『花と蛇』(2004)という作品について、これまでどの評論家も丹念に読み解こうとはしなかった。興行的には大成功を収め、週刊誌のグラビアは主演女優の姿態で覆い尽くされていたから、その意味で実に幸せな作品と言えるのだろうが、大衆娯楽の域を越えて石井隆というひとりの創造者の作品としてどのように位置づけるべきなのか、真っ向から観賞して思考を重ね、言葉をひり出して新たな見解を誌面に綴り、観客や読者に伝えようとする猛者はいなかった。要するに誰もが戸惑い、語る事を恐れた。私たち石井隆の世界を愛する者にとってここまで識者たちが沈黙を通した事は何とも淋しいことであって、今も欠落感に苛まれるところがある。
物語は時系列的に進まぬ箇所もあり、舞台構造は乱れに乱れる。主人公のおんなを責め苛むそれぞれの状況は一見脈絡なく点描風に配置され、明け方に見る悪夢の印象を観客に与える。ひどく抽象的と捉える人も出てくる始末で、石井隆の映画を愛すると公言する人であっても当作品の題名が口から発せられることは絶無に近い。
判官贔屓という訳ではなく、この『花と蛇』に惹かれて止まないところが以前から私にはあって、それが何から発せられているかを折に触れて考えてきた。感覚的な表現になってしまうが、筆跡が粗く残っているような力強さがある。透明感で定評のある水彩画の巨匠が画材を油絵具に替え、さらに筆をこれまでの数倍の太さに換えて大きな画布に挑んだ雰囲気がある。絵画ではなく工芸に例えるなら、塗装をしていて厚く盛られて脈打つ部分をあえてそのままにしている、そんな荒々しくも人間的な趣きが宿っていると受け止める。普通なら紙の鑢(やすり)で削り、さらに粗目と極細二種の研磨材で表面をてらてらと輝くまで磨いていくところを急に放置し、血管のように盛り上がったまま固まった塗料の筋を睨め付けながら、これで良いんだ、この方が良いんだ、単純に磨けば良いと思う奴には勝手に思わせてやれば良いんだ、と決然として作業を中断する職人の気配がある。
一点突破で解読する事が出来ない多層性、多角性が石井の作品にはあるから、自然とあっちこっちの方向から間欠的に考える日々を送ることになるのだけれど、先述した“小水”という小道具から『花と蛇』を改めて直視したらどうなるものだろう。劇中拉致されたおんな(杉本彩)は大量の利尿剤を無理矢理に呑まされ、堪え切れずに衆人環視の中で小水を迸らせる羽目に遭うのだが、あれに何かしら託されたものは無かったのだろうか。
我が国に限らず被虐嗜好を扱う物語において小水の放出を見る、見られるというのは一般的であるから、『花と蛇』にその場面があっても特段の不思議はない。直々の指名でもあるからと容貌麗しいタレントを差し出され、当人も承知の上だ、存分に腕を揮うが良いと言われた料理人石井隆が、フルコースの一環としてそんな失禁場面を組み込んだとして可笑しな点は全然ないのだし、実際公開当時の各誌のインタビュウで石井は次のように発言もしている。
「この映画で表現したかったのは、凄いとか怖いとかいったように、五官を直接的に刺激することで、たとえ文法から外れていても、それを気付かせないで見終えるくらいのアメージングな世界。」(*1)「観る人の心を騒がせる、何かちょっとファナティックな方向に持っていくような装置をいっぱい作ったんです。」(*2)「徹底して観る人の映画的なものに訴える映画、そこを僕はずっとやってきたわけですから。役者たちの肉体、皮膚感覚、息づかい、汗──そういった実体そのものが語る力を信じたい」(*3)
小水の漏れ出る様子を接写して汗や血の流れるのと同様の、人間という存在の本源部分に訴えることを石井は狙っている訳だから、その描写のあくどさは一向に『花と蛇』という映画からも石井隆の思惑からも乖離するものではない。私たちは茫然として言葉を失い、雷光に慌てるように、哀しく雨に打たれるように、豪風に揺すられ大いにたじろぐように、夏の陽射しにじりじり焼かれ喘ぐようにして、為すすべなく慄(おのの)きながらおんなの肉体から噴射される液体を目撃すればそれで良いのだろう。
『花と蛇』とはそういう映画で、石井隆とはそういう場面を撮る監督で、ああ吃驚した、おしっこがしゃあしゃあ出てたね、なんて猥褻でなんて美しいのだろうね、さあ、満足したぞ、明日から気分を変えて頑張ろう、といま観た光景を忘れに掛かってもそれはそれで良いのだろう。しかし順を追って石井がどれほど執深く小水という事象を突き詰めて捉え、自身の作品にどのように組み入れて来たかを振り返ってしまえば、そう単純に振り切ることは出来ないのではないか。
【初めての夜】(1976)のような生理的嫌悪がともなわないのは嗜虐性向を持つ者たちが密かに集う宴(うたげ)の話であるから当然にしても、【今宵あなたと】(1983)や【果てるまで】(1979)、『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)で見られた死に際ぎりぎりで生ずる自己承認欲求や愛する相手との切実なまでの融合願望がすっかり形として抜け落ちている点を私たちは記憶に刻む必要があるだろう。
寄ってたかって男たちに小突き回され、薬を飲まされて排出された小水であるのだが、それを指示した男(石橋蓮司)の存在をおんなは一切感じ取れない。うがった見方をすれば、男は魂の連結器たる小水を薬の作用で招き寄せたのであるから、相応の熱情が込められた図式であるはずなのだけど、【今宵あなたと】や【果てるまで】、『天使のはらわた 赤い眩暈』、そこに【初めての夜】や『死んでもいい』(1992)を加えても良いが、相手の存在が確実にあって為されたこれまでの劇とはまるで構図が違っている。両者の距離がずいぶんと有り、互いを見守ることが出来ない。無理強いされて出されたそれをおんなは自己の分身と捉える気持ちのゆとりもないから、嗜虐雑誌の口絵(1973)にあった内観の時間も与えられない。相手もいなければ自分もいない。『花と蛇』とは、無い無い尽くしの映画である。これは意図されてそういう形になっている。
多くの石井世界の愛好者は『花と蛇』を語るとき、「名美と村木」の不在を嘆きがちだが、石井隆がときに「不在」さえ表現する作家である点を忘れてはならない。不在をあえて強調し、真空の空隙に薄っすらと輪郭を作るという怖ろしい表現を石井は時にする。台風の渦の中心にある目のような具合に「不在」を描く。混沌とした肉色の坩堝の中心域に「名美と村木」の抱き合うシルエットが“空虚”という手段で置かれている。そこを見抜けるかどうかで、『花と蛇』の色調はすっかり反転するように思われる。
(*1):「映画であることの必然性に改めて立ち返ってみたかった」 インタビュアー 北川れい子 「キネマ旬報 2004年3月下旬号」 91頁
(*2):「彼女が何をぼくに賭けているんだろうと思ったときに、躊躇しちゃいけないと思ったんです。」 テキスト 渋谷陽一 「Cut 2004年4月号 №162」 140頁
(*3):「杉本彩の肉体の圧倒的な力を表現したかった」 文・構成 松井修 「映画秘宝 2004年4月号」 83頁
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