2013年4月11日木曜日
“書籍のこと”
映画『R-18文学賞 vol.1 自縄自縛の私』(2013)(*1)を観るため、劇場まで足を運んだ。“撮影”寺田緑郎、“照明”安河内央之、“録音”北村峰晴という布陣である。まるで仕立ては違っても、使う反物の肌合いは石井隆のそれと重なるのではないかと期待したのだ。
息を整え、自分のこころと真向かっていく。車の立てる騒音がカーテン越しに舞いこみ、それに風鈴の高い音色(ねいろ)、衣ずれのくぐもった音が蔦のように絡みつく──青みを帯びた陽射しがにじり寄り、ひざまずいたおんなの滑(すべ)っとした膝小僧に指をはわせていく──寂寥(せきりょう)として灰色の影を落とす男の背中が下手(しもて)をふさぎ、何を思って見上げているものか、明け方の天空は藤色に覆われ、まだら模様の紫霧(しむ)を右から左へと押し流していく──愉しみかたとしては邪道かもしれないが、惚れ惚れとする景色が銀幕に投影され、極楽を味わった。
石井作品に通じる清徹(ちょうてつ)した大気に幾度か舌鼓を打ったのだったが、それは予想の内であって特段の驚きはない。そろそろ本音を明かせば、わたしが色めき立った箇所は別にあったのであって、それは劇中に突如現われた一冊の本なのだった。
母親の呪縛と会社勤めの辛苦を忍びつつ、ささやかな暮らしを維持している若いおんな(平田薫)が主人公である。煮詰まる気分をひと時でも解放せんと夢見て、ウェブで収集した雑学をもとに緊縛のひとり遊びを始めてしまうのだったが、やがて病みつきとなって、行動の歯止めが利かなくなる。上着の奥に縄をかけたまま通勤してしまい、それが同僚に波及して突飛な出来事を誘爆していくという話の筋である。そんな困ったおんなが住まうアパートの書棚に、石井隆の単行本「名美Returns(リターンズ)」(*2)が置かれてあるのが一瞬見て取れるのだった。カメラはこの本の背表紙を画面の中央に捉え、私たちに向けて明らかにその存在を訴えている。
わずか数秒の露出である。ほとんどの観客が読み取り困難であって、もしかしたら美術部による悪戯か遊びの範疇に過ぎないかもしれないが、『死んでもいい』(1992)がギリシャのテッサロニキ国際映画祭で最優秀監督賞を受けたことを契機に編まれたのが「名美Returns」であって、巻末にはこの『自縄自縛の私』の監督を務めた竹中直人がうれしそうに祝文を寄せていた。竹中とすれば記念すべき本、思い入れの深い本に違いなく、だからこの本の登場は竹中なりの花押(かおう)だった可能性がある。また、石井作品に深くかかわるスタッフと竹中による、敬愛する石井に向けた挨拶と捉えてもよいのだろう。
創り手の真意が計り知れぬ事というのはどんな劇中にも無数にあって、そのいちいちに錨(いかり)を下ろして精査していては息が詰まるし、どの道埒もあかない。この一冊の本にしたって深く考え込むには値しない事象のひとつかもしれぬ。けれど、私としては得心し、闇のなかで一人頷くところもあったのだ。奇声を放ち異相をことさらに強調してみせる登場人物たちに、どうしても気持ちが入らず、物語世界へ融けこむことが難しかったのだけど、石井の本「名美Returns」を垣間見たことにより虚実の境界はあっさり崩れ、回路がしかと結ばれる手応えがあった。このおんなが石井隆を読む人間であり、加えてその本を書棚のいちばん目立つ場所に並べる人間だと知らされ、にわかに現実味を帯びて目に映(は)えるようになった。
銀幕に挿し込まれたこの「名美Returns」という本の秘める嬉しさ、愉しさは、傑出した石井劇画が連なる主要部分もさることながら、装丁のあでやかさ、巻末に収められた対談、資料の充実、解説の強さ、激しさにある。中でも権藤晋(ごんどうすすむ)による解題はぎりぎりまで無駄を削ぎ落とし、一字一句が選び抜かれ、短文ながらも石井隆という作家の内実を明瞭に刻んで凄まじい。適確な触診で劇をまさぐり、核心となる作り手の思いをそっとつまんでいく風であり、これ程の密度と形容をもって石井世界のなんたるかを語り尽くした文章というのは二度と現われないのではないか、と読むたびに唸ってしまう。
石井の劇中にたたずむ男女には“硬質な部分”、“生来のやさしさ”、“慎しみ”、“従順”、“真摯”という気質がそなわっていると権藤は「名美Returns」の中で書いており、確かにその通りと思わせる。そして、その頑固さや不器用さもにじませる生真面目過ぎる気質というものは、石井世界にどうしようもなく引き寄せられ、観ればかならず琴線に触れてしまって仕方のない、そんな特定の読み手や選ばれた観客それぞれの性格に相通ずるものではあるまいか。映画『自縄自縛の私』の主人公こそがその典型であった。
起伏とカタルシスの乏しい、突っ込みどころ満載の『自縄自縛の私』ではあるのだが、これを“石井隆の読み手の物語”と捉え直せばどうだろう。誰の迷惑にもならぬようにひどく周囲を気遣いながら、地味な冒険を夢想していく。生きていることのささやかな実感を得たくて、じりじりとした想いが硬い表情の奥に育っていく。そんな起伏のない、カタルシスがなかなか打ち寄せない日常の様子が、かえって鮮度を増して照り返るようだった。曖昧模糊としていたおんなの輪郭はたちまち鋭さを加え、瞳の奥の深度や陰影を増していき、体臭は立ち上がり、生き物らしい芳醇さは倍加するように感じられた。(*3)
現代を生き抜く女性たちが石井隆の創り出す劇画なり映画の文脈を丹念に咀嚼しつづけ、己の血肉に変えていくことが秘かな、そして確かな広がりを見せていることは実感として抱くところであるのだが、“石井世界を愛でる女性”のこころと身体の変幻が描かれていく“フィクション”というのは、思えばこの『自縄自縛の私』という物語が初めてであって、これは相当に画期的で興味深い事だ。石井隆に影響された物語は数多くありそうだが、石井隆に影響された人間の話、というのは、新しい創造の領域ではあるまいか。
(*1):『R-18文学賞 vol.1 自縄自縛の私』監督竹中直人 2013
(*2):「名美Returns(リターンズ)」 ワイズ出版 1993
(*3):同じく権藤による石井の名作【水銀灯】(1976)の解説には、「名美にとっては、毎日が“時代閉塞の現状”なのだ。彼女が解放感を獲得することはほとんど絶望的だとみてさしつかえない。(中略)作者は、名美というひとりの人間を通して、“絶対孤独”の内側に迫りたいのだと思う」とあるのだが、文面にある“名美”を“百合亜”と換えればそのまま『自縄自縛の私』の読解として起動しそうである。
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