2019年12月31日火曜日

“十字架を引き抜く”『花と蛇』~生死に触れる言葉(6)~


 独自の美学をつらぬく「現役作家」たる石井隆を、今この段階で語るのは不遜であるし土台無理なことだ。読者には誤解する権利があると書いたのは確か権藤晋だったけれど、翻ってその言葉は読者という立場は大概が誤解する、勘違いする役回りなのだと諭している。

 称賛や解題は各人の体腔にうずくまるばかりで、いつまで経っても肝心な石井隆の今には到達し得ない。批評する側それぞれが石井の劇を反射する鏡となっていて、経年による曇り具合で丸きり違った像を結んでいき、いつだって我らの目にはその歪んだ背中しか映らない。その好例こそが此の場処だ。責任を負わないのを好いことに延々と綴りまくる駄文の堆積は、一個人の鏡面に張り付いたまさに虚像に過ぎない。石井隆に興味引かれて訪れ、読もうとする誰にとっても役に立たないそのような警句と開き直りを刻んだ上で、石井の『花と蛇』(2004) についての強引な妄想をなお勝手気儘に続けよう。

     昂揚した老人は何を思ったか、震える脚で立ちながら
     老人とは思えない力で床から十字架を引き抜き、
     十字架を抱えてゴルゴダの丘を上るキリストのように
     十字架を背負って、
     床に寝かせる。(中略)
  老人「ああ……」
     と、両手両足を括ったロープを必死に解く。
     解放された静子がいとおしむ様に田代老人の股間に顔を埋め、
     体を愛撫する。(*1)

 当初石井が抱いた脚本内のヴィジュアルは上記のごとくであった。完成された映画での老人(石橋蓮司)は半身の自由が利かぬ身体を必死にくねらせて床を這い進むだけが精一杯であって、重い十字架を引き抜く行為など到底出来なかったのだが、石井が希図としていた『花と蛇』という物語が本来懐胎していたのは、明らかに「救出劇」であったことが此処に明瞭に示されている。表層では嗜虐趣味のパーティを装いながら、切実で哀感溢れる思念の漂着が窺える訳である。

 確かに物語は徹底した乱痴気騒ぎだし、その暴虐に耐え切れずに押し潰される一個の人間の魂を描いている。狂人の支離滅裂な幻影そのままの滅茶な展開なのだけど、少しだけ呼吸を整え、『花と蛇』を独立した物語としてひも解くのではなく、一人の作家の、より分かりやすく言い換えるならば「一人の画家の連作の一端」と捉え直すことで違ったものが見えてくるように思う。もの恐ろしい筆致を見定めることが可能となり、受け手を戦慄せしめる囁きがようやくにして聞こえてくる。

 承知の通り、石井隆という作家は私たち現代の孤立する魂に併走しつつ、極めて狭い同心円の劇を丁寧に編んでは解(ほぐ)し、再度編んでは解しながら一反の織物へと仕上げてきた。どちらが縦糸か横糸か分からぬが、一方を名美と名付け、他方を村木と名乗らせることもあったが、そんな固有名詞に縛られるまでもなく、一個の男と一個の女の作り出す、時に濃密な、時に透かしの多く入って儚い風情の布地を産み出し、その上に変幻する文様をさまざまに編んできた。

 文様の柄は常に細かく精密であり、稀に図柄は反復され、はたまた色彩を反転させたりもしながら私たちの目を愉しませたのである。国家や政治、学閥、組織といった巨視的な物語を(やろうと思えばやれたろうに)上手に避けていき、家族の描写(厳密に言えば少々はみ出して手を染める場面もしばしばあったが、)さえ原則控えて、常に目線を「個」と「個」の対局へと絞りこんだ。その本質は、やはり「救出劇」であり、この世に救いはあるのか、人は誰でも救われるのか、取りこぼされる魂はないのか、その後の死とは何であるか、ひるがえって人の生とは何であるか、その辺りに辿りつくように思われる。

 『花と蛇』で石井隆はひとつの境地に至っている。これまで主人公のおんななり男を苦しめるものは「他者」であり、「環境」であり、それ等がもたらした漆黒の過去であった。光明を手探るうちに支援する手が現れ、救出すべく模索が重ねられた。(成功する場合もあれば、失敗に終わることもあった。いや、ほとんどが失敗した。)ところが、『花と蛇』においては、おんな(杉本彩)を苦境のどん底に陥れる者と「十字架を引き抜き」再生と救出を図ろうとする者がなんと同一人物に設定されている。

 不幸の元凶となる者が恋着する相手を奈落へと突き落とし、そこからの救出を臆面もなく膳立てる。個を不幸の境地へと追い落とすのは最も近接したもう一つの個であり、個と個の接近の末路は精神の圧壊と内実のともなわぬことが見え見えの場あたり的な救出劇だと断じたのだった。

 振り返れば腑に落ちるところもある。同じ血筋であっても、ひとつ家に暮らす者同士であっても、互いが「個」である限りにおいて隣接する存在を不幸へとやがて叩き落とす未来を予感して怯えながら暮らしてはいないか。逆上にまかせて完膚なきまで袋叩きにし、その癖に突如手を伸ばしてその場をえへらえへらと取り繕う。それとも内実を遂に語らず、なにも尋ねず、受容と冷淡を履き違えたままで言葉少なに日常へと帰還する。

 どうしようもないマッチポンプを互い違いに演じながら、寄り添う個と個が衝突と修復の模索をし続ける。解放されるにはどちらかの生が尽きるか、壊滅的な終幕に至るのを待つしかなく、意気地がないから自死も突き詰めた衝突も何も出来ない我らは、遣る瀬無い年を越え、さらなる遣る瀬無き日々へと牛馬のごとくのろのろと歩んでいく。そんな実感を抱えるのはこの私だけだろうか。

 『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)、『ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う』(2010)と、そこに我々は名美や村木といった存在の残照を見出すのだが、石井は『花と蛇』において村木に代表される「救い手」という存在にまったく絶望し、その地位を剥奪してしまったように私は見る。あんなにも夢うつつの空間に仕上げていながら、『花と蛇』の本質は恋情や浪漫の徹底的な拒絶なのである。隔絶された夢幻空間を延延と映しながら、その実、石井は極めて冷徹で現実に即した人間関係の末路を描いている。

 『花と蛇』とはそこまで無惨な手厳しい諦観の劇なのであって、女優の姿態がどうとか嗜虐遊戯がどうといった表層の道化に笑っておられぬ、極めて重大な生死(しょうじ)に関わる分水嶺となっている。

 (*1):『花と蛇』準備稿 シーンナンバー84 円形コロシアム(数日後)

“磔刑図”『花と蛇』~生死に触れる言葉(5)~


 石井隆の映画『花と蛇』(2004)に接する態度はどうあるのが望ましいか、今もって判断に迷う時がある。あれ程世間を騒然とさせ、まとまった観客動員を誇った割に積極的に感想を綴る人が少ないのはたぶん似たような迷いを抱いている結果だろう。声に出されぬ限り、他人のこころを完璧に推し量る術はない。ゆるやかに互いの距離を置くより仕方ないけれど、さて、振り返ってこの私は『花と蛇』につき何をどう書き遺すべきだろう。

 作り手の思念の海に潜って深淵までゆるやかに降下し、静謐な砂地に着底するのが受け手にとっての醍醐味という気がするのだが、『花と蛇』を愛でる時間というのは脳内の使用領域が最初からどうも違っていて、うまく単語が浮上しないというか、あれこれ喋るのが野暮な気分にさえなる。沈黙こそが最良の賛辞といった趣きがある。

 美術館の回廊で絵画と対峙する時間、大概において私たちは言葉を持たない。「ああ…」とか「ううっ」とか「きゃあ」くらいは口にするかもしれないが、色彩や構図を入念に見定め、その場で解説風に単語をひり出すことは普通しない。音楽も同じ次元だろう。自発的に演奏会まで足を運んで曲の調べと奏者の妙技を愉しむとき、我らの脳味噌は文章を綾織ることをさっさと放棄し、音曲のしずくが耳郭にねっとりと沁み込むに任せる。観賞の場においては誰にとっても感覚こそが優先され、失語症に陥るのが常である。石井の『花と蛇』という映画を仰ぎ見たとき、あんな風にして一切考えずに真向かい、女優のめりはりある素肌にひたすら見惚れていれば良いのであって、そこで屁理屈を並べても詮ない気持ちが強く湧いてくる。

 近頃の脳科学研究を紹介する記事をつらつら眺めれば、私たちの頭は性愛の描写を前にすると直ぐに活動が減じることも分かっている。(*1) 銀幕に狂い咲いた情欲の花弁に陶然とし、男女交合図に口をふわっと開けて思考を全停止させ、ただただ無我の境地に成り果てればそれで良いのだ。

 『花と蛇』の公開前後には雑誌がこぞって取り上げ、毎週どこかの誌面がきつく縛り上げられたおんなの裸身に頁を譲り、世間を激しく煽りまくった。大半は女優の肌や姿態を見世物的に取り上げたグラビア頁が主だったが、映画という媒体が具える異界感や突破感を極限まで増幅し、劇場での観賞希望者を次々に増殖させた。宣伝の目的には十二分に適い、興行を成功へと導いていったが、銀幕に照射さえる光に集まった私たちは水銀灯に突進する甲虫さながらで、思考を失っているところが少なからず有ったように思う。風に玩ばれる川原の葦のように抵抗することなくやんわりと弛緩し尽して、前後左右に意味もなく揺れていれば実はそれが最も洗練された客の相貌なのだ、そう割り切って、銀幕にぽつねんと映される裸のおんなを幾重にも取り囲んでいった。石井隆の『花と蛇』とはそういう麻痺機能を持つ一面があった。

 されど、と、天邪鬼たるもう一人の私がやはり強引に割り込んでくる。石井の多層な世界は一辺倒な解釈を許さない。分かったと思った瞬間に大切な何かを取り逃がす。画布の裏にまるで違う絵を描くのが石井という画家のとんでもない特長だから、早々に思案を止めて無下に取り扱うことはとても危険だ。

 そろそろ本題に入れば、映画『花と蛇』には脚本を読む事でようやっと見えてくる景色がある。手前勝手な焦燥に背中を押されるまま、ここから先は記してみたい。公開当時から今に至るまで専門誌に掲載されることがなかった当該脚本であるから、これを読んで石井隆版『花と蛇』と直結させ得た観客はごく少数であって、当時の制作関係者や一握りの評論家、それに粘着度の高い私のような好事家だけである。

 野暮天と笑われるのを覚悟で書くのだけれど、石井隆の『花と蛇』は絵画に捕り込まれた一個の魂の顛末を描いていて、構造的な段差は少しあるにしても、サルバドール・ダリを招聘して彼の絵画世界に捕り込まれるヒッチコックの『白い恐怖』(1945)( *2)であるとか、ゴッホの絵の中をさ迷う黒澤明『夢』(1990)(*3)の「鴉」であるとか、最近ではドラクロワの「ダンテの小舟」を再現したラース・フォン・トリアーの『ハウス・ジャック・ビルト』(2018)(*4)といった作品を側において語っても良いはずなのだ。

 物語の冒頭近くのト書きに以下のように書かれてある。石井は結果的にこの場面をすっかり廃棄してしまったので完成された映画には登場しないのだが、その後、中盤以降で闇組織にさらわれたおんなが責め苛まれる幾多の場面の雛形としての明確なビジュアルが示されている。

     『女王と二人の女戦士』と題されたその画は、良く知られた
     アントネロ・ダ・メッシーナという画家の、『二人の盗賊に挟まれた
     キリストとマリアとヨセフ』と題された磔刑図を模して描かれていて
    (中略)左の女戦士は全裸に近い姿で後手に括られたような姿勢で脚を
     広げられ、右の女戦士は弓反りに吊るされていて、三人の顔は恍惚に
     のけぞっている様だ。(*5)

 廃棄されたカットであるから、私たちは『女王と二人の女戦士』という絵を目にする機会は無いのだけれど、元絵となったAntonello da Messina (1430–79)の磔刑図Crocifissione を傍らに置いて夢想することは許される。

 劇中で石井は、女優の肉体を執拗に十字架に縛り付けている。縛る部位を替え、姿勢を微妙に変えて何度もその絵面を変転させている。その異様とも感じ取れる執拗さに観客は戸惑いつつ、嗜虐趣味の枠組みとして、つまり劇中でおんなを拉致し、ひたすら加虐行為を連鎖させて飽くことのない闇世界住人の人間離れした無限の肉欲の為せる結果として納得するのだが、実はメッシーナの磔刑図に見られる中央および左右の罪人三様の忠実な再現を試みた痕跡なのだと解されていく訳である。

 水平方向に伸びた両腕、柱に沿って伸ばされた細い脚を持った中央の聖人像は、異教徒である私にも目に馴染みであるのだが、共に処せられた左右の盗賊の姿は痛ましくも胸に迫り来る。ここには激しい苦痛と生命のあがきが注入されていて、鑑賞者の眼を深々と射抜いていく。石井が再現に尽力し、その上で何がしかの境地へ到達しようと心を砕いたのは中央の聖像ではなく左右の「後手に括られたような姿勢」と「弓反りに吊るされ」た人体であるところが特異であり、見逃せない点と思う。

 論文の執筆において、その著者は一切批評を許されず証明できないような感情論や主観的な内容は含んではいけないというルールがあるらしいから、この文章は完全に説得を書いた素人感想でしかないが、この瀕死の罪人の様子を現実の人体によって徹底再現しようとするところが石井隆という作家のまなざしであり、真髄ではなかろうか。その指摘と玩味は道理を外れていないのではないか。

 左右それぞれの罪人を同じ比重で再現しようと努める辺りに、独自性が垣間見られる。過日読んだ小池寿子の「描かれた身体」(*6) によれば、向かって左側の罪人はデュスマス(またはディスマス)と呼ばれる「良き右盗(うとう)」であり、聖人の存在を信じて天国に招かれた者として伝えられ、私たちからは右側の柱に磔なって見える男は聖人の存在、神の奇蹟を最期まで否定したまさに救いようのない男らしいのだが、小池が解説で使用した1420年代の絵画、ロベール・カンパンRobert Campinの「磔刑の悪しき罪人」の姿は「後手に括られたような姿勢」であり、メッシーナの磔刑図では「良き右盗」と同様の形をとっている。

 左右の罪人に関する伝聞は少なく、様ざまな形態のあったらしい磔刑のどの形を取ったのか、宗教画家たちはそれぞれ自分たちで仮定するより仕方なかった。石井は左右それぞれの形、「後手に括られたような姿勢」「弓反りに吊るされ」た姿を女優に交互に丹念に演じさせながら、善悪の境界をあえて曖昧にしている。見る角度が違えば誰もが善人にもなるし、その逆にもなるという石井の劇を貫く両義性をここでも私たちに示している。罪人である自覚を前提としながらも、善と悪との間にトンネルを穿ち、血流を共有させて「人間」の多層を描こうと奮戦している。

 メッシーナの絵画の背景に広がる陽光とのどかな丘陵は削ぎ取られ、『花と蛇』で磔(はりつけ)なったおんなを漆黒の闇と雷光、無情の雨が包みこむ。天を仰いで喘ぐその目は救済を訴え続けている。そこに肉の戯れや歓びはほとんど見出せない。私たちは『花と蛇』の突飛な景色に声を失い、石井世界とは別個のもの、団鬼六の原作に覆われ尽くした特殊な狂騒劇と捉えがちであるのだが、石井は決して手綱を離すことなく、おのれ自身を唯一のパトロンにして伽藍の建造を続けているのである。

(*1): GIGAZINE「性的な動画を見るとあなたの脳の一部はシャットダウンされてしまう」2012年07月15日 23時00分
(*2):『白い恐怖』Spellbound 監督 アルフレッド・ヒッチコック 1945
(*3):『夢』Dreams 監督 黒澤明 1990
(*4):『ハウス・ジャック・ビルト』 The House That Jack Built 監督 ラース・フォン・トリアー 2018
(*5):『花と蛇』準備稿 シーンナンバー7 遠山がオーナーの画廊(神宮前・午後)
(*6):「描かれた身体」 小池寿子 青土社 2002 







2019年12月8日日曜日

“他生の縁”『月下の蘭』~生死に触れる言葉(4)~


 石井隆の初期監督作品『月下の蘭』(1991)を思いきって縮約すると以下のような筋書きとなる。会計事務所を細々と営む男(根津甚八)が主人公で、その顧客には闇社会の住民もちらほら含まれる。仕事場に顔を出す彼らに対して愚痴を聞いてやったり、節税の相談に乗ってやる地味な毎日だ。どちらかと言えば平穏な日常と言って良いのだろう。男には妻(余貴美子)と娘がいる。ある日いつも通りに客のひとりが来訪し、また、いつも通りに妻と娘もやって来て、のんべんだらりとした刻がこのまま過ぎていくかと思えたのだが、突然そこに暗殺者が現れ、客の男を銃で滅多撃ちにしてしまう。この襲撃で妻と娘が巻き添えとなり、目前で為すすべもなくいのちを奪われる。

 慙愧の念に苛まれながら男は十年の歳月を生き、無頼の真似事じみた自堕落な日々を過ごしている。ある日、蘭という名の娘と知り合いになるが、この娘は売り出し中のアイドルであった。この蘭が闇社会に獲り込まれてしまった事を知った男は煩悶を重ねた末に救出を企て、単身娘が匿された屋敷に飛び込んで行く。

 当時旺盛に制作されていたオリジナルビデオ映画の一本であり、最初から銀幕での観賞という形は取られなかった。VHSテープで頒布され、受け手の多くは家庭に置かれたテレビジョン受像機でこれを観ている。成人向けに作られていないから裸体の乱舞する場面は挿し込まれていないのだけど、狭苦しいモニターにあっても石井の美学が随所にまたたき、忘れえぬ小編となっている。針のような雨が降りしきり、傘を片手にコート姿の余がたたずみ、傷を負った根津を心配げに見下ろす様子など、独特の芳香を放って観る者の酩酊をさそい、今も記憶の淵にありありと住まい続けている。

 ある日の昼下がり、テープを再生して何度目かの鑑賞にひたっていた。石井作品に限らず映画というメディアは孤別に愉しむもの、各人の魂に直結させるべきギフトと捉えているので、普段ならあえて誰もいない時間を狙って視聴するところなのだけど、皮膚露出の少ない一般向け作品ということもあり、ちょっと弛緩するような感じで漫然と観ていた次第である。その折に背後を歩いていた年長の家族が突然に声を掛けてきた。違うよね、と言うのである。何が違うのか、と顔を向けると、今の台詞に出て来た諺(ことわざ)の解釈が間違っている、そんな意味じゃないと言うのである。

 「袖振り合うも他生の縁」という諺をめぐる会話が盛り込まれていて、確かになんだか妙に落ち着かない感じを自分も抱いてはいた。だけど、それは文脈のなかでは瑣末な事柄であり、気に止めるまでも無いと考えた当時の私は、釈然としない面持ちでいつまでも立ち続ける家族を蝿のように追い払った。あれから三十年弱の歳月を経て相応の雑学を身に着けた目で振り返ってみれば、あの時の家族の言い分は至極もっともであるし、むしろその“不自然さ”を石井は強調していた、と分かってくる。

橋川「じゃあな。早くお家に帰るんだよ」
   と、ヘルメットを返して貰おうと手を出すが、
蘭 「こういう時に使う諺(ことわざ)知ってる?」
   と、ヘルメットのまま雑居ビルの階段を上って行く。
蘭 「袖摺り合うも多少の縁。縁があんのよ、私達」
   橋川、呆気に取られて、
橋川「オイ!」
   慌てスタンドを立てて蘭を追う。(*1)

 娘の口から突然に発せられた諺に対し、しばらくして男は以下のように返している。

   グデングデンに酔った橋川が、これまたグデングデンの蘭を
   背負ってタクシーを拾っている。
橋川「袖摺りじゃなくて、袖振り合うも他生の縁って言うんだよ。
   他生ってね、その多少じゃなくて、他人の人生って意味なんだ」
   まるで我が娘(こ)に諭しているようだ。(*2)

 確かに「他人の人生」という解釈はおかしい、聞いたことがない。年長の家族が口をとがらせるのは当然で、実に不自然な台詞と言えるだろう。何よりもこの唐突な諺の応酬自体が奇妙である。人にもよるだろうが、私たちは日常会話のなかにこの手の諺をしきりに発声させることはない。けれど、まあ、それは良しとしよう。映画やドラマの台詞に金言名句が交じることは幾らでもある。

 されど、こんな違和感をもよおす登用はそうそう無いのじゃないか。「多少」と「他生」、共に発声は「たしょう」でありながらぜんぜん意味合いの異なる語句を、小説ならいざ知らず、映像作品で無理矢理に強行していく姿勢もかなりの不自然さを招き寄せる。「たしょうってね、そのたしょうじゃなくて、たしょうって書くのだ」と画面から告げられても、ほとんどの観客は首をひねるだろう。私たちはこれをどう捉えるべきであろうか。石井隆は不用意な脚本家であって、さらに全くの常識知らずで、それゆえにこんな不自然な台詞を紙面に刻んだものだろうか。

「見知らぬ人とたまたま道で袖をすり合わせるのも前世からの縁。そう考えてお互いに譲り合い思いやれば、穏やかに、気持ちよく暮らせるはずなのです。」(*3)

 本来はこの程度の軽い意味合いで使われる諺だから、『月下の蘭』の劇中に浮遊する一連の台詞の応酬についてもさらりと聞き流すのが一般的な視聴態度だろう。大都会の岩礁に取り付いてささやかに暮らす中年男と若い娘の偶然の出逢い、これを彩るさわやかな香辛料みたいなものだ。気の利いた男女の会話をひねり出すに当たって、気安く登用された装飾ぐらいに思ってもまったく構うまい。

 それにしても、やはりどこか変である。割合とよく知られた諺であるのに、まだ十代と思われる娘が誤って解釈していた事はまあ普通であるけれど、これに対し中年男がさらに誤った説明で応じるその脱線に次ぐ脱線ぶりはすこぶる珍妙であって、これはどうしたって意図的に為された表現と推定せざるを得ない。つまり石井隆は「勘違いしている男」をわざと役者に演じさせていて、その上で「袖振り合うも他生の縁」という諺を物語の軸芯と定めているのだ。これに登場人物および観客が気付くよう、過ちに過ちで返すという裂け目状の“不自然”を脚本上で故意に起こし、意識の滞流(よどみ)と集中を目論んだのである。

 失踪した蘭を心配し、単独で捜索した挙句に返り討ちにあって絶命する若者(山口祥行(やまぐちよしゆき))を茫然と見送り、自身もまた袋叩きに遭って傷だらけとなって逃げ出し、飲み屋街の裏道でぼろ雑巾のごとく這いつくばる男であるのだが、そのような生死の汀(みぎわ)を疾走する道程を経て、徐々に蘭という娘の救出行為の根っ子が変質していく。

 雨に凍える捨て犬さながらに重たく路上に横たわる男を見かねた街のおんな(余貴美子 二役)が、傘下から救いの手を差し出し、その容貌が亡き妻にそっくりであることに男が愕然とする場面があり、さらに怪我で高熱を発してうなされる男の枕元に死んだ若者と死んだ娘が佇む幻想的なカットが重なっていく。彼岸と此岸の境界が男の頭のなかで熔け落ち、「他人の生」への興味から、「他生の縁」への祈念へと強い調子で男の想いが変換していく。明確におのれの立ち位置を改めた末に、蘭という名のタレントではなく「我が娘(こ)」の救出を試みるべく決意を固めていくのである。「袖振り合うも他生の縁」という諺が上っ面のものではなく、ようやく内実を具えたものに男のなかで、物語のなかで入れ替わる。

 『月下の蘭』という映画の淵源がこの諺に有るとは想像もしていなかった。賭けマージャン、怪しげな芸能界、オフロードバイク、ヘルメット、フィクサー、銃撃戦と華やいだ小道具に囲まれていて目線はついつい乱れるが、根幹にあるのは作者石井隆の、人の生死(しょうじ)に対する真摯なまなざしである。私自身が未熟でしっかりと受け止め切れなかったのだ。石井隆という作家のもの恐ろしい手技を理解できず、今更ながら輪郭がちょっと見えてきた、そんな実感を持つ。

「道を歩いていて見知らぬ人と袖を触れ合う。そんなちょっとした接触も、決して偶然に起きたものではない。すべてが前世からの因縁によるものだ、といった意味のことわざが、「袖振り合うも他生の縁」である。あるいは、「袖振り合うも多生の縁」ともいう。“他生”と“多生”はどう違うか?“他生”であれば、前世で結ばれた縁。“多生”のほうは、輪廻転生(りんねてんしょう)をつづけてきた過去世の長いあいだに結ばれた縁である。それほどの違いはない。」(ひろさちや)(*4)

「考えてみればこれは凄い言葉で、たった今袖を擦りあった「今生(こんじょう)」とは別な生が前提にされているのだ。しかも「他生」は本来は「多生」だというのだから、連綿と続いてきた幾つもの生のどこかに、今日袖を擦りあうことになるべき因があったと考えるのである。」(玄侑宗久)(*5)

「花の陰で独り飯喰う旅の僧も、本当は孤独ではないのである。換言すれば、「多生の縁」は袖擦りあったときだけ意識されるが、いつだって私の存在そのものを支えてくれているということだ。」玄侑宗久)(*6)

 私は宗教に関して赤子並みの知識しか持たぬから、ついつい識者の書籍にすがるしかないのだけれど、こうして諺のていねいな解説を噛み締めながら味わううちに石井隆の世界を貫く清浄でたおやかな、時に酷薄な人生観が立ち現われて感じられ、唸るような、またその逆にほっとするような心持ちになっていく。『月下の蘭』とは実は徹底して法話的な、一個の人間が「生死(しょうじ)の稠林(ちょうりん)」に入り込み、自己の存在意義を問い直す姿を描いた極めて堅い堅い話なのだった。(*7)

 石井隆の描く劇画であれ映画であれ、そこに展開される絵柄はハイパーリアルやグロテスクなタッチであるし、題材も男女の性愛や暴力が多いものだから、受け手はどうしても表層に関する感想に終始してしまうのだが、私たちは表を覆うベールにそっと手を掛け、静かに驚かせないようにめくり、作家の内実に触れる努力を惜しんではならないように思う。

 誤解を生まないことを深く祈りつつ書くのだが、私は石井隆の書くもの、描くものを簡単には信じない。いや、信じないように努めている。疑うというのではなく、どう表現したら良いだろう、ひと呼吸を置いてみたり目を凝らしてみたり、紙面や銀幕の裏側に回って再度見返すような、幾らか滞空時間が必要な作家と捉えている。石井の劇が分かりにくいというのではない。分かり易いと思った瞬間に何か大切な物を取り逃がしてしまう、そんな油断のならない作り手という意味である。

(*1):『月下の蘭』決定稿 シーンナンバー12 バー街・雑居ビル前(時間経過)
(*2):同 シーンナンバー14 同外(時間経過・早朝)
(*3):「「江戸しぐさ」完全理解―「思いやり」に、こんにちは」 越川禮子 林田明大 三五館 2006 22頁
(*4):「仏教とっておきの話366 秋の巻」 ひろさちや 1995 新潮社 14頁
(*5):「多生の縁 玄侑宗久対談集」 文藝春秋 2004 2頁 玄侑宗久「多生の縁」
(*6):同「あとがき」 241頁
(*7):曇鸞(どんらん) 「往生論註」「生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむるなり」 ここで言う生死の稠林は煩悩多き人間の一生を指すのであるが、私には石井が好んで描く冥府への境界、暗く深い森の姿が思い浮かばれてならない。石井という作家の立ち位置は常に「生死の稠林」にあって、それも自己以上に他者を慮って歩んで見える。

2019年11月18日月曜日

“憑かれたように”『人が人を愛することのどうしようもなさ』~生死に触れる言葉(3)~


 石井隆の『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)は複数の夫婦関係の終焉を描いている。石井は2000年以降の映画制作において、物語空間でのあからさまな「奇蹟の顕現」を封印、もしくは極力目立たなくしようと決めた節があるのだが、『人が人を愛することのどうしようもなさ』でもこれを堅守しつつ、離別の顛末と翻弄される周囲のさまを淡淡とフレームに収めていく。

 特に俳優業を共にいとなむ主人公とその夫をめぐる結婚生活の凋落は、至極丁寧に描写されており、カメラは独特の粘度を持って主人公のおんなの動静に寄り添っていく。男の横暴がおんなの自尊心を粉微塵に砕き、急速に瓦解へと至る一部始終を、目をそらさず、むしろ極端な接写さえ挿し入れて記録する。奈落に墜ちつづける感覚と終幕を覆う血しぶきはもはや「六道絵」や「地獄絵」を想起させるし、大写しとなって銀幕を占領するおんなの顔貌は観るものすべてを震え上がらせるに十分だった。初見の際の劇場では、茫然としてゆらめき出た観客で廊下が溢れた。

 私たちはフィクションや現実の報道映像で、美しいフォルムを宿した建築物が地震や爆発により無惨にひしゃげて圧壊していく様を幾つも目撃して来たが、石井は人間も同様に潰されて瓦礫となる一個の建造物であると告げている。俳優の演技と撮影技術を統合して、「廃墟となる人間」を余すことなく表現してみせる。

 ざっと振り返っても次々と鮮烈な場面が脳裏に蘇える。特に主演を演じた喜多嶋舞(きたじままい)と、彼女を役柄としても映画の彩りとしても両義的に支える津田寛治(つだかんじ)の、血気迫るふたりの演技は圧巻のひと言であって、表現者の臨界点がどれだけ高い尺度で置かれているか、その値は一般人の想像や能力から遙かに隔たった域にあると見せつけられた気分になった。娯楽の様相を越えて、何か生きて活動する上で課題を託されたように感じる。宿る熱量は半端なものではない。

 それにしても、どのような演技指導を施せば役者というのはここまで化けられるのだろう。人が人を使って仕事に邁進させる上で、どのような言葉を掛ければ勢いよく発火し、めらめらと音立てて燃えてくれるのか。畑違いの場処で暮らす身ではあるが、人心の統率の秘訣は何なのか、石井の劇で毎度毎度見られる役者の燃焼の烈しさがいったい何処から来るのか、ずっと気になっていた。

 今回、石井の脚本をまとまって読み直す機会を得て『人が人を愛することのどうしようもなさ』にもあらためて目を通したところ、ト書きに印象的な語句の反復が見つかった。石井は都合三度に渡り「憑(つ)かれたように」という表現を組み込んでいる。人の表層が妖しく硬化していく様子を指すこの語句が、役者を奮い立たせる起爆剤として働いたと思われる。

 最初はこのように描かれる。夫の気持ちが若い女優へと移って自分をないがしろにしだし、酷く打ち負かされたおんなは深夜の町に飛び出して電車に飛び乗るや否や、素顔が分からなくなる程の厚化粧に耽っていく。

「乗り合わせた客がじろじろと見ている中で、鏡子はまるで悪魔にとり憑かれたような態度で化粧をしている。」(*1)

 日頃の常態からひどく逸脱し、魂が飛翔するのか、それとも錐揉み状態になるのか、いずれにしても大きく変容する道程をこれから刻むのだ、と役者に向けて強調してみせたのだった。さらに終幕近くのおんなの描写においても、きわめて人工的な記述が連なるのである。

「名美が、何かに取り憑かれたように一点を凝視ながら諳(そら)んじて語る。」(*2)

 もちろん「憑かれたように」という比喩は目新しいものではない。「僕はへとへとになりながら、時間を忘れ、ものに憑かれたように、あちこち探し歩いた」(原民喜「夢と人生」)、「ところが、憑かれたように、バッハのフーガを繰りかえして弾いているうちに、さすがに寿子の眼は血走って来た」(織田作之助「道なき道」)という具合に、比喩としてはありふれた表現だろう。しかし、一篇の物語中に幾度も繰り返されると、さすがに作者の企てが詰まった意識的な登用と気付かされる。

 いつものとち狂った深読みであろうか。熱狂や忘我の時間は誰の身にも訪れるもので、そこに「憑かれたような」時間が育っていく。私にもあるし、あなたにだってあるに違いない。のめり込む対象はそれぞれである。仕事に自ら埋もれていく人もいるだろう。恋情や性行為かもしれない。薬物や賭博にはまる者も少しはいるかもしれない。何もかも振るい落として没入する瞬間は皆にある訳だから、石井の記述もことさら難しい意味合いを含むのではなく、いわゆるファナティックな演技、めりはりと勢いのある発声や所作を俳優に求めている点を暗に示したかっただけなのだと解釈したって構うまい。

 それにしても「憑かれたよう、憑かれたよう」と繰り返す文法は、あまりに物怖ろしい面持ちではないか。単純なシナリオ技法と割り切り、さらさらと読み流すのは危険と感じる。

 『人が人を愛することのどうしようもなさ』の点在するこれ等「憑かれたような」場面をどう解釈すべきか、手詰まり感を覚えて「憑依研究」の専門書にすがったところ、以下のような文面に突き当たった。石井が同様の研究書を参考にして筆をふるった訳では勿論ないのだろうが、照合することで急速に映画は深度を増し、陰影を深めて感じらたのは確かだし、その程度の宗教知識の蓄積は石井ならば有って不思議はない。そ知らぬ顔で台本に怪しい記号を組み込むことは、いかにもしそうではないか。

 すなわち、単純な比喩の類いではなく、もう半歩踏み込んで霊的で森厳な空間づくりを手探ったのではないか、憑かれたように何事かに没入する様子ではなくて、状況に追いつめられ何事かに実際に「憑依された人間」の実相こそを映像として定着させようと目論んだのではないか。

 宗教学者の斎藤英喜(さいとうひでき)の以下の文章に、まず明瞭な磁場を感じた。「シャーマニズムとは何か エリアーデからネオ・シャーマニズムへ」と題した文のなかでミルチア・エリアーデの見解に触れ、彼のシャーマニズム研究における「脱魂型(エクスタシー型)」と「憑依型(ポゼション型)」の区分が「憑依」をめぐる現代の学術の根幹になっていると紹介すると共に、後者の「憑依型(ポゼション型)」を軽視する傾向を批判している。(*3)

 物の怪や先祖霊による「憑依」現象を念入りに調査し、西洋の識見に敢然と歯向かう学者の存在にまず単純に驚かされる。学究というのはまったく恐ろしい、彼らも十分に「憑かれた人たち」と思う。そうして目を丸くしたのは「憑かれ方」にもタイプもあるという部分だ。『人が人を愛することのどうしようもなさ』の喜多嶋の演技、石井が定着させた「憑かれた」姿が「脱魂型(エクスタシー型)」と「憑依型(ポゼション型)」のどちらだろう、なんて考えた事もなかった。

 私は斎藤の意見を肯定も否定も出来る立場にないが、あえて言うなら、いくら「悪魔」という文字が添えられようが、喜多嶋の形相は「脱魂型(エクスタシー型)」に入るように思われる。唇をぱっくりと開き、尖った犬歯を剥き出しにしながらも、狐や河童といった動物神に侵され、言動が甚だしく異化した訳ではないからだ。おんなは野獣になるのではなく、己の化粧にただただ酩酊していくばかりである。それにつれて、核(コア)が剥き出しになるだけである。(ここで石井隆という作家を考える上で極めて大事と思われるのは、石井の「憑かれる」というイメージがきわめて洋風であって土着的な日本の信仰に染まっていない点だろう。後日このあたりに触れていきたい。)

 斎藤は別の文章で紫式部「源氏物語」を引き、憑依という現象が実は単相ではなく、複雑な重層構造を為していることに光を当てている。これもずい分とこころに停泊した。

「注目したいのは、死霊に取り憑かれた瞬間が、浮舟自身には「いときよげなる男」が近づいてきたと見えるところだ。この「きよげなる」という表現は、たとえば『更級日記』では、夢に現れる神仏やその使いをあらわしている。とすれば、浮舟自身にとって悪霊が取り憑く瞬間は、神仏と見まがう、聖なるものとの接触=ヴィジョンでもあったということになる。悪霊に憑かれることは、超越的なもの、聖なるものにもっとも近づく一瞬でもあったのだ。魔性と聖性が触れ合う際どい霊域である。」(*4)

 石井は善と悪、美と醜をゆるやかに往還するまなざしを常に手離さずに物語を編んでいくのだが、「憑かれる」という行為に対しても異常、不健康、悪行、汚穢といった負のイメージを与えることなく、聖性をどこか信じる風である。人間ってそういうものだろ、狂気や性愛が汚いって、そういう二元論で追いやれるものじゃないよね、と囁いている。

 『人が人を愛することのどうしようもなさ』の女優にどこか宗教画の面持ちを垣間見るひとは多いように思われるが、その根底には「魔性と聖性が触れ合う際どい霊域」としての憑依描写が貢献している。私たちはもしかしたら、実はとんでもない次元の物を見せられているのじゃなかろうか。

 さらに斎藤は同文のなかで、文化史家の竹下節子(たけしたせつこ)の著書『バロックの聖女』(工作社 1996)に触れて自説を補強している。

「十七世紀のバロック時代に、修道院で神秘体験をした修道女たちを論じるのだが、「神」なるものを知覚し、交流したという「聖女」は同時に「悪魔憑き」として排除される存在であったこと、彼女たちにとって「神」は「性的な幻想を誘う存在」であったことが論じられていて、たいへん興味深い」(*5)

 この辺りにも映画『人が人を愛することのどうしようもなさ』を鑑賞した後に、私たち観客が長く引きずる感動の正体が見え隠れするように思われる。性描写の激しさばかりが取り沙汰され、狂人屋敷の戯言と笑い、あの女優はかなり狂ってるよね、神経が普通じゃないよ、と優越心にひたる道筋も用意されてはいるし、身も蓋もなくダークで救いのない話と嫌厭する見かたも一部あるだろうが、「悪魔憑き」という道を突き詰めた涯てに「脱魂」し、終には「聖女」へ至る様子が描かれていた、それこそが石井の示すテーマであった、と、劇の本質を看取る方が歓びも学びも遥かに大きくはないか。

 劇の中盤では「憑かれる」という表現が、遂に主人公を支える男へと伝染している。

  「岡野が憑かれたように、
岡野「オオ、オッケーです……!」
   鏡子がニコリと微笑んで溜息をつく。」(*6)

 筆が滑って重複したものではなく、石井は意図して「憑かれる」という語句を組み込んでいる。道を突き詰めた涯てに「聖性」に至りつつあるおんなに対し、分かった、共に歩もう、殉じよう、と腹が据わった瞬間だ。状況に絡めとられて殺人を犯し、やがて血だらけで死んでいく男の姿は一種の殉教像と捉えるのが至極妥当と思われる。魂をリレーする行為は宗教じみたものであって、憑依にも似たおどろおどろした恋着が必須であり、時に血の祝祭さえ準備すべきという石井の解釈が刻まれている。

 私たち人間は救いようのない欠陥品であって、汚泥にみたされた夜と清浄な空との境界面にほんのりと横たわる暁闇にかろうじて張り付いて暮らす存在である。新聞の社会面を広げれば別れ話をめぐっての刃傷沙汰が次々に起きていて、無抵抗の者が切り裂かれ、悲鳴が木霊する様子が散見されてなんとも陰鬱になる。

 刃物が飛び出さないだけで、殴る、蹴る、罵る事態は半径数キロメートル圏内にいくらでも転がっているのであって、未来永劫ひとの世は流血を避け難い場処であるのだが、その救いがたい状況を石井は映画という枠内で「浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)」のようにつぶさに再現しながら、懸命に当事者に寄り添って光明を探そうと骨折って見える。

 カメラは諦観と哀惜の入り混じった醒めた視線を保持して見えるが、実は全然諦めてなどいない。君たちは馬鹿者だ、人生の無駄遣いをしている、俺は知った事じゃないから勝手に殺し合え、堕ちるのは自業自得で当然と背中を向けることなく、堕ちて、堕ちて、さらに堕ちぬいた場処で何とか「救い」の手段は無いものだろうか、と懸命に悶えている。

(*1):『人が人を愛することのどうしようもなさ』決定稿 シーン28 終電車の電車の中は(『レフトアローン』の続き、零時過ぎ)48頁
(*2):同 シーン84 インタビューの部屋(現在のつづき) 126頁
(*3):「シャーマニズムの文化学 日本文化の隠れた水脈[改訂版]」 森和社 2009所載 斎藤英喜 「シャーマニズムとは何か エリアーデからネオ・シャーマニズムへ」18頁
(*4):「『源氏物語』のスピリチュアリティ 描かれた霊異」161頁
(*5):同 但し書き 161頁
(*6):『人が人を愛することのどうしようもなさ』決定稿 シーン56 廃墟ビルの続き、外は雨(『レフトアローン』の続き)88頁

2019年10月19日土曜日

“屈葬”『ヌードの夜』~生死に触れる言葉(2)~


 公言されているので構わないと思うが、石井隆は幼少年期に喘息を病んでいる。朦朧として寝具に横たわるうちに、不安な瞳にこの世ならぬ物象を目撃させもした。若い時分から生死(しょうじ)を深く身近に考えることを強いられた石井が、劇画作品や映画に人間の死を多く取り入れるようになったのは自然な帰結だろう。

 『ヌードの夜』(1993)も、だから死者が出現し、葬られる過程を丹念に描いた作品だった。学生のときに乱暴されたおんな(余貴美子)は加害者の男(根津甚八)の歪んだ愛情に捕縛され、都会の隅で事務員として働きながらも男との密会を延延と要求されてしまう。会うたびに金をむしり取られて、青息吐息でようやく生きてきたのだけど、別な男との結婚話が持ち上がり、膠着状態から脱け出すために男の殺害を企てるのだった。ホテルに呼び出された男は浴室でおんなから襲撃を受け、包丁で滅多刺しにされて絶命する。

 おんなは事前に代行業の男(竹中直人)と接触しており、自分に寄せる好意も計算に入れて、浴室に残し置いた遺体の後始末を仕向けるのだった。何も知らずに翌朝のこのこホテルの部屋を訪れた代行屋は、浴室を見て仰天する。一度は泡を食って逃げ出そうとしたものの、フロントでの受け付けも代行しており、室内に指紋をべたべた残している状態でもあるから早晩容疑者として手配されるのは間違いない。代行屋は部屋のなかを忙しく行き来し、次第に恐慌をきたしていく。

 何か前科でもあるのだろうか、警察に追われれば逃げ切れずに逮捕され、犯人にされてしまうと観念したらしい代行屋はなんとか気持ちを取り直し、一旦自宅に帰って大きな旅行用のキャスター付バッグを持ってくる。死体を中に押し込み、隙間に手当たり次第にドライアイスを詰め込んでバッグと共に遁走するのだった。

 私の手元にこの『ヌードの夜』の準備稿がある。実際に仕上がった映画とは少し趣きが違っているのだが、浴槽で息絶えている男の描写が興味深い。「見知らぬ男(行方)が屈葬スタイルで動かない。バスタブの底も血で赤い」と石井はト書きに記したのだった。(*1) おんなから行方(なめかた)という男の存在を聞いていない代行屋にとっては初対面でいきなりの展開である。その行方が「屈葬(くっそう)」の形で死んでいる。

 役者とスタッフに準備をうながし、円滑な撮影を願って書かれた事務的な状況説明に過ぎないと断じることも可能だ。次のシーン以降に展開する旅行バッグへの押し込み、その行為と様子につき連想を誘う助走めいた役割があったと理解も出来よう。

 でも、「見知らぬ男がうずくまって動かない」とか「見知らぬ男が死んでいる、顔はうなだれ見ることができない」でもなく、「見知らぬ男が窮屈そうに手足を曲げてバスタブの一方にぐったりしている」というのではない。極めて強靭な印象を与える「屈葬」という宗教用語を挿し入れている。その字面と響きには特殊な後押しがあるように感じられる。石井隆の死者への想いを嗅ぐ。

 私たち観客は日常の暮らしや仕事に思いあぐねる身として、劇中でまだ生き残っているおんなと事件に巻き込まれた代行屋に自ずと目が行ってしまうのだけど、石井はこの「屈葬」という語句を投じて、その瞬間から行方(なめかた)という不器用な男の葬送の儀式を人知れず無言で始めている。密やかな弔意を発し続けて、そのまなざしは結局のところ終幕近くまで引きずられていく。生者と死者との間を往還しながら、離れることなく均等に視線は注がれるのである。

 続編に当たる『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)では、今度は風穴を用意し、殺された男の骸(むくろ)を乾いた冷気に晒していく。台詞には死因を特定させないようにわざわざ風穴へ運んで「熟成させている」と説明させ、観客の多くも法医学はよく分からないがそんなものかと納得する訳なのだが、あれなどは「曝葬(ばくそう)」と呼ばれる古(いにしえ)の葬送手法の再現であって、『ヌードの夜』の「屈葬」と対を成す手向けの景色と言えるだろう。

 我々の先祖をさかのぼれば、風葬や洞窟葬を経て土に還った者たちに必ず行き着く。それが当たり前だったのだ。深く土を掘らない、立派な墓石を用意しない、薪や油を大量に投じない、それだからといって弔いに関して真剣さがなかったとは思わない。各地に残る横穴墓などはその遺物と私には見えるし、奄美群島の北東部に位置する喜界島(きかいじま)では明治10年頃まで慣習が生きていた。未開であるとか粗野であるという次元ではなく、死者に対する名残りや愛着から、また常世(とこよ)の捉え方の違いから、彼らは今のわたしたちより緩慢な方法を選んだに過ぎない。

 腰をすえてじっくり死者を見守ろうとする石井の劇は、常に一種の葬送の列となって生者と彼らを同じ空間に置くべく工夫して見えるのだが、その調子は生死(しょうじ)を機械的に扱いがちな現実の弔葬とはやや乖離した、素朴でどこまでも真摯な旧い儀式形態と通底するように思われる。

 生きる者たちを描く表層とは見えざる流れが劇中ひそかに動いていて、時に不自然と目に映る箇所が頭をもたげて出現し、訓練されていない観客には大いに慌てることになる。けれど、粘り強く目を凝らしていけば、その不自然さこそが実は物語の肝であると知れる瞬間が訪れる。作者が総力をあげて劇中人物の生死(しょうじ)を司り、大概の人がたやすく見限る相手を手放すことなく、孤軍奮闘しているのが次第次第に分かってくる。

(*1):『ヌードの夜』準備稿(赤色横書き題字) 36頁 シーンナンバー34 バスルーム

“無暗”~生死に触れる言葉(1)~


 いまから綴る事柄はやや常軌を逸したものだ。断章取義のそしりを到底免れ得ないだろう。世間に対して己の不勉強を晒すことにもなるから、急速に興味を失う人も出るに違いない。なんだよ、がっかりさせるなあ、これまで耳を貸して損をしたよ、と、いよいよ信頼消失して、私が書いてきたこと、これから書くことの総てに誰もが匙を投げていく。それ等が落ちて床で響かせる金属音さえ、かちゃりかちゃりと今から聞こえてきそうだ。

 それはそれでもう仕方がないとも考える。極私的な感懐で、誤読や突飛な連想が含まれるのは最初から否定しないが、私の内部に居続ける石井隆の劇をめぐって嘘や偽りは一切ない。悪戯に石井の仕事を飾り立てるつもりはなく、十代なかばから彼の劇画と映画を凝視めつづけ、2019年現在この国に暮らすひとりの読み手の胸中をひたすらトレースして愚直に書き遺すだけである。

 私にとって石井の書いてきた脚本は、娯楽性に富む実に嬉しい読み物であって、長く悦びをもたらす一篇の優れた「映画」そのものだった。同時に、教本に近しい難解な存在だった。石井の書くト書きと台詞のどこがどう面白いのか、其処に狙いを絞って、石井世界の醍醐味を探ってみたいと思う。

 石井は他人への提供を含めてこれまでに40本近くの脚本を世に送っているが、成人向けの作品も数多く含むためか、書籍のかたちでの集成がまだ実現されていない。「キネマ旬報」「シナリオ」といった映画専門誌に掲載されたものを断片的に読んでいくか、彼自身の単行本に収録なった幾篇かを漁るか、それとも撮影現場で使用された台本を入手して確認するしかないのが現状である。ほんとうに勿体ない話なのだが、それでもこの頃はウェブを通じて古書店との交信が容易となり、格段に手に入れやすい環境が出来たのは幸いなことだ。石井に心酔する受け手の何割かが台本の蒐集をひそやかな愉しみとしているのだが、その熱狂は単なるコレクター心理を越えていて、読むこと自体の愉しさが石井の脚本に付随することを証し立てる。

 具体的に各作品の記述に踏み込む前に、「脚本を語ること」の礼儀作法を確認しておきたい。そもそも脚本というものは何行、何文字で構成されているのだろう。映画学校にもシナリオ教室にも通わなかった無粋な私は、全然その辺りが分からない。じゃあ実際に数えてみたらどうだろう、と手元にある一冊をやおら掴んでぱらぱらと開いたところで、どうにも面倒に感じて止めてしまった。数年前ならここは何文字、行は幾つ、ならばこの頁はこうだから全体ではこんな数字だろうか、では、こっちの台本はいかがだろう、と血眼で電卓を叩いただろうけど、この頃は頭もこころも何だか一杯一杯の感じで腰が引けてしまう。

 実際のところ頁をめくって表層だけを見やったならば、初期のものと近作では面持ちが大きく異なっていて、字数を知ったところで意味がないかもしれない。たとえば『団鬼六 少女木馬責め』(1982)と近作『GONIN サーガ』(2015)ではまるで密度も頁数も違っている。時期によって脚本家の言葉づかいが転調してト書きが増えたり減ったりもするだろうし、恋する男女が対となって互いの瞳を覗き合う小さな部屋の、それも乱れた褥(しとね)を接写していく性愛劇と、人生の方向を見失った老若男女が群れ集う活劇ではその字数に段差が生じて当然だ。

 改めて手に取ってしげしげと眺めると台本というものは大層な労作であり、これだけの文字や表現をひり出していく苦労は並大抵の物ではないのが解かる。新旧比較してよりシンプルに見える前者にしても、十分それだけで密林の様相を呈している。手元にあるものを重ねてみれば尚更その物量に圧倒される。石井は物書きを生業とし、日々原稿用紙やコンピューターに向かって厖大な、満点の星とも見まがう言葉の群れを紡いできた。その偉大な仕事について喋ろうとしている。無暗(むやみ)をするとはこういう行為を指す。

 さて、例に出したこの二作品の脚本内部の、どの箇所に言及し、また、どのぐらいの範囲や深度で続続と撫でまくったならば、これ等の作品を完全に消化し、石井隆の作家性を言い当てたことになるのか、実はその辺りについて自信が皆無である。40本近くの脚本を世に送っている石井の作家性を語る最低条件とは何なのか、その域に到達せぬまま書くならば、一体全体その文章は何と呼ばれるのだろう。浅学菲才(せんがくひさい)の素人が書き殴った感想や落書きだろうか。狂人のたわ言、犯罪者の妄想ノートだろうか。脚本家石井隆を語るために何をすべきで、何をすべきではないのか。すべきではない事をしでかした文はひとりの作家をひどく傷つけ、実像から剥離した場処へと若い読み手を次々にいざなって、歪んだ印象を育ててしまう病原体か毒薬に堕した存在か。

 恩知らずの恥ずべき行為をしそうで怖い。大体にしてこれから触れようと考えている石井の脚本は片手で余る数であって、上に書いた二作品さえその中には含まないのだ。『団鬼六 少女木馬責め』と『GONIN サーガ』の二作品を除外すると決めた時点で、わたしは既に書き手失格ではないのか。口を開く権利を自ら放棄してはいないか。審判から退場を命じられたスポーツ選手がその声に気付かず、うろうろとフィールド内を未練がましくさまよっている、そういう事態かもしれない。

 加えて私が触れようとしているのは劇の構造であるとか人物造形の巧みさではなく、妙にこころ惹かれるト書きや台詞の一部である。それも一行にさえ満たない短さだったり、たったひとつの単語であったりする。木を見て森を見ないどころではない。葉の一枚を切り取り、顕微鏡にあてがって覗き視て、形作る細胞のひとつにあえかな緑色の発光を認めたことをもって石井隆という巨大なジャングルを語ろうとしているのだから、これはもう犯罪に等しい暴虐の次元ではあるまいか。

 さっさと沈黙すべきだろうか。けれど、そんな事をして私は破裂してしまわないだろうか。壊れてもいいから「魂のこと」は頭から一切合財払い落として、日常の暮らしに専念し、穏やかに暮らすべく努めるのが良いのか。そんな自分は願い下げだ。

 数多くの状況説明が連なり、台詞が堆積して、極めて肉厚の表現体となっている脚本を好き勝手に切り刻んで、有機体が鉱物と化してそっと眠っているかの如き単語や言い回しをシャーレにぽつんと置いていく。真珠然としたその妖しい響きをもって、これが石井隆だよね、そうは思わないか、と語るのは神をも畏れぬ所業のような気がして来て、どんどんどんどん頭が重くなっていく。

 職場に来てみたら鉄扉が完全に締まっていて、今日は休業日だったと分かる。ああ、いよいよどうかしている、脳みそがへんちくりんだ。仕方ないのでコーヒーを飲み、気持ちを落ち着かせながら、こんな駄文を必死になってこねくり回している。

2019年10月6日日曜日

“至彼岸(とうひがん)”


 締め忘れた窓からガガンボが入り込んで、長い脚をゆらつかせながら天井のランプ周りを飛び回わっている。こちらの顔めがけて急に接近したりして、気に障ることこの上ない。いっそ薬を撒いて退治してしまおう、と以前なら単純に考えもしたけれど、何となくそれもしづらい低空飛行の気分が続いている。

 羽虫はパタパタと行きつ戻りつしながら騒いでいたが、疲れたのか壁にとまって動かなくなった。そこを見はからって忍び寄り、プラスチック製の食品容器の空いたものとやはりその辺にあったマンションの広告か何かの固めの紙をフタ代わりにして捕獲を試みたところ、手足をもぐ事もなく無事に収まった。そのまま戸外に出て、街灯の下まで運んで逃がしてやる。成虫になってからの彼らの寿命は短くて、せいぜい十日前後と書いてあるのをウェブでいま読んで、なんだか淋しさに追い討ちがかかる。生はまばゆく逞しく、同時にひどく希薄である。あっという間に時は過ぎ、何もかもが死に絶える。

 誰でもそういう傾向はあるだろうが、ついつい生死(しょうじ)やら葬祭に視線が捕まってしまう。それが最近ひどく粘りついて仕方がない。映画を観ていても墓地や葬儀の場面に出くわすと神妙な気分になる。興味や好奇心というのではなく、もうちょっと切実なものとして自然と目を凝らしていき、人生という演し物の千秋楽の成り行きを見守ってしまう。大概は湿った黒土が靴裏にぐにゃり広がり、時にもっさりと茂った草々が足元を霞ませる、ぱっとしない、なんとも茫洋とした景色だ。興奮を誘い、官能に酔い、涙に溺れる、幾つもの趣向を凝らした華やかな場面が頭の隅から徐々に脱け落ちてしまっても、重い墓石とその前に佇む人という平坦この上ない構図が鮮明に記憶に在り続ける。

 ずいぶんと以前に観た欧州の作品では、乱雑に配置された墓石が目に刻まれた。小道に沿ってきちんと整列するとか、東なら東、南なら南を皆そろって向くように墓所という場処は頑固に仕切られているものと思ったのだが、そのドイツ映画では石の面(おもて)があちこち違った方角を向いて、その場の総てが脱力して見えた。(*1) また、こちらは最近劇場で観たのだったが、同じくドイツの作品では火葬した後の骨や灰をぬか床か梅干用みたいな無愛想な陶器の壺(つぼ)に詰めて、掘った穴に落とし込んでしまうと、今度はこれまた漬け物の重石みたいな無表情の碑をぽんと置いて弔いを終えるのだった。(*2)

 衝撃という程ではなかったが、なんだか随分と気持ちに引っ掛かった。戦禍の記憶を慎重に語り継ぎ、生活の信条や政治活動の根幹に倫理感をどすんと置いた彼らは、はたして弔いという行為をどう考えているのだろう。死をどう捉えて暮らしているのか、墓場は精神の沃野(よくや)にとってもはや用済みの、不毛な見捨てられた場処なのか。あまりに凄惨な記憶が死というものに耐性をあたえ、墓場にしげしげと足を運んだりする、そんな慣習自体がもう途絶えたのだろうか。両作共に庶民レベルのささやかな、どちらかと言えば困窮気味の生活を描いた物語だったから、費用を捻出できない様子をことさら強調すべく、あえて奇矯な葬送の様相を示したのかしらん。

 いつまでもすっきりしないで悶々としたのだったが、この疑問に答えてくれる論文がようやく見つかる。大谷弘道氏による「ドイツ人の弔い感覚」という文章で、読んでかなり気分が落ち着き、あれこれ合点もいったのだった。死者に対して透徹したまなざしを注いだ結果、彼の国の住民たちは私たちの及ばない境地を獲得したようである。

 亡き家族や知人に対する想いが淡白というのではないが、私たち日本人のようには墓を扱わないのである。私たちのように死者の身体をひたすら神聖視したり、どこまでも歳月を越えては敬わないのである。土に帰り、消滅することを恐れず、目をそらさず、その帰結を無視するのではなく十分に理解した上で、生きて活動することの有限である点こそを了解し、その奇蹟を前向きに享受することを暮らしの主軸にしたのである。墓に対して力むことを止めて、肩の緊張をすとんと抜いていこうと決めたのだ。先の映画に点描されていたのは、実際のドイツ国の精神風土に基づいた当たり前の景色なのだろう。

 ご覧のような体たらくで軌道をなかなか元に戻せないでいるのだが、どうせならこのままぐずぐずと生死(しょうじ)に対して固着しつつ、束の間、石井隆の世界を探って行こうと考えている。頭が少しおかしくなった男の文章なので、世間に発信するに価しないかもしれないけれど、また、恥の上塗りかもしれないけれど、等身大のわたし達に及ぼす石井の劇の波紋は、それ自体もまた石井隆の世界の一端であると信じている。

 「魂のこと」は表層の物象とは違うから、石井隆を語ることではなく、受け手である私を語る時間に割かれるかもしれない。どうなるか分からないけれど書き進めてみたい。

(*1):『素粒子』 Elementarteilchen  監督 ‎オスカー・レーラー 2006 
(*2):『希望の灯り』 In den Gängen  監督 トーマス・ステューバー 2018
(*3):「ドイツ人の弔い感覚」 大谷弘道 慶應義塾大学日吉紀要. ドイツ語学・文学 (慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会) ( 48 ) 21 - 37  2011 以下のページからダウンロードして読むことが可能だ。当今新聞や雑誌で取り上げられ、世間の関心も高まっている「墓じまい」「永代供養」「樹木葬」といった話題とも連結し得るリポートであるから、もう若くない人は目を通しても無駄ではないと思われる。 http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10032372-20110331-0021

2019年9月16日月曜日

“桜の実”


 法事や彼岸参りが近づくと、本番当日に慌ただしくなるのが厭で、前もって墓所におもむき、入念に清掃をしないでおられない。やり過ぎの感が湧かぬでもないけれど、するべき事を終えておき、その分悠々と「魂のこと」をしたい気持ちがある。暦を眺めていよいよ間近となれば急にそわそわして、軍手や雑巾を片手に飛んで行く。

 そんな妙な癖が付けてから随分と経つのだけれど、数世代前の人びとが納まる内は特段考えることもなく、ただただ早く済ませようとあくせくする時間だったのに、さすがに同じ屋根の下で暮らしてきた家族の骨を納めて以来、ちょっと性質が変わってきた。記憶の湖水にずぶずぶはまり、かつての己の言動のいちいちをひどく後悔したりもして、茫然と、時に憤然として立ちすくむ事が増えている。

 たたずむ時間は観察の機会も与えてくれ、枯れ葉の種類や苔の生育が急に気になり、墓石の隅から這い出てくる虫に対してもいちいち気持ちが向かうようになった。馬陸(やすで)や蛞蝓(なめくじ)のたぐいが大概だけど、もしかしたら彼らは死者の魂を引き継ぐ存在なのだろうかなんて夢想する。そんな大そうなものじゃなく、石室の単なる居候だったとして、今や白骨となって地中に居を移した我が家族にとって彼ら小さな生命体は愛しく、また、おもしろく映るのか、それとも憎々しく感じるものであろうか。考え出すと自然と動作は虚ろとなっていき、以前と比べたら倍の時間がかかっている。

 そう言えば箒(ほうき)を操る最中に目が止まったのだけど、なんだか光沢のある硬そうな種があちこちに散らばっていて不思議に思う。鈍感なわたしはしばらく考え、ようやく桜の種と分かったのだった。寺庭のやや離れたところに老木が二本寄り添うようにして立っており、春ともなれば懸命に咲いては辺り一面を桃色に染めるのであって、あれの成れの果ての、過ぎ去りし季節の痕跡なのだった。毎年ここに足を運び、幾数回も同じ場所を清めているのに、いっさい目に留めず、意識したことがまるで無かったのが可笑しい。人間って心ここに在らずの状態だと手元にあるものさえ見えなくなって、存在しない物だらけになる。

 畳ほどの面積にこれだけの実を毎年蒔(ま)きながら、それも百年単位でこころみながら、結局のところ新たな樹は一本も増やせないでいる。自然の実態というのは冷淡で過酷な場処であるのだし、そのような成就しにくさ、厖大な失敗の繰り返しは、私たちの生活にも当てはまるように思う。花咲かせても形を成さず、瞬く間に消えることがいかに多いことか。

 墓所の脇の柳(やなぎ)の大木は数年前に朽ち落ちて、根っ子だけのぎざぎざした無惨な切り口を陽に晒されている。帰り際、黒々としたそんな骸(むくろ)の真ん中にひょろりと一本だけ芽が伸びており、先端に明るい色の双葉を広げているのを見つけた。これは柳の根がかろうじて生きていて自力で再生しつつあるものか、それともまったく別の植物の種子が芽吹いたのか。可愛らしい、まさか桜だろうか。家族の転生を願う気持ちが湧き水のように盛り上がって、まあ何というか、どうしようもなく感傷的になっている。

2019年7月6日土曜日

“何を見ているのか”~萩原健一、内田裕也追悼扉絵(7)~


 原則絵画には顕幽の境はない。描かれていないものは“無い”のだ。そんなお化けみたいなものは作品に属さない。妄想を膨らませ、あたかも存在すると言い張るのは実に愚かしい行為である。描き手の胸中を勝手に慮って無軌道に他の作品を引き合いに出す文章はもはや評論ではなく、価値のない戯言に過ぎない。

 であるから、萩原健一、内田裕也追悼扉絵と【赤い暴行】(1980)を連結して語っている私のこの文は評論の域を逸脱していて、解釈の横すべりというか、一種の淡い憧憬に過ぎない。この点を念押しした上で、今回の扉絵をめぐる時間を閉じたい。

 【赤い暴行】については過去何度も綴ってきたが、石井隆という作家を語る上で欠かせない作品と捉えている。死出の旅路の一里塚が描かれる。大量の睡眠薬を呷ったおんなの意識はひどい混濁と跳躍を繰り返し、目に映る風景はどんどん支離滅裂になっていく。“景色”が鏡に映るように複製されて行く手に立ちはだかり、登場人物とわたしたち読者の目をとことん幻惑する極めて特殊な時空が出現するのだが、そのような精神の崩壊を出鱈目に刻んでいるかに見せて石井はかなり厳密に劇をコントロールしている。

 石井の郷里の景色が写し描かれてもいて、崖と見えるものが実は川辺である点も確認済である。相当に思い入れのある作品のひとつに違いないそんな【赤い暴行】と、この度の追悼扉絵が三十九年という歳月を跨いで近接する間柄にあるとすれば、両者は共振を開始し、扉絵は似顔絵の域を易々と越えて反射光を強く返してくるように思う。

 なぜ絵のなかにドラム缶がそっと忍ばせて在り、それがなぜあちらの縁(へり)に置かれているのか、私たちはこの点を見逃してはなるまい。過去どのような宗教的体験を経たかは個人ごとばらばらであり、それは自由であって良い次元の話なのだけど、どうだろう、誰でもいいのだが、「ドラム缶の在る」天国なり地獄を見知っていれば教えてもらいたい。あの縁(へり)が死線に臨んで亡者が渡る川を仮に表わすとし、向こう岸がもはや冥界の一部と想像した時、そこにドラム缶がぽつねんと置かれるのはすこぶる不自然ではなかろうか。

 新聞や週刊誌では連日のように殺人事件が紙面を飾る。「地獄」さながらの状況が克明に伝えられると共に、人体がすっぽりと収まってしまうそのサイズ上の特性から、空のドラム缶が現場に佇立して読者を脅かす。たとえば1988年暮れから翌年に渡って起きた通称「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の陰惨な監禁と暴行傷害、これにつづく死体遺棄の終幕部分において、ドラム缶はのっそりと不穏な面持ちで現われ、若い被害者の骸(むくろ)を丸呑みした。いまから三十年も前の事件だが、そのあらましを生で聴いた者の脳裡に終生癒すことの出来ぬ創(きず)を残している。

 だから、「現世の地獄的状況」にはドラム缶は確実に在って、身近な被害者を飽くことなく食らい尽くすのだが、通常私たちが夢想するあの世にそんな金属製の缶は見当たらないように思う。地獄の鬼が腰掛けるのはごつごつした巨石か白骨の山、もしくは泣き叫ぶ亡者の身体であって、錆びついてペンキの汚らしく剥げた円柱の器ではない。アクション映画の一場面に見立てた死出の景色を模して石井隆は追悼絵を描いたのだったが、三途の川と目される縁(へり)の向こう側にドラム缶をわざわざ配置し、私たちの宗教観(此岸と彼岸)に背いた構図を取っていることをどう捉えるべきであろうか。

 映写幕に続続と投げかけられる光の矢に乗るようにして、私たちの視線は手前の方から奥へ奥へと進んでいく。中央部に描かれたおんなの頭部には消失点が穿たれている。いつしか私たちの視線は誘導され、すべてが引き込まれるブラックホールのごとき虚無の洞窟をおずおずと覗く心持ちで、おんなの小さな背中を追い、それにすがっていく役者ふたりの宿命的な追従を夢想する。どんどん遠くなっていく男ふたりの姿が予感され、差し迫る永別を想ってこころから彼らの寂滅を惜しむ。それが一般読者の内部に湧き立つ感想に違いない。生から死へのベクトルは、一直線に手前から奥へと延びている。こちらが生、あちらが死である。

 されど縁(へり)の向こう側に、視線の先に、ブービートラップさながらの目立たぬ偽装を施されたドラム缶が一本唐突に置かれてあるのである。いったいドラム缶が在るのは何処か。つまり私たち読者の思い込みとは逆で、この絵の真意は、男たちが渡河を果たした直後を描いたとも読み取れる訳である。縁の向こうが実は現世であり、こちら側があの世となる。めまぐるしく視座が転換して、視神経が熱を帯び始める。男たちは今まさに縁を飛び越え、こちら側にやって来たところなのだ。

 ふたりは涙を流し、汗をたらして視線の彼方に目を凝らしているのだが、その瞳の先には何があるのか。劇場なのか試写室なのか席が並んでおり、私たちが座っている図式である。では、私たちは何者なのか、何処に座っているのか。実話雑誌で人間世界の魔の刻(とき)を知り尽し、人間とは何か、映画とは何かを常に考えてきた石井隆が、死者の国、地獄に集うがごとき我々に向けて静かに囁いている。死とは何か、地獄とは何か、そもそも境界などあるのか、どう捉えどう生きるべきか。君の役目は何かね、奪衣婆かね、それとも牙を剥いた鬼かね、それとも右往左往する煩悩まみれの亡者かい。地蔵菩薩だなんて自惚れたこと、よもや考えているんじゃあるまいな。

 崖やコート姿といった類似点を並べて【赤い暴行】の連作だろ、トリビアだろ、と言いたいのではなくって、【赤い暴行】の構造を踏まえて漸(ようよ)う見えてくる浄玻璃鏡(じょうはりきょう)のごとき反射板が在るという点、そして、そこから照射される硬軟、寒暖の織り交ざった石井からのまなざしの強さこそ共有してもらいたいのだ。石井隆の劇を縦断する往還の目線を意識してもらいたいのだ。

 年齢相応にこのところ見知った人、同級生たちがぽとりぽとりと花弁の落ちるようにして唐突に逝くようになった。故人の写り込んでいる集合写真など見ると、なんだか死んだ者もまだ生きているはずの者も誰もかも全員が黄泉の国の住人のように見えてしまう。終戦の翌年に生まれた石井の年齢ならば、尚更そんな不意討ちと茫然たる日常ではなかろうか。過去の作品たち、映画や劇画もそんな風に見える刻があるに違いない。追悼の絵を映画に模したのは、単に映画雑誌からの依頼に応えるばかりではあるまい。

 ひとりの作家の内部の堆積が産み出した地獄極楽絵となっている。こんな際どくも切ない宗教画を描けるのは、おそらくは世界中で石井隆以外にはいないだろう。

2019年6月30日日曜日

“断崖”~萩原健一、内田裕也追悼扉絵(6)~


 「波立ち荒れて、高さ三十町にも立ちあが」って罪人を呑み込んでいく「長宝寺よみかへりの草紙」の三途の川の件を読むと、千尋の谷を細い吊り橋でよろめきつつ越えていく様子が容易に想像される。一町はおよそ百十メートルである。怒り狂った波がいきなり富士の峰ほども鎌首をもたげると言っている訳だから、逆算すれば川底まで相当の深さがなければ辻褄が合わない。大蛇の棲む川面が目と鼻の先にひろがるという他の記述と明らかに矛盾するのだけど、まあ、古い伝承にいちいち突っ込みを入れても仕方なかろう。ここで大事なのは石井の絵に川とその水の気配が感じられない点である。渓流や波しぶきといった一連の現象が見当たらない事である。

 読者の目から死角となったところに滔々と水は流れ、生き生きと波が躍動するのだろうか。なぜそれを隠す必要がある。血をしぶかせると同じ要領で白い飛沫をパラパラとブラシで落とせば良いではないか。乳のごとき白き霧を段差の隙間にゆらゆらと横断させれば良いではないか。

 西洋の宗教画に造詣が深い石井の内部に渦巻いているのは、最初から我が国の地獄極楽図に垣間見る三途の川の面影ではない可能性もある。アケロン川 Acherōn が原形かしら、そう思って急いでポール・ギュスターヴ・ドレ Paul Gustave Doré などの「神曲」を観直してみたが、確かに画家たちは岩肌が露出する険しい形相の河岸を好んで描いてはいるけれど、いずれも冥界の住人や亡者の足元を水はたぷたぷと流れていくのであって、あくまでも川が川らしい風情で目に迫り来る。

 石井隆の扉絵に刻まれた独特の段差はどこから生まれたもので、何を私たちに言いたいのか。そもそもが川などなく、ちょっとした縁(へり)や淵がある程度であって、わたしの思い過ごしなのだろうか。一枚の絵をそれ単体で見るならば、見ての通りこれは縁や淵であるのだし、そこに水が流れていてもいなくても誰が困る話でもない。世界は完結するからだ。萩原健一と内田裕也の夢の共演、それも石井隆が演出するこの世に生まれ損ねた活劇の一場面であり、惜別の念をこめて粛々と眺めればもう十分である。波止場なのか冷凍庫の立ち並ぶ工業地帯の一角なのか、そこで幻のカメラが回り、幻の給水車から吐き出された幻の雨がふたりの俳優の頭上にぼたぼたと撒かれていく。

 しかし、石井隆という特殊な作家のこれまでの作歴を見ていけば、一幅の掛け軸と思われたものが実は連作の一部であったり、ひとつのモティーフを愛着持って再度描き直し、その執拗に繰り返される表現行為を総覧してようやくそれが歳月を超えた長い物語を編んでいることに気付かされて慄然とする瞬間が多々あった訳である。読者や観客がそれに気付いて泡を食う様子を眺めても、平然と完黙を押し通して次の作品づくりに入っていく、孤高をまるで恐れない精密時計の職人然としたところが石井にはある。

 見立て違いの可能性がゼロではないが、わたしはこの扉絵に【赤い暴行】(1980)を秘かに重ねている。薬で朦朧としたおんなが森を越えていき、終にたどり着いてしまった垂直の崖である。一方は凹凸の少ない硬い外貌、もう一方は木の根や枝にみっしりと覆われているのでそっくりではないのだが、死出の道筋に現れた事、コート姿のおんなを添わせる等、相似する点が複数認められるからだ。「風景の分裂」や「鏡面作用」といったものが此処でも生じて、見るものの視線を裏返そうと立ち騒いでいる。



2019年6月28日金曜日

“水なし川”~萩原健一、内田裕也追悼扉絵(5)~


 石井隆の筆による扉絵の載った「キネマ旬報 2019年6月上旬特別号」が店頭に並んで間もなく、さまざまな反応がウェブ上に起きたことは先述のとおりである。中にはさらに一歩踏み込んで絵を構成する要素に細かく言及する人もあった。「ショーケンの肩から腕に見える箇所は、コートの裾あたりで雨の流れるタッチが変わっている…右側にはドラム缶のようなものが見える」(*1) 

 教わるまでドラム缶の存ること、まるで判らなかった。てっきりトレンチコートの肩章(エポレット)もしくは袖飾り(スリーブストラップ)かと思ったのだ。違和感を覚えながらも多分そんなものかと勝手に決め付け、思念からきれいに捨て置いて中央に立つおんなの腰辺りばかりを睨んでいた。私の目は節穴だ。

 さて、よくよく見れば確かにドラム缶なのだけど、それがわざわざ男たちの肩や腕のラインと見紛(まが)う傾斜で配置されており、これは意図的な混迷を目論んで見える。石井の一枚絵の中には時折、視座を換えることでまるで違った風合いを帯びてくる作品があるのだけど、この扉絵には独特のそんな筆遣いが明らかだ。特殊な想いを託しているぞ、どの程度まで貴方は感じ取れるかな、と、我々に向け奇才が挑発している。江戸時代の判じ絵ともジュゼッペ・アルチンボルド Giuseppe Arcimboldo の寄せ絵にもどこか似た前傾の闘志をそなえていて、観る者の目を愉しませる。

 ドラム缶をわざわざ置いたのは「男たちの肩や腕」と「おんなの立つ足元」との二重映しに気付かせる工夫だろうか。先のウェブ上での記述者も触れているのだが、「雨の流れるタッチが変わっている」ことから地面の形状や質感につきこの絵は意識的にこっそりと語ってみせ、石井はそこ見ろよ、変だろう、ちゃんと気付けよ、と告げている訳である。溜まった雨水が流れ落ちる垂直に近い傾斜を繊細なタッチが物語っており、役者ふたりの追悼特集である点からしてここで私たちが想起すべきは何かと言えば、階段でもなければ波止場の桟橋でもなく、死者が渡るとされる三途の川と相成る。

 それが一体どうしたんだよ、いちいち五月蝿いやつだな、と思うかもしれないが、私のなかには「垂直の縁(へり)」と三途の川がどうにも連結しにくく、これが石井の内部で無理なく成立し、また、それを衆人環視のもとで具現化されていくのが愉快に感じてしまう。こんな三途の川ってあるのだろうか。

 これを読む貴方の想い描く三途の川は、果たしてどのような顔付きだろう。おお、あれがそうか、なるほどなるほど、と目の前にゆらゆらと見えてくる黄泉路の出発点はどんな景色か。水の面(おもて)との高低差はどうだろう。私の夢想するのは角の取れた丸い石がごろごろした岸辺であり、その脇には音も無く暗い川面(かわも)がのっそりと横たわっている。そこに段差は感じられない。中川信夫の『地獄』(1960)に代表される映像作品の影響もあるだろうが、草木の生えていない、起伏なくべろんと広がる空間が目に浮かんでくる。自分だけの想像の姿を計尺棒に使って話を先に進めるのはすこぶる危険と承知しているのだけど、直角にちろちろと漆(うるし)の汁ごとく雨水の垂れつづける川辺というのが不思議に見えて仕方がない。

 宗教書では三途の川をどのように活写しているのか。石井は持ち前の探求心から地獄極楽絵を調査し、その再現に努めたものだろうか。貼り付けた画像は京都の西福寺に伝わる「熊野観心十界曼陀羅(くまのかんしんじっかいまんだら)」(16-17世紀)の一部で、死者が川辺に到着し、下穿き一枚以外の衣服をすべて奪衣婆(だつえば)に手渡す様子が描かれている。信仰心の厚い者は、さあさあ、服は脱がずに結構ですよ、どうぞそのまま前にお進みください、と、極楽に至る橋をガイド付きで渡れるのだが、そうでない者は水に飛び込み、泳いで向こう岸まで渡らねばならない。川には凶暴な龍や大蛇が巣食っていて、自由の利かない亡者を次々に襲っていく。引用元は先に取り上げた「HELL 地獄」(パイインターナショナル 2017)であり、他に収録された絵もほぼ似たような構図と内容になっている。

 この絵と同様の文章表現が「長宝寺よみかへりの草紙」にあり、それを仏教学者の石田瑞麿(いしだみずまろ)が「日本人と地獄」という本でかみ砕いて説明しているのだが、書き写せば次の通りである。永亨十一年(1439)年に突然意識を失った慶心房という者がいて、蘇生を果たして後、あちら側で見聞きした事を克明に語るようになった。その一部を記録したとの由来である。

「死出の山を過ぎると、大きな三つの川があり、これが三途の川だと見せられる。黄金(こがね)・銅(あかがね)・銀(しろがね)の三つの橋がかかっている。黄金の橋は仏の橋で、極めて尊い方の渡るところ、銀と銅の二つは善人がわたる橋という。蓮華が咲き、波も静かな川にかかる黄金の橋にひきかえ、遥か下流には鉄(くろがね)の橋が一つ見える。細い金鎖(かなぐさり)の橋で、獄卒は罪人に渡れ渡れと責めつけ、さいなむ。渡ろうとしても足も身も支え切れず、手足でとりついても、炎が金鎖に燃えとおって、たまらずあお向けになるさまは蜘蛛の巣にかかった虫のようである。また巧みに渡り切ろうとすると、河は波立ち荒れて、高さ三十町にも立ちあがるから、波にさらわれて落ちて行く罪人の立てる音は千万の雷鳴の響きに似て、肝・魂も奪われるほどの恐ろしさである。しかも、波間には高く角をはやした大蛇が眼を爛爛(らんらん)と輝かせ、口を開けて呑もうと待ちかまえ、河底には剣が隙間なく林立している。」(*2)

 石田は他の伝承も紹介する。「天狗の内裏」と呼ばれる室町期のものは牛若丸が大天狗に導かれて地獄を覗く話というから、かなり創作めいて感じられ、上の体験記とは色彩が異なるのだが、古き日本人が抱いてきた三途の川のイメージをより補強するように思う。

(三途の川とは)「上の瀬、下の瀬、中の瀬の三つの総称で、上の瀬に「ばんみん鳥」という(中略)黒い鳥が罪人の脳をくだこうと待ちかまえている所、下の瀬は「千筋のつるぎ」を「ひれ(鰭カ)」にさしはさんで「紅の舌をまき出し」た大蛇が罪人をとって呑もうと待ちかまえている所で、これらに引きかえ、中の瀬は「金の橋」がかかっていて、善人の通る時は、橋巾が広がるといい、罪人が通ろうとしても、橋は髪の毛よりも細くなって渡るすべはないとする。これをみて、菩薩たちが、あわれみ、「あまの羽衣」をまとわせて渡そうととしても、橋は罪の重さに真ん中から折れ、奈落へ落ちる、とある」(*3)

 このような東宝特撮映画(死語だろうか)のごとき三途の川を、現代人の多くはもはや信じない。どころか、想像すらしていない可能性が高い。知り合い数名にどんな姿を心に抱いているかを問うてみたが、結局は誰もが穏やかな川辺を思い描くのだった。上の伝承を伝えると、え、蛇がいるんだ、襲ってくるの、やだなあ、困るなあ、とたじろぎ、目を白黒させるのが大概である。

 地獄絵と古文書に共通するのは「橋」であり、「魔物の襲撃」であり、「波」や「瀬」といった水の気配であるが、石井隆の三途の川に目を凝らすと「橋」は見当たらず、雨こそさめざめと降りしきれどまとまった水流はなく、とうぜん白波も立たず霧も湧かず、厳然と包丁で断ち切られたかの如き「垂直の縁(へり)」が覗くばかりである。萩原健一と内田裕也への手向けとして、描いた絵に三途の川が出現してもそれ自体に不思議はないのだが、その思念上の様相を「断崖」を連想させる「垂直の壁」として描く絵描きは極めて少ないように思われる。

(*1):twitterより 三久真空@mickmac70  2019年5月23日 引用については事前に了承をいただいております。ご快諾ありがとうございました。
(*2):「日本人と地獄」 石田瑞磨 春秋社 1998  162-163頁
(*3): 同 182頁


2019年6月19日水曜日

“地獄絵”~萩原健一、内田裕也追悼扉絵(4)~


 「消失点」は遠近法で用いられる技巧に過ぎない。聖性とか後光とも距離を置く。しかし、やはりこの石井隆の扉絵は想いをこめて中央に点を穿ち、人を愛することのまなざしと、消えていくより他ない宿命(さだめ)を描いて見えるのだし、“あの世”の入口を表しているのは間違いない。

 さて、そこで考えるのだが、私たちは“あの世”とその関所についてどの程度知っているだろう。肝胆相照らす相手と話していると、若い時分の過酷な体験を聞かされ仰天するときがある。登校中に大型貨物車の下敷きになってみたり、高所から落ちて身体を傷めて何ヶ月間も病床に伏した話を聞かされると、こちらは青ざめて声を失い、ひたすら目を丸くして拝聴するばかりだ。多くの人が既に何度も生死の汀(みぎわ)に足を踏み入れている。

 対する私にはまるで実感がないのだ。救急車の世話にならず、長期入院も全身麻酔の手術も、痛み止めの座薬すら経験がなく、せいぜい高熱を出して奇妙な夢に悩まされた程度の記憶しかない。“あの世”についてわずかな触感も持たずに来れたのは幸いとは思う反面、どうしても気後れを感じる。作家が全霊かけて紡いだ創作に対して、目線が定まらず、脇が自然とゆるくなる。何をどのように綴っても言葉が足らない、未熟を恥じる心持ちになる。

 そんな次第であるから、映画専門誌「キネマ旬報」の追悼特集を飾ったこの扉絵をさらに読み解く上では、どこか他から冥土の知識を補ってくるしかないと考えた。“あの世”関連の本を幾冊か手元に引き寄せ、週末に黙々と読んで過ごした。どれもが興味深かったが、中でもあざやかにイメージを移植されたのは「HELL 地獄」というやや大ぶりの美術書であり、寺院や博物館に保管されている地獄絵を舐めるが如く撮影し、一部は極大化して収めたものだった。(*1) 

 仏教の伝播と庶民への定着を狙って、この国の津々浦々で極彩色の地獄絵が繰り返し描かれてきた。黄泉の国に墜ちた亡者の群れを、醜悪な面構えの極卒が責めまくる。阿鼻叫喚の様相をこの本は異様な熱意で蒐集して展開しているのだけど、こちらとしては上の目的もあって頁をめくる手も自然と遅くなるものだから、その分ひたひたと体内への浸潤を許すものがあって、正直悪寒を覚えて何度か頁を閉じている。

 宗教画を観ることは嫌いな性質(たち)ではないから、機会を探ってこの手の絵を面前にすることはあるのだけど、ここまで延延と責め苦を見せられるとさすがに気分が悪くなる。潰し尽くす、斬り尽くす、食い尽くす光景の連続で、亡者たちの悲鳴や苦痛がじくじくと伝染してしまい、脳髄の奥の血管が腫れ上がる感じだ。事態が呑み込めないでいる嬰子(えいじ)さえも図版の片隅にぽんと捨て置かれていて、その徹底ぶりが何とも怖ろしい。信じたらもう終わりだな、と思う。

 真宗系の菩提寺に季節ごと詣でても、廊下や本堂の隅に地獄や幽霊の絵が掲げてあるのを終ぞ見たことがない。面と向かって説かれはしないが、信心さえ深ければ地獄には行かずに済む、念仏を唱えれば浄土にお迎えいただけます、地獄なぞ無いに等しいのだからどうか安心してください、という事だろう。弱虫の自分にはぴったりの感じながらも、こころの奥のどこかで地獄を信じ、その上で必死になって否定したがっている。

 信心がわずかでも揺らげば、肉親や縁者の御霊(みたま)はたちまち惨たらしい地の底にどしんと着地し、物音に気付いて目を剥く鬼たちの咆哮に心底怯えて右往左往しかねない。駄目だ駄目だ、信じちゃダメだ、想像の産物なのだ、これは寺院の策略だ、宣伝なのだと懸命に綱引きしながら黙々と頁を繰り続ける羽目になった。

 そんなこんなで眺めた地獄絵図の主たる色彩は、圧倒的に業火の放つ赤色であるのが印象深かった。地獄は巨大な炎が束となってうねり狂う、ひどく赤赤とした場処なのだ。石井隆は映画作りを「地獄めぐり」によく喩えるし、実際の性犯罪や暴力事件の被害者に触れて男性社会のなかで女性がどれ程の地獄を負っているかを切々と語り、その実態をフィルムに定着すべく骨を折っている。地獄は他界ではなくいくらでも現世に潜んでいて、淀んだその存在を無視して現代劇は作れないのだと考える。そんな石井の「境界上の生き地獄」を振り返ると、巨大な炎を焚きあげる展開の実に少ないことに驚く。

 乗用車が大型貨物車両や停泊中のタンカーに激突したり、栓がひねられてシューシューと可燃ガスが充満する部屋で電燈のスイッチが入れられて火花が瞬時に拡大したり、はたまた爆弾を着装した男がそれへ電気を自ら走らせて威勢よく砕け散っていく。過去の石井劇画にそんな炎に染まる場面を探し出すことは出来るのだし、『死霊の罠』(1988)や『黒の天使 vol.1』(1998)には激しい炎上が盛り込まれてあるにはあるのだけど、いずれも派手な跳躍をともない、どこか娯楽活劇の風貌があった。焼かれるのは自分側ではなく、手前勝手で非人情などこまでも粗野な男たちであって、彼らを焼く行為と風景にはどちらかと言えば「浄火」の趣きさえあった。

 石井が本気で描こうとする「生き地獄」には炎はそそり立たず、湿度の高い陰鬱な背景にこそ酷薄な行為が集中する。たとえば『GONIN』(1995)や『夜がまた来る』(1994)での湿度と暴力の融和していく場景がすぐに思い出される。近作『GONINサーガ』(2015)においては土壇場での爆発炎上の回避であり、あれはどんな意図が在ったのだろうかとしばしば考えるのだが、一種の「地獄づくり」が為されたのではないかと今は捉える。家族を喪った病身の男(竹中直人)が、劇終間際になって吸引用の酸素ボンベに向けて銃弾を撃ちまくり、その場の主たる登場人物と自分自身をすべて灰燼に帰すべく、まさに決死の覚悟で爆発炎上を目論んだのに対して、石井は何故か一発も被弾させずに無傷のままでボンベを温存し、その代わりに天井のスプリンクラーを起動させて室内を土砂降りにしている。

 日本の映画づくりの現場を絶えず脅かす予算の制約があったものかしらと当初は勘ぐったのだけど、どうもそれだけではないようだ。夢と慚悔の藻屑となり果てつつある「バーズ」をめぐる長い道程の終幕に、悪魔の哄笑めいた爆発音と炎の祝祭をあっさりと回避して雨をざぶざぶと降らせる背景には、あれは石井のなかで辿りついた一種の宣言だったのじゃないか。「地獄」というものと炎の明るさがどうしても馴染まないと結論づけたのだ。執念の作者たる石井の、いわば土台石が露出した瞬間でなかったろうか。

 煩悩の業火の勢いをせめて弱めようとする慈雨なのか、それとも滝のごとく降り止むことなくやがて窒息に至らしめる拷問か。ざんざん降りの雨のなか、男がおんなを、おんなが男を極卒の魔物と化して盛んに追い立て、互いを刀葉林へと誘い込む。血が雨と混じってまだらの渦を作って流れていく。生きているのか死んでいるのか判然としない濡れ鼠となった人間の胴体が、あちらにもこちらにも累々と転がるばかりだ。それが石井の中のぶれることのない地獄の実景なのだ。

 嗜虐愛好誌で当初連載され、後年加筆されて青年誌「漫画タッチ」に再登場した【魔奴】(*2)という劇画作品は、改訂の際に『GONINサーガ』同様の火焔の回避運動が起きている。郊外の森の奥に位置する、空に向けて尖塔を突き上げた装飾屋根が特徴的なモーテルを舞台に選び、大量殺戮に取り憑かれた管理人とそのモーテルにさ迷い入ってしまった娘との奇妙な共棲の時間を描いていくのだったが、劇の終幕で次々と室内に火が燃え移り、轟々と赤い光に建屋全体が染まっていったオリジナルの最期に対し、再構成された「漫画タッチ」版では大団円の舞台を暗く湿った地下空間に求め、火を起こさず、「生き地獄」の温存を図っている。

 簡単に地獄が消えるはずがないじゃないか、燃え尽きるわけがないじゃないか、周りを見てみろよ、この世の中をこの毎日をご覧よ、人間の住まう場処総て地獄じゃないか。その地獄を苦いつばを呑み込むようにして認め、その中でどう生き尽くすか、そういう事じゃないのかな。そんな声が聞こえるようだ。

 萩原健一と内田裕也両名の彼岸への出立を石井は彼なりに演出し、映画の一場面に模して描いてみせたのだが、この絵に取り込まれている死出の情景は萩原のものでも内田のものではない、まぎれもなく石井隆のそれである。追悼特集の扉絵という役割を超えて、石井世界の広大な裾野に連なっている点をこそ読み手は理解し、新作映画の予告を目撃したつもりで玩読せねば勿体なく、どうにもこうにも淋しい。

 消失点の先には雨が煙るばかりであり、地獄極楽絵にありがちな赤い炎の瞬きも金色の雲もたなびくことなく、妙にうら悲しい街灯(まちあかり)風の儚いものがぼんやり遠くに浮ぶだけである。手向けの場であるのに甘ったるい弔辞を口にせず、最期の最期まで役者を追いつめている。映画作りは「地獄めぐり」であり、映画で見送るということはこういう事だろうと容赦なく雨をざんざんと降らして、そんな酷い環境にだけ奇蹟的に花ひらく生涯忘れ得ない表情を渾身の力で切り取っていく。求めても詮無いことだが、こういう映画と表情、石井にほんとうに撮ってもらいたかったと切実に思う。

(*1):「HELL 地獄-地獄をみる-」 梶谷亮治、西田直樹、アートディレクター 高岡一弥 パイインターナショナル 2017
(*2):【魔奴】 「SMセレクト」 東京三世社 1978、「漫画タッチ」 白夜書房 再連載 1979



2019年6月15日土曜日

“消失点”~萩原健一、内田裕也追悼扉絵(3)~


 【図3】は銀幕の位置をそのままにして、それ以外の人物を残らず左へ幾らか移動した結果である。銀幕を斜めに切り裂く対角線および縦の中心軸と横の中心軸とが交差するところに仮に「中心点」と呼ぶものを置いてみれば、それはおんなの頭部と重なっているのが分かる。その「中心点」から放射状に線を引けば、おんなの髪や肩、コートの裾の膨らみと線の流れが一致すると共に、銀幕に投影された男たちの瞳の位置までもが見事に線上に配置されていると解かってきて、手前に佇む男たちと銀幕のバランスもすこぶる綺麗で申し分ないから、この一枚絵が当初はこのような明確な構図ありきであったと推測され、たぶんその想像は間違っていないという確信も湧くのである。

 皆さんのなかには美術学校を出られた人もいれば、現在も日々の魂の糧として画布に向かう人も交じると思うから、釈迦に説法と笑われるかもしれないけれど、私はこの「中心点」と放射線を見た瞬間にレオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinciの「最後の晩餐 Ultima Cena」(1495-98)を連想している。言わずと知れた傑作であるのだけど、あの壁画が中央に座る聖人の「こめかみあたりに打った釘に紐をつけて、その「点」からあちこちに引いた線に沿って、画面のあれこれを配置していった」(*1)ことはあまり知られていないように思う。「その制作の光景を想像してみると、絵を描いているというより、ほとんど機械を設計しているようにすら思えます。とにかくダ・ヴィンチは、そのようにして天井や壁や、壁に掛かった四角いタピスリー(?)などを遠近法の法則に基づいて描きました。」(*2)

 上に引いたのは遠近法をテーマにした布施英利(ふせひでと)の書籍であり、図版もこの本から借りている。リアリズムを重視した天才画家は「最後の晩餐」を「一点遠近法」もしくは「一点透視図法」と呼ばれる技法を駆使して丹念に描いたのだが、単に画家は建屋含めた背景の迫真性を増す目的だけで一点透視図法を採用したものだったか。布施の言葉に誘われるようにして古(いにしえ)の製作現場に想像の翼をはばたかせ、画家の背後に降り立って壁に張られた放射状に広がる糸を眺めていると、そこに単なる技法をこえた祈りや聖性を誰もが嗅ぎ取ってしまうのじゃないか。

 家族であれ組織であれ、人が人をそっと見守る行為において、視線(まなざし)は可視化されることなく、空虚だけが間を隔てるばかりであるのだが、もしも人の視線を実線にして表わすことが叶ったならば私たちの住まう世界は一体全体どうなるだろう。おびただしく熱い実線がつぎつぎに空間を横断し、想いの豊かさと烈しさに胸が締め付けられるのではあるまいか。また、光背(こうはい)、後光、頭光(ずこう)、ヘイローと名付けられた人智を超越した放射光を私たちは古今東西の宗教画に目撃するが、その存在を「最後の晩餐」の画家はまったく意識しなかっただろうか。構図と技法という最終的にはあまり目に触れにくい「不可視の形」にてそれ等を刷り込む意図はなかったろうか。

 そんな「最後の晩餐」と石井のこの度の扉絵を結びつけ、祈りと聖性の付随することを共に了解することはあながち見当違いではないように思われる。 

 「最後の晩餐」において、「聖者のこめかみに置かれた点」は技法上の呼び方では「消失点」と言う。手向けの絵として描かれた石井隆のこの不思議な絵の当初の構想において、石井は「消失点」をど真ん中に設定し、そこにおんなの頭部を置き、そのおんなを一直線に見つめる位置に男の両の瞳を並べている。雑誌の挿絵、たかがイラスト、たかが芸能人の似顔絵で終わることなく、真情をこめた宗教画を石井は贈ったのである。ここに聖人はいないが、人が人を愛することにともない直線的に相手へと放たれ空間を貫かれていく情愛の強さと、消失点にむけて真っ直ぐに歩むより他に道がない私たち人間という生命体ひとりひとりの宿命が説かれている。

 本来そのように設計された聖画が、右へ右へとずれてしまった事情は何であったのか。題字を組み込む編集者の意図を汲んだ結果なのか、中心軸に立つおんなの後ろ姿が雑誌の「のど」にすっかり呑まれて見えなくなるのを回避するためであったのか、その辺はまるで分からない。石井隆という繊細過ぎる作家のおそるべき深慮が最後の最後になって働き、鈍重な構図の安定を嫌い、消失点への道行きに抗い、もしかしたら型にはまらぬふたりの役者の昇天なのか消滅なのか、その行く末を製図上許さない事で、一種の「永遠」を刻印した可能性だってある。石井隆なら本気でそういう事をやりかねない。彼もまた天才であり、往々にして「不可視の形」で想いを刷り込むからだ。

(*1):「遠近法(パース)がわかれば絵画がわかる」 布施英利 光文社 2016 183頁
(*2):  同


“ずれて見えること”~萩原健一、内田裕也追悼扉絵(2)~


 妄想癖が強いわたしが何をそのとき想ったかと言えば、すなわちおんなのスカートが作る三角形が一種の道標(みちしるべ)となって、男たちを手招く役割を担って見えたのだし、端的にその膨らみ具合が矢印「↑」の山型の部分「∧」を露骨に表しているとしか見えなかった。おんなのよく張った臀部をいわば山頂標識とでも捉え、其処に目とこころを奪われ、ふたりの精悍なクライマーはひたすら登攀を重ねていく。この「絵物語」をそのようにまず仮定した。

 実際に対面したこともなく映像や誌面越しに眺めるだけの庶民が何を言っても的はずれになりそうだけど、萩原健一と内田裕也、ふたりの男を振り返るとき、誰もが甘い香りを幻嗅(げんきゅう)する。加齢臭など絶対にさせるものか、見栄を張らずにだらけ切って、そんなので生きているって言えるかよ、と人前での身なりにとことん注意し、適度な量と質の香水をそっと着けたのではなかったか。「色男」としての自覚を崩さなかった彼らがおんなの尻を追いかけて行く追悼特集の扉絵は、微笑ましくも本質を突いて感じられたし、そのような人が人に恋いすがることを主軸とした幾つかの主演映画が思い出されて、ああ、確かに彼らはそんな感じだったよな、と納得させられもした。

 さて、ここから先は相当に狂った自身の行ないの、半ばやけくそになっての吐露になるのだけど、構図上この絵がどうなっているかを徹底して吟味したくて矢も盾もたまらず、直接に定規をあてがったり採寸をすることを遂に止められなくなってしまった。すなわち山型「∧」を形成するおんなの腰がこの絵の中心に置かれていると勝手に想像し、そこに石井の秘匿された想いを予感したわけだ。雑誌の挿絵をそんな風にして調べる読者など一人もいないに違いないから、さすがに自分でも常軌を逸した振る舞いと感じる。他人から見たら随分と心配になるのではないか、いちど医者に診てもらった方が良い、君は物事に執着し過ぎだよ、たかがイラスト、たかが芸能人の似顔絵ではないか。

 絵画に造詣が深い人は薄々気付いていると思うが、要するにこの扉絵に私は綿密に組み込まれた構図線があると考え、たとえば「受胎告知Annunciazione」といった宗教絵画同様の深い意図に浸っていると信じた。世に知られたウフィツィ美術館所蔵のレオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinciとアンドレア・デル・ヴェロッキオ Andrea del Verrocchioとの共作(1472-75頃)ではなく、ルーブル美術館に収められているロレンツォ・ディ・クレディLorenzo di Crediの「受胎告知(1478頃)を想起したのだけど、あの絵の“不自然さ”と結びつくものを感じたのだった。

「一層様式的に完璧であり、神学的解釈も深まった、というべきであろう。ここでみごとなのは、遠近法的に引かれた線が、地平線に消失する際に、完全な二等辺三角形を作り、その横長の平面上に、天使と、マリアが等しい高さをもって、しかも、両者がともに敬虔にひざまずきあっているために、完全な左右相称形ができ上がっているということである。ここには、真に古典的なフォルムのバランス、合理的構成、遠近法的整合性がみられる。」(*1)

 美術史学者の若桑みどりが書く通り、マリアは天使に対して頭(こうべ)をたれ、そのうつむき加減がいじらしく、天使との厳かな時間を醸成すべく協力している様子が実に健気だ。しかし、立ち膝で安定した姿勢でいる左側の天使と比べ、マリアは両膝を地面にぴったりと揃えており、そのまま大きく膝から上の半身をぐっと前傾している姿には“不自然さ”が際立っていて、その分かえって印象に刻まれてしまう。マリアはやさしく微笑んでいるのだけど、こんな姿勢を続けていたら大概の人間はたちまち筋肉痛を訴え、形相は醜く歪んで、やがてばたりと前倒しになるに違いない。構図の安定を図るためにリアリズムに裂け目が生じているのであって、それと等しい壊れ方がこの度の萩原健一と内田裕也、両者の追悼特集で石井隆が描いた扉絵には点在するとにらんだのである。

 入手したばかりの本なので、インク臭も溌剌と匂い立ってすこぶる嬉しい。ちょっと可哀相にも感じたけれど仕方がない、力を入れて頁をめりめりと押し開く。さて、手を加えて実証に入らねばならないのだが、そうは言っても、いくら印刷物とはいえ石井の作品に直接線を引くことは大いに躊躇われたものだから、まずはコピー機で複写したその上に実線を引くことにした。これが【図1】である。本当は石井の絵をそのままにして油性のペンで線を引いてみたのだったが、ここではそのままを載せないことにした。石井のこの素晴らしい一枚絵は実際に当該雑誌(*2)を手に取り、ゆったりと眺めてこそ価値ある時間となる。縮写されたものであっても興味を萎ませ、本来の観る愉しみを奪うことはどうしても避けたい。下手で申し訳ないけれどトレースした輪郭線に変換し、ここでは思案を先に進めていく。


 見れば一目瞭然で、おんなの腰部分は右ページにあり、全然中心に置かれていないことが分かる。なんだよ、何が「受胎告知」と同じ神学的解釈、完全な左右相称形だよ、結局はいつもの思い過ごしじゃないか、おまえは本当に無駄な事ばかりをしているよね、リアルな別な愉しみをもっと探したらいいんじゃないの、夜の巷をさまよい歩いて実際の女性の背中でも追いかけちゃどうよ、と自分で自分を責め笑いつつ、でも諦め切れずに今度はトレース画を右に左に動かしていき、おんなのスカートの「∧」を無理矢理に中心部に置き直してみたのが【図2】であるが、どうやっても構図は安定せず、石井の絵の特徴である重心の低さともかけ離れていくばかりだ。

 そうする内に、もう一箇所不自然なところに気が付いてしまった。「映画」を投射された銀幕を前にして俳優ふたりが両脇にたたずむ形をとっているが、左の萩原健一の全身像と比して内田裕也のそれは“不自然に”右の縁(へり)に寄り過ぎている。誌面に収まり切れないアウトロー、はみ出し者を表現しているのだろうか。誌面に対してほぼ相似形の銀幕が中央にどんと陣取っているのに、どうして内田はここまでずれているのか。あれ、左の萩原もよくよく見れば妙である。銀幕側にかなり割り込んで立ってる。

 そこでようやく合点がいった。銀幕に映された要素、おんなの背中や男たちのアップといったもの、そして、その前で阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)の二体の金剛力士像よろしく左右にひかえた俳優ふたりの立ち姿のいずれもが誌面の中心軸から揃いも揃って何故かずれているのだった。

(*1):「マニエリスム芸術論」 若桑みどり 岩崎美術社 1980 242頁
(*2):「キネマ旬報 2019年6月上旬特別号 No.1811」 キネマ旬報社  ASIN: B07QLB7H9F 2019



“二等辺三角形”~萩原健一、内田裕也追悼扉絵(1)~


 萩原健一と内田裕也、強烈な個性に彩られたふたりの俳優が相次いで亡くなったことを受け、映画専門誌「キネマ旬報」が追悼特集を組んだ。(*1) その扉絵を石井隆が描いていることを知ってファンはざわめき、書店に走って対峙する時間を持った次第である。雨に濡れた情感あふれる絵、見た瞬間に石井隆の絵だと分かる、度肝を抜かれた、そのものがまるで映画のよう、拓かれたのは正にスクリーン、二人をスクリーンに甦らせるなんて何て痺れる弔いか(*2)。そのような反響がすぐにウェブ上にきらめき、はげしく瞬いた。

 わたしもその一人であったのだが、同時に石井隆のひさしぶりの「一枚絵」に強い関心を惹かれ、しばしの時間、思索にたゆたう成り行きだった。ここ数年、過去作のDVD再発売の際に、石井はパッケージ画の提供を要請された。雨雲を呼び込み、濡れた絵画を幾つも描いている。無数の滴(しずく)と、とぐろ巻いてもわもわ漂う硝煙が紙面を埋め、濡れた肌と髪が妖しく照り光った。むせび泣くがごとき秀抜なこれ等“役者絵”に遭遇してその都度戦慄の時間を持った訳なのだが、今回の扉絵ほどは考え込むことはなかった。

 役者の表情を定着させている点において、ここ数年来石井が挑んでいる肖像画や劇中場面のコラージュと似た面持ちではあるのだけれど、そこに留まらない真剣味が染み出て感じられた。創作活動の初期段階で石井は、どう受け止めて良いか分からない摩訶不思議な一枚絵を射出することが度々あったが、あれとどこか通底していて、軽々しく頁を閉じ日常に舞い戻る訳にいかなかった。

 何よりも瞳が吸い寄せられたのは、涙をひと筋流している色香あふれる萩原の顔でもなく、あぶら汗なのか雨なのかそれともその両方が混じったものなのか、たっぷりとした液体の筋が額に溜まる様子がいかにも剣呑な内田の顔でもなくって、その両人に挟まれて立つおんなの背中、いや、もっと絞り込んで言えば彼女が装着しているコートの下半分、腰のあたりがヨットの帆みたいに風をはらんで膨らんでいる様子である。

 はたしてここまでコートの裾(すそ)は鮮やかに広がるものであろうか。服装に無頓着な私はトレンチコートを購入したことがない。大概がベルト辺りまでのジャンバーであるのだし、冬の盛りに厚めのロングコートを着ても、戸外ではボタンやジッパーをあらかじめすべて締めて完全防備し、ああ、いやだ、寒いのはいやだ、雪の降らない街に引っ越したい、と恨み言をつぶやきながら背中を丸め、厭々と、のそのそと歩むばかりだ。薄手のお洒落な外套(がいとう)を羽織り、肩で風切って街路を突き進む場面など皆無だから、その辺の衣服の特性がまるで分からない。

 トレンチが一世を風靡した時期の外国映画を懸命に思い出そうとするが、こんなに綺麗に広がる様子を思い出せない。確かにゆらゆら、さわさわと裾が舞い踊ることは普通にあるだろう。たとえば、石井が脚本を担い盟友池田敏春が監督した『天使のはらわた 赤い淫画』(1981)は凍てつく季節を舞台としており、観賞中に頬のあたりが涼しくなる具合だったけれど、そのなかで主演女優がコートの裾を揺らめかせ、寒気に抗して歩く場面がとても印象深かった。それでもこの絵のようには決して広がらなかったように思うが、はたして記憶違いだろうか。単にわたしの経験値の低さがそんな連想に誘うものだろうか。

 ここには絵描き石井隆の自由で大胆な筆の運びが認められるし、読み手である私たちに無言のうちに伝えようとするものが潜んでいる。つまり、良い意味での“不自然さ”があって、活発な思索と創造の痕跡としてどうやら提示されている。

 思えば一枚絵だけでなく、劇画についても常に“不自然さ”は在りつづけた。石井劇画の作風はこれまで何度か変化を遂げているが、初期作であれ中期の作品であれ、独特の“不自然さ”が時にハイパーリアリズムの劇中に出現して私たち読者の目と感情を深々と貫いた。何だろう、変だぞ、何て描写だと息を呑ませ、コマの上での滞空時間を引き延ばされ、さらなる凝視を余儀なくされるのだった。胸の奥にいつまでも貼り付いて煮こごる具合となり、反芻と咀嚼を何度もうながした。安易に読み捨てることを躊躇わせ、他の扇情主体の劇画群とは別次元の解釈を強いてくるのが常だった。

 たとえば【紫陽花の咲く頃】(1976)で夜道を急ぐおんなが急襲され、背後から男に抱きつかれた一瞬におんなのスカートが不自然なぐらいに裾を延ばす様子であるとか、【闇が降る】(1983)で暴行を受けた後のおんなが気落ちする自分自身を奮い立たせるべく激しく頭(かぶり)を振り、髪を直線状にたなびかせる仕草であるとか、石井の劇には物性を超越してひどく歪んだり広がる物が散見されるのであって、今回の極端に広がって二等辺三角形を綺麗に形作るコートも、たぶん、その特徴的な現象の一環に置かれている。

(*1): 内田裕也 2019年3月17日死去、萩原健一  2019年3月26日死去
「キネマ旬報 2019年6月上旬特別号 No.1811」 キネマ旬報社  ASIN: B07QLB7H9F 2019
(*2):いずれもtwitterより




2019年5月3日金曜日

“輪廻の酒”~歓喜に近い愉悦~(11)


 宮武外骨(みやたけがいこつ)の「小便考」という小文で知ったのだが、漢方薬には何と人尿が含まれる。「調合法は古来医家の秘伝となっていることだが、おおむねそのままで飲むのでは無く、よく日や風にあてて乾かした上、瓦で焼いてそれに生姜を入れて徐々(そろそろ)服用する」(*1)とあるから、どうやら粉末状であるらしい。工場直送の生ビールみたいにぐいぐい呑むのじゃないらしいけれど、さすがにちょっと驚いた。いくら加熱され香味を加えられても、どこの誰が出したか分からぬそれをよく口に出来たものだ。古来の中国人の探求心は底知れないし、病人が藁をつかむときの握力は凄まじい。

 さすがに人尿とか小便では響きが悪く売り物にならないから、「輪廻酒(りんねのさけ)」「還元湯(かんげんとう)」と名付けられた。言葉は魔術の一種であり、容易に人のこころを変えてしまう。名称だけ見れば、輪廻の酒とは実に壮大で酔い心地もすこぶる良さそうではないか。

 石井隆の世界にもしっくり来る気がする。昇天を許さず、この地上という煉獄にずっと縛られたままで「死」だけを絶えず繰り返す石井の劇であるから、宗教色の強い「生まれ変わり」を単純に描いている訳では当然ない。彼らは輪廻転生を易々とは信じない。生まれ変わればやり直しが利くとは一切考えず、だから宗教にすがらない。輪廻応報については時に疑ったりするのか、どうしてこうも自分はついていなのかと嘆息し、ちょっとだけ神の名をつぶやき祈ったりしながら暮らしていく。

 「輪廻」という響きが直接石井隆の創る男なりおんなを想起させることは全然ないのだけど、その劇中に登用された小水にはこれぐらい深甚な呼び名がふさわしいように思う。つまり人生と直結した私たちの一部という意味合いにおいて、そんな呼称が似合うのだ。人にだまされ、組織に揉まれて衝突し、慟哭し、すれ違う。彼らは時流に弄ばれ、乾いた現実と闘いながら、昼夜を問わず涙のようにとろとろと輪廻の酒を流し続ける。

 きざな麗辞は似合わないかな、小便は小便だ。繰り返しになるが石井隆の描く人生は華やいだものではなく、小便まで付いて回る低空飛行なんだけど、人間を人間として描く劇として至極まともじゃないか。我々は小便まみれの人生を送っているのだから、銀幕を眺めながら時には扉奥の小部屋までカメラに踏み込んでもらい、そこに生まれ落ちる素の表情と声がないと物足りないと思う。もういい、疲れた、全部リセットしちゃいたいな、そんな気分に襲われながらも、なにくそ、こん畜生め、と便座に座り直し、生きている証しである液体をほとばしらせる。そんな様子を映し出す等身大の劇を石井は創りつづける。だから信頼出来るのだし、つよく惹かれていく。石井のすっぴんの劇は表層ばかり重視する化粧まみれのクレバスを跨いで、悠然と時代を渡っていく。

(*1):「小便考」 宮武外骨 「滑稽新聞 第159号」滑稽新聞 1908 「厠と排泄の民俗学 歴史民俗学資料叢書 第二期」 礫川全次 編  批評社 2003所載 36-37頁 旧仮名遣いを一部現代のものに換えている