森を縫って延びる峠道を走っていると素朴な手書きの看板が目に止まる。道往くひとに近在の滝を知らせ、立ち寄ることを勧めている。天候に恵まれ、時間に余裕があるときには休息がてら車を停めて観光する。案内に従い道を下っていくと、こっちは普通の平底靴だったりするのに予想外に傾斜がきつく、水気含んで滑(ぬめ)る足元に至極焦ったりもするのだが、ようやっと見(まみ)えてみれば、やはり来て正解としか思わない。ざあざあ途切れることない水の音が脳内を充たし、ただただその麗麗とした姿に見惚れてたたずむ。
海外のひとはどう思うか分からないが、私たちは滝の周辺が霊的世界と直結しているとごくごく自然に解釈する。来る途中や滝つぼからちょっと離れた場処に古い祠(ほこら)が祀られ、木の幹には御幣(ごへい)が供えられているのを認めるのが常である。滝の近くでこの世ならぬ妖魔と遭遇したという噂を耳にしても、さもありなんと肯首する人が大概ではあるまいか。今こうして見上げる滝は清廉な天女のような面立ちであるけれど、陽が落ちてから万一此処に降り立ったら、とんでもない恐怖と出遭う率は高いに違いない。想像し始めればもう無理だ、くわばらくわばら、逃げるが勝ちと身震いしながら駐車場へと引き帰す。
古来より我が国において水と霊性は親密な距離を保っているのだが、石井隆の劇に出現する小水はどうだろう、そういった性格が宿されていないか。いや、何もぴちゃぴちゃと肌や浴室のタイル床を叩く劇中の小水が河童やローレライといった水妖(みずあやかし)の変貌した姿と言うつもりはない。猥談でありがちな一元的な、卑小で汚れた老廃物という次元では到底語り切れない、相当に精神世界寄りの存在ではないのか。つまり“魂に寄り添うもの”として登用されて在るのではないか、そう捉えたがる自分がいる。
石井の初期の映画『死んでもいい』(1992)をここで例に上げようと思う。首都圏からやや離れた田舎町を舞台にした恋情劇であったけれど、町の駅を岐点として鉄路が“人の字”になっていてそこから物語は始まっていた。人と人が出逢ってしまう事でどうしようもなく派生してしまう愛憎、人間の抱える運命の一度流れ始めたら遡上を許されない怖さと尊さを描く上で、その人型の鉄路は格好の形であった。
改めて駅周辺を衛星画像で眺めてみれば、双方の鉄路に沿って川筋が認められ、人の字になっているのは川も同様と分かる。狭隘な谷に必死にしがみついて生き、そして、死んでいく、まさに水辺の町なのだ。それが劇の様相に若干作用している。不動産業を営む室田日出男の夫が、大竹しのぶが演じる妻の不貞を知って激昂し、助手席に無理矢理押し込んで自家用車を猛然と駆って辿り着いたのは闇に閉ざされた川原であった。三途の川辺のような緊迫した面持ちが挿入されており、観客の心拍をひどく乱した。
元々が石井隆の劇と水の描写は連結しており、これを読む人の多くは別に驚きを感じないだろう。でも、よくよく考えてみればこの『死んでもいい』は水と関わる場面が実に多くあって、演出のこだわりのどれだけ強く働いていたか、私のような一介の観客でも容易に読み取れる仕上がりとなっている。冒頭、駅の出口で男女が出逢って直ぐに土砂降りの雨となること。初めて身体を合わせる貸し物件の住宅には雨が狂ったように降り注ぎ、窓から風に乗って屋内に翔け入って床板を濡らしていくこと。旅館の大浴場での深夜の密会があり、東京の木場あたりに舞台の半径を広げても、葉脈状に広がる運河とそれを臨む船着き宿に登場人物の足は自ずと向いていく。
上の川原での涙まみれの和解や、殺害未遂に終わった真夜中の自宅に激しい雷鳴が轟いて雨雲の急襲を示唆するのだったし、驟雨に煙った新宿の高層ホテルへと最終コーナーを回って行けば、最後はスイートルームの浴室のシャワーが泣き喚くようにして水をぞうぞうと吐き、三人の主要人物は揃って濡れ鼠になっていく。筋に綺麗に溶け込んでいるためにあまり意識をさせないのだが、続続と水は劇中に打ち寄せるのであって相当に強固なイメージの反復が為されている。
この水の描写の一環に小水に関わる場面を付け加えても、私の目にはそれほど奇異に映らない。すなわち駅でたまたま出逢ったおんなの横顔に惹かれた若い男、永瀬正敏(ながせまさとし)がおんなの背中を追っていき、たどり着いた夫婦経営の不動産屋に捨て犬さながら拾われ、見習い営業マンとして即座に雇われるのだったが、店舗奥にある便所が間もなく唐突に挿入されていた。万事に渡って分別の育っていない若者は、人妻が用を足した直後の扉を潜(くぐ)ってしまう。和式の白い陶器にまだ水は止まっておらず、じゃあじゃあと激しく流れている。男は無表情のまま黙って見下ろしているのだけど、観客の多くは隠微なものをさっそく嗅ぎ付け、不穏な劇の展開を予感する。誰もがそう思うようにあれは小水を間接的に描いていたのだし、『死んでもいい』の劇中に明滅する“川”や“温泉風呂”、“シャワー”そして“雨”と同列の水の一環として採用された、と捉えるのが扱いとして順当だろう。(*1)
私たちは石井隆の劇中の「雨」について、単なる自然現象とは見なさず、登場人物の魂を誘導したり、時に彼らの精神状況を如実に顕現してみせた人間の化身と捉えている訳だけど、逆の視点で眺め返せば、川も風呂もシャワーも、そして小水も雨と同等の位置にあると理解して良い。石井隆は先述の通り、小水について一般的な生理的不快感の生ずることを一方で認めながら、いざ彼の画布に描き加えるに当たってはこれを雨に準ずる方向で研磨し、彼なりの装飾として神殿の伽藍の一部に組み込んでいる。
中国文化史家で作家の中野美代子(なかのみよこ)は、キリスト教での聖体拝受を視界の隅に置いた上で、過去私たちの住まう亜細亜において人肉食への熱視線と執拗なまでの実行が重ねられた背景を探索して一冊の名著に編んでみせたが、そこに収まった1972年発表の評論の中で次のように断じている。「われわれの肉体をかたちづくる最も鮮明な実体である肉と血は、誰が何と言おうとも、最も精神的な物質としてわれわれの歴史に参与する」(*2)
中野の力強い声に連ねるようにして、私たち石井隆の読み手は再認識して良いように感じるのだ。つまり、「物語をかたちづくる最も鮮明な実体である肉と血に加え、石井隆は小水までも動員して人間を真っ向から描こうと努めている。血も肉も、そして小水も、誰が何と言おうとも、精神的な物質として私たちの実相に参与するからである。」
「性愛劇」ではなく「人間の劇」を手探りする石井隆は、等身大の我々こそを描き尽くそうとしている。そのとき小水は単なる排泄物の域を超えていき、能弁さを増していく。石井隆の劇中で物象の本質や価値はひそかに入れ替わるのである。
(*1):確かに男は小水を直(じか)に目撃はしていない。既におんなのそれは暗い下水へと押し流された後であって、画角を占めるのはゴム栓が開いてタンクから落ちくだる塩素まみれの水道水だ。だから男があの時ありありと幻視したのは小水ではなく、もしかしたら屈みこんだおんなの背中であり、その臀部であったかもしれない。それとも視角ではなく嗅覚を甚(いた)く刺激されてたじろぎ、一種の金縛り状態になったのだと無言で訴えている可能性だってあろう。かつて石井は【白い反撥】(1977)で似たような状況を描いていた。【白い反撥】の便所に残留するのは、少年が秘かに慕うおんなの幽かな体温と存在感のある重い体臭であった。うっとりと包まれていく幼顔の少年の、若々しくも微笑ましい年上のおんなへの憧憬が手際よく切り取られていた。脇下や臀部から発せられて体毛や下着をしっとり湿らせていく香りを、世間はともすればひどく目の仇にするのだけれど、恋する相手にまつらう物象に鼻を寄せたり顔を埋めて存分に五感を味わう行為は決してはしたない事ではなく、健全で愛らしい反応と言えるだろう。人間は身体の数箇所に大汗腺を抱えていて、濃厚なサインをガス化させて周囲に振り巻く動物である。先祖から受け継ぐこの特徴から言っても、視角と共に嗅覚を存分に愉しむように私たちは作られている。誌面にも銀幕にもおよそ醸(かも)しにくい匂いや薫りといったあえかな存在を、石井隆という作家は果敢に劇中に取り込もうとするのだが、それは石井隆の人品が卑しいのではなく、石井が等身大の人間の本質をよく知っており、それを正直に写し取っているに過ぎないのだし、人間ドラマの核心を描くに当たってそれ等生物としての特質をつまらないフィルターで漉して排除しない、逃げない、外さない、描き切った上で世間の揶揄を恐れないという事だろう。だから【白い反撥】と同様に、『死んでもいい』がおんなの体臭に若い男が犯(や)られた瞬間を組み込んでいると捉えても自然であるのだが、それ以上に小水(に準じたもの)を目撃したその事実こそが強烈な恋慕を煽っているのだ、と、そのように解釈しても可笑しくはないように思うのだ。あのタイミングであの水流というのは“不自然”で作為的であり、どうしても視角に訴えたいが為に無理やり創り込まれた時間と見るのが着地点として妥当と考える。
(*2):「中国人における血の観念」 中野美代子 「カニバリズム論」ちくま学芸文庫 2017 所収 106頁
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