2019年6月15日土曜日

“ずれて見えること”~萩原健一、内田裕也追悼扉絵(2)~


 妄想癖が強いわたしが何をそのとき想ったかと言えば、すなわちおんなのスカートが作る三角形が一種の道標(みちしるべ)となって、男たちを手招く役割を担って見えたのだし、端的にその膨らみ具合が矢印「↑」の山型の部分「∧」を露骨に表しているとしか見えなかった。おんなのよく張った臀部をいわば山頂標識とでも捉え、其処に目とこころを奪われ、ふたりの精悍なクライマーはひたすら登攀を重ねていく。この「絵物語」をそのようにまず仮定した。

 実際に対面したこともなく映像や誌面越しに眺めるだけの庶民が何を言っても的はずれになりそうだけど、萩原健一と内田裕也、ふたりの男を振り返るとき、誰もが甘い香りを幻嗅(げんきゅう)する。加齢臭など絶対にさせるものか、見栄を張らずにだらけ切って、そんなので生きているって言えるかよ、と人前での身なりにとことん注意し、適度な量と質の香水をそっと着けたのではなかったか。「色男」としての自覚を崩さなかった彼らがおんなの尻を追いかけて行く追悼特集の扉絵は、微笑ましくも本質を突いて感じられたし、そのような人が人に恋いすがることを主軸とした幾つかの主演映画が思い出されて、ああ、確かに彼らはそんな感じだったよな、と納得させられもした。

 さて、ここから先は相当に狂った自身の行ないの、半ばやけくそになっての吐露になるのだけど、構図上この絵がどうなっているかを徹底して吟味したくて矢も盾もたまらず、直接に定規をあてがったり採寸をすることを遂に止められなくなってしまった。すなわち山型「∧」を形成するおんなの腰がこの絵の中心に置かれていると勝手に想像し、そこに石井の秘匿された想いを予感したわけだ。雑誌の挿絵をそんな風にして調べる読者など一人もいないに違いないから、さすがに自分でも常軌を逸した振る舞いと感じる。他人から見たら随分と心配になるのではないか、いちど医者に診てもらった方が良い、君は物事に執着し過ぎだよ、たかがイラスト、たかが芸能人の似顔絵ではないか。

 絵画に造詣が深い人は薄々気付いていると思うが、要するにこの扉絵に私は綿密に組み込まれた構図線があると考え、たとえば「受胎告知Annunciazione」といった宗教絵画同様の深い意図に浸っていると信じた。世に知られたウフィツィ美術館所蔵のレオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinciとアンドレア・デル・ヴェロッキオ Andrea del Verrocchioとの共作(1472-75頃)ではなく、ルーブル美術館に収められているロレンツォ・ディ・クレディLorenzo di Crediの「受胎告知(1478頃)を想起したのだけど、あの絵の“不自然さ”と結びつくものを感じたのだった。

「一層様式的に完璧であり、神学的解釈も深まった、というべきであろう。ここでみごとなのは、遠近法的に引かれた線が、地平線に消失する際に、完全な二等辺三角形を作り、その横長の平面上に、天使と、マリアが等しい高さをもって、しかも、両者がともに敬虔にひざまずきあっているために、完全な左右相称形ができ上がっているということである。ここには、真に古典的なフォルムのバランス、合理的構成、遠近法的整合性がみられる。」(*1)

 美術史学者の若桑みどりが書く通り、マリアは天使に対して頭(こうべ)をたれ、そのうつむき加減がいじらしく、天使との厳かな時間を醸成すべく協力している様子が実に健気だ。しかし、立ち膝で安定した姿勢でいる左側の天使と比べ、マリアは両膝を地面にぴったりと揃えており、そのまま大きく膝から上の半身をぐっと前傾している姿には“不自然さ”が際立っていて、その分かえって印象に刻まれてしまう。マリアはやさしく微笑んでいるのだけど、こんな姿勢を続けていたら大概の人間はたちまち筋肉痛を訴え、形相は醜く歪んで、やがてばたりと前倒しになるに違いない。構図の安定を図るためにリアリズムに裂け目が生じているのであって、それと等しい壊れ方がこの度の萩原健一と内田裕也、両者の追悼特集で石井隆が描いた扉絵には点在するとにらんだのである。

 入手したばかりの本なので、インク臭も溌剌と匂い立ってすこぶる嬉しい。ちょっと可哀相にも感じたけれど仕方がない、力を入れて頁をめりめりと押し開く。さて、手を加えて実証に入らねばならないのだが、そうは言っても、いくら印刷物とはいえ石井の作品に直接線を引くことは大いに躊躇われたものだから、まずはコピー機で複写したその上に実線を引くことにした。これが【図1】である。本当は石井の絵をそのままにして油性のペンで線を引いてみたのだったが、ここではそのままを載せないことにした。石井のこの素晴らしい一枚絵は実際に当該雑誌(*2)を手に取り、ゆったりと眺めてこそ価値ある時間となる。縮写されたものであっても興味を萎ませ、本来の観る愉しみを奪うことはどうしても避けたい。下手で申し訳ないけれどトレースした輪郭線に変換し、ここでは思案を先に進めていく。


 見れば一目瞭然で、おんなの腰部分は右ページにあり、全然中心に置かれていないことが分かる。なんだよ、何が「受胎告知」と同じ神学的解釈、完全な左右相称形だよ、結局はいつもの思い過ごしじゃないか、おまえは本当に無駄な事ばかりをしているよね、リアルな別な愉しみをもっと探したらいいんじゃないの、夜の巷をさまよい歩いて実際の女性の背中でも追いかけちゃどうよ、と自分で自分を責め笑いつつ、でも諦め切れずに今度はトレース画を右に左に動かしていき、おんなのスカートの「∧」を無理矢理に中心部に置き直してみたのが【図2】であるが、どうやっても構図は安定せず、石井の絵の特徴である重心の低さともかけ離れていくばかりだ。

 そうする内に、もう一箇所不自然なところに気が付いてしまった。「映画」を投射された銀幕を前にして俳優ふたりが両脇にたたずむ形をとっているが、左の萩原健一の全身像と比して内田裕也のそれは“不自然に”右の縁(へり)に寄り過ぎている。誌面に収まり切れないアウトロー、はみ出し者を表現しているのだろうか。誌面に対してほぼ相似形の銀幕が中央にどんと陣取っているのに、どうして内田はここまでずれているのか。あれ、左の萩原もよくよく見れば妙である。銀幕側にかなり割り込んで立ってる。

 そこでようやく合点がいった。銀幕に映された要素、おんなの背中や男たちのアップといったもの、そして、その前で阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)の二体の金剛力士像よろしく左右にひかえた俳優ふたりの立ち姿のいずれもが誌面の中心軸から揃いも揃って何故かずれているのだった。

(*1):「マニエリスム芸術論」 若桑みどり 岩崎美術社 1980 242頁
(*2):「キネマ旬報 2019年6月上旬特別号 No.1811」 キネマ旬報社  ASIN: B07QLB7H9F 2019



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