書棚の前にたたずみ、書籍を遠眼鏡となして相手の内奥に迫ろうとする。悪癖とは思うが、どうしても止められない。 敵対する気持ちはなく、なんとか繋がりたいと願ってのことだ。道徳観、官能のおもむく方向、情欲の強弱、その傾き具合、現実家なのか夢想家なのか、自惚れや限界、弱点などを手繰ってしまう。平静を装っているが内心は身悶えしながら、赤赤とした恋火にもがくように視線を注いでいる。
才気にあふれる人の蒐集棚は、闇夜に爆(は)ぜ散る火花のごとく、多方面に、それも硬軟とりまぜて集積なっているのが見て取れ、圧倒されるし、惚れ惚れもするし、誰をも魅了して止まない磁場の源泉が此処だったか、と即座に合点がいって爽快この上ない。書棚というのは良い意味でも悪い意味でも磨かれた鏡面となって、人の姿をまざまざと映しこむように出来ている。
そんな訳だから、映画を観ても銀幕の隅にひかえる書棚が気になり、手元に伏された本の作者や題名を読み取りたいと想いが馳せるのだ。人物造形の一端として劇中の蔵書にまで気が配られ、その選択やら配列、撮り込みの仕方に薫風が舞い、妙味が感ぜられたりすると、のどは鳴り、共振は勢い付いて柔らかな波紋を産み落とす。
このような過剰な思い入れが、視界に粘度や歪みを与えてしまい、解釈をひどく捻じ曲げている可能性もないとは言えないけれど、たとえば石井隆の近作『ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う』(2010)を観るたびに思考がさまよう景色があって、それは本棚に関わる中盤以降の件(くだり)なのだった。
愛するおんな“名美”を喪って十七年の間、路傍の立ち木のように茫々と生き永らえて来た“村木”という男(竹中直人)が登場する。いまは管理者という名目で廃工場の小部屋をあてがわれ、かろうじて雨露をしのいでいるのだったが、パイプ造りのちっぽけな寝台が無造作に置かれたその奥の壁際に、奇妙な面相の書棚がのっそりとそびえており、物語の行く末をまばたきもせずに見つめている風だった。
そこに並んだ本たちはそろいもそろって背表紙をあちら向きにして挿し込まれていて、だから棚の外観は頁の重なった部分(小口)ばかりが露出して、白漆喰の壁のごとき面妖さなのである。『愛は惜しみなく奪う』の特集が石井の公式ファンサイトには組まれており、撮影用のセットに点在する小道具を接写し簡単な説明を加えている箇所がある。このおかしな白い本棚についても言及されているから、ちょっと書き写してみればこうある。
“次郎はどこからか拾って来た本を読み終わると、背表紙を隠して本棚に仕舞う。いくら本を読んでも、次郎にとって名美のいない人生はただ「無意味」なだけ”(*1)──ここでの“次郎”とは、生業の“何でも代行”を行なう際の村木の変名だ。
愛する人との死別が男の気力を根こそぎにして、手に取る本にひたすら駄目出しをしていく、ということなのか。この本もこころに降りて来ない、こっちも無駄であった、何の役にも立つものか、二度と見返すつもりはない、と背表紙を奥に向けて押し込んでいく。虚しい時間の堆積が奇妙な書棚となって徐々にかたち作られていく。
これに納得する読み手もいるだろう。そもそも大概の観客は気にも留めることなく、あっさりと手前の寝台に目を転じ、そこで展開される男とおんなの情炎の対話を追うばかりだし、それが普通だろう。だけど、私は “不自然さ”をどうしようもなく覚えて足が止まってしまう。男の本棚の前からなかなか立ち去れないままでいる。
石井劇画の代表作のいくつかは現実の雑誌編集室を舞台に選んでおり、丹念な取材と入魂の筆致により往時の面影を定着させるのに成功している。写真雑誌やスクラップブック、辞典などがひしめき合う書棚があり、画面を構成するそのいちいちに、現世で格闘する業界人の息吹きが香ったのだったし、汗だの涙などの塩味(しおみ)と苦さを連想させた。緻密な舞台設定が支柱となって、石井が陸続と解き放っていく剥き出しの恋情劇に生きた色彩を与えたように思う。
それと比較して『愛は惜しみなく奪う』の本棚というのはどうだ。現実であれフィクションであれ、こんなとらえどころのない本棚をわたしは一度として目にしたことがない。離別という試練に雷撃されて地に倒れた者は、哀しみと怒りの中でこのように本を扱うものだろうか。
どうしようもなく愛してしまい、どうしようもなくて散り散りとなった後に、人は気持ちの平衡を失い、追いすがるように、はたまた忘れるために書物を添い寝させ、やがて寝台の脇には読みかけの雑誌や本が散らばり重なって無茶苦茶となり、収拾がつかなくなるものではないのか。舫(もや)い綱を解かれた小船のように、本たちはあちらを向き、こちらを向き、やがては転覆して沈んでいく。側溝の水たまりに溜まる落ち葉のように、汚らしく床面なり棚を埋めていくのが普通であって、整然と同一の方向に顔をそろえて、それもあちら向きに並んだりはしないのではないか。
村木という男がこころを閉ざして他人からの干渉や分析を徹底的に拒絶している、それを本棚で無言のうちに示している、と捉えることも勿論出来るだろう。また、もしかしたら、私たちは村木の正気をここで疑っても良いのかもしれない。
本が“裏返し”である点に着目し、ヒロイン“れん”(佐藤寛子)の切実な思いが“ドゥオーモ”という幻像を築いたように、あの小部屋もまた村木という男の裏返しの部分が実体化したもの、つまりはもう一つの魂の聖堂であった、と解釈することも可能だろう。いずれにしても言えるのは、あの本棚は石井らしい、極端な変貌を遂げた風景の一種だったという事だ。
私たちの住まうこの世界が、裏から、右から、天からと視座を替えてみることで無数の異なる光を照り返してくるように、石井の劇というものも底知れぬ物を抱いて横たわっている。人間の精神が世界を変貌させていく様子を探し、丹念に拾わなければ、石井の劇は弱い光しか返してはくれない。宝石を前にして見惚れているだけでなく、そのなかに裸になって飛び込んでいく、そのぐらいの気迫と接近が読み手にも求められるように思う。
http://fun.femmefatale.jp/photo/03.html
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