日頃意識し得ないものに対して、私たちは言葉を多く育てない。執着なり困惑を経て、縦糸と横糸が交差するように思案が連なる局面に至り、そこでようやく言葉が群れを成して揺らめき現われる。他のひとは知らないが、私は小水について意識して来なかったから、自然これに関する言葉を蓄えられなかった。どこまで、どのように小水を捉えるべきか皆目分からない。そんな訳だから石井隆が劇中に描く小水について、これを単刀直入にあれこれ綴ることが上手くいかないでいる。
老廃物を体内から追い出すという日常生活に付随した現象である以上、極めて馴染み深い存在に成ってはいる。「ほとばしる」「いばり散らす」といった言葉の語源も一説には小水と関わるらしい。今日だって三度厠(かわや)に足を運んでいる。そろそろ下腹部がこそばゆい感じとなり明らかに尿意を覚えているから、間もなく椅子から立ち上がり、小走りに部屋を横切って扉を開けて、ビニール製のスリッパを急いで突っ掛け、しばしの時間白い陶器に向かって今日四度目となる放尿を味わうことだろう。そのとき小水はドリルビット(刃)のようにねじれ運動を起こしながら空中を飛翔し、直ぐに壁に当たってむなしく垂直方向へと落下して視界から未来永劫失われるのだ。暗渠を潜って浄水場に辿り付き、活性汚泥槽でごぼごぼと処理された上で河にざぶざぶと捨てられ、遠くへと旅立っていく。意気地のない私を置き去りにして、果敢に海原へとひた走る。
健康診断を受けに医療センターまで足を延ばせば、同じ時間帯に列を作る男たちがそれぞれ紙コップに採取した面立ちの違うものを眺める瞬間もある。蜂蜜色の明るいものもあれば、蜜柑の皮みたいにやや落ち着いた色調もある。時にはブラッドオレンジの果肉を絞ったかの如き強面のものがあり、提供者の体調を陰ながら慮ったりもする。半月ほど経って封書形式で渡される検査結果にはプラスやらマイナスやらの記号が並び、小水が私たちの健康状況を透かし見る上で重要な立場にあることも理解している。
出張の折に腎炎を患い、ユニットバスの薄暗い灯かりの下で対面する妙に濁った小水におののきもした。大量の汗を吸ってぐっしょり濡れた寝具に戻ってくるまったときの心細さといったらなかったが、小水という奴は体調次第で千変万化し、それを見る私たちの顔色まで変えてしまう。そんな健康面においての連環については、たぶん誰でも容易に言葉をひり出すことは可能だろう。
しかし、情緒や恋情に関わる小道具として、そしてまた、どうやら「雨」や「血」と同程度の魂の化身として石井の劇に登用されているらしい小水について、踏み込んだ言葉でこれを玩味し、作家性に結び付ける考究はなかなか進まない。悪戯に書物をめくり、小水をめぐる表現をあれこれ探して補填するべく足掻いているが、どう捉えて良いか難しいところがある。
たとえば石井がかつて描いた絵(*1)に小水を主題にしたものがあり、休日の起き抜けに静かに対峙しながら答えを待ってみたりもするのだけれど、そうそう直ぐには返って来ない。穴の開くほど見返したりもする日々なのだが、見れば見るほど奥深く妖しく感じられる。多角的、多層的な作風を持ちながら、けれど全てが通底して見える石井世界の大伽藍のなかで小水とは一体全体なにか、どんな想いが込められているのか。
この絵は二枚連作の形式を取っている。一枚目の構図は反射する床面を下半分に大きく配置しており、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ Michelangelo Merisi da Caravaggioの「ナルキッソス Narcissus Narciso(伊)」を参考にして描かれたと想像される。ギリシャ神話を題材とするカラヴァッジョの絵の中の美少年は、水面を鏡と成し、自身の顔立ちをしきりに確認していたのだけれど、石井の絵の方は光沢あるタイル石か鏡面仕様の平板にしゃがみこんだ黒いスリップ姿のおんなが描かれている。
床方向にうつむくおんなの横顔は堅く、その瞳が注視する先は判然としない。長い睫毛に半ば隠れるようであり、いや、そもそも虚空を睨んで焦点を結んでいないようにも見える。頁構成から、そして、おんなの姿態の変化からも時系列的に次に展開された連作の風景を並べ置けば、彼女の関心は自身の整った容貌ではなく、もっぱら自分が排泄した小水の透明度や粘性、色調といったものに深く魅せられているのがようやく分かってくる。
闇のなかでぼうっと反射する床面にむけて放尿をしているのだけど、これを小型の丸い観賞用ガラス鉢に受け止めようとおんなは腐心しており、その鉢の中には水中花が六つほど揺らめいている。「ナルキッソス」に触発されたと想像される絵であるから、ここに描かれてあるのは自己愛である。実際この絵に異性の影は一切見当たらない。作品世界の画布の外側に蠢く男たちを気遣うこともなく、私たち読者も完全に捨て置いておんなは自分の世界に没入している。
しかしながら、ここが特異で驚かされるのだけど、おんなは反射面に映し出された半裸の己の肢体には左程見惚れている様子はなく、黄金色の体液で満たされたガラスの小鉢に目を寄せて息を吐き、そこにたゆたふ花とそれを包むものにこそ恍惚となっていくのである。小水を果てなく凝視め続けて一切飽くことなく、ひたすら観察に邁進している。一種の自己愛に他ならないけれど、容姿ではなく体液について懸命に手探っている。外面を装うのではなく、徹底した内観へと歩んでいるところが凄絶でこの絵に独自の迫力を生んでいる。
ベビー服さながらの健診着姿で、手を汚さぬように集中して採った紙コップの液体を見下ろし、その泡(あぶく)が徐々に消えていく様子を見やりながら検査数値ばかりを気にする我ら庶民の思考とは明らかに違う、崇高で真剣な自己探査がここでは描かれているように思う。尿道口からほとばしり出た一瞬後には自分と無関係のものと捉えがちなのだけど、石井隆という作家はそこで踏みとどまって考えるのだ。人間とは何か、体液とは何か、なぜ流れるのか、流れ出たものに何を感じるのか。それが石井隆なのだろう。
それは人の一部なのか、それとも、もはや全くの他者であり、捨てられ、踏みつけられ、デッキブラシで洗い落とされるだけの汚穢(おわい)なのか。まなざしや指先の動き、髪の流れ、ぴくりと動いたり、じんわりと寝具に倒れていく、そんな動作のひとつひとつに私たちは魂の内部に潜む渇望や不安を読み取り、時に涙や血がこれに加勢することもあるのだが、それでは小水は最初から戦力外通知を受けた無用の物であるのか。ベンチ入りすら許されない無意味な存在なのか。
石井隆は全方位に思考を展開し、天候や衣服、装飾具までも人格化する作家であるから、その射程に小水が含まれるのは至極当然のことと思われる。涙と血と同等の表現手段として、ほかの体液、汗や精液も総力戦として大胆に扱われていく。小水とて例外ではないのだ。
(*1):「SMキング」 昭和48年11月号 鬼プロダクション出版部 所載
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