱となって、石井が陸続と解き放っていく剥き出しの恋情劇に生きた色彩を与えたように思う。

 それと比較して『愛は惜しみなく奪う』の本棚というのはどうだ。現実であれフィクションであれ、こんなとらえどころのない本棚をわたしは一度として目にしたことがない。離別という試練に雷撃されて地に倒れた者は、哀しみと怒りの中でこのように本を扱うものだろうか。

 どうしようもなく愛してしまい、どうしようもなくて散り散りとなった後に、人は気持ちの平衡を失い、追いすがるように、はたまた忘れるために書物を添い寝させ、やがて寝台の脇には読みかけの雑誌や本が散らばり重なって無茶苦茶となり、収拾がつかなくなるものではないのか。舫(もや)い綱を解かれた小船のように、本たちはあちらを向き、こちらを向き、やがては転覆して沈んでいく。側溝の水たまりに溜まる落ち葉のように、汚らしく床面なり棚を埋めていくのが普通であって、整然と同一の方向に顔をそろえて、それもあちら向きに並んだりはしないのではないか。


  村木という男がこころを閉ざして他人からの干渉や分析を徹底的に拒絶している、それを本棚で無言のうちに示している、と捉えることも勿論出来るだろう。また、もしかしたら、私たちは村木の正気をここで疑っても良いのかもしれない。

  本が“裏返し”である点に着目し、ヒロイン“れん”(佐藤寛子)の切実な思いが“ドゥオーモ”という幻像を築いたように、あの小部屋もまた村木という男の裏返しの部分が実体化したもの、つまりはもう一つの魂の聖堂であった、と解釈することも可能だろう。いずれにしても言えるのは、あの本棚は石井らしい、極端な変貌を遂げた風景の一種だったという事だ。


  私たちの住まうこの世界が、裏から、右から、天からと視座を替えてみることで無数の異なる光を照り返してくるように、石井の劇というものも底知れぬ物を抱いて横たわっている。人間の精神が世界を変貌させていく様子を探し、丹念に拾わなければ、石井の劇は弱い光しか返してはくれない。宝石を前にして見惚れているだけでなく、そのなかに裸になって飛び込んでいく、そのぐらいの気迫と接近が読み手にも求められるように思う。

(*1):PHOTO GALLERY03 紅次郎事務所/次郎の部屋‐2‐
http://fun.femmefatale.jp/photo/03.html