2019年6月28日金曜日

“水なし川”~萩原健一、内田裕也追悼扉絵(5)~


 石井隆の筆による扉絵の載った「キネマ旬報 2019年6月上旬特別号」が店頭に並んで間もなく、さまざまな反応がウェブ上に起きたことは先述のとおりである。中にはさらに一歩踏み込んで絵を構成する要素に細かく言及する人もあった。「ショーケンの肩から腕に見える箇所は、コートの裾あたりで雨の流れるタッチが変わっている…右側にはドラム缶のようなものが見える」(*1) 

 教わるまでドラム缶の存ること、まるで判らなかった。てっきりトレンチコートの肩章(エポレット)もしくは袖飾り(スリーブストラップ)かと思ったのだ。違和感を覚えながらも多分そんなものかと勝手に決め付け、思念からきれいに捨て置いて中央に立つおんなの腰辺りばかりを睨んでいた。私の目は節穴だ。

 さて、よくよく見れば確かにドラム缶なのだけど、それがわざわざ男たちの肩や腕のラインと見紛(まが)う傾斜で配置されており、これは意図的な混迷を目論んで見える。石井の一枚絵の中には時折、視座を換えることでまるで違った風合いを帯びてくる作品があるのだけど、この扉絵には独特のそんな筆遣いが明らかだ。特殊な想いを託しているぞ、どの程度まで貴方は感じ取れるかな、と、我々に向け奇才が挑発している。江戸時代の判じ絵ともジュゼッペ・アルチンボルド Giuseppe Arcimboldo の寄せ絵にもどこか似た前傾の闘志をそなえていて、観る者の目を愉しませる。

 ドラム缶をわざわざ置いたのは「男たちの肩や腕」と「おんなの立つ足元」との二重映しに気付かせる工夫だろうか。先のウェブ上での記述者も触れているのだが、「雨の流れるタッチが変わっている」ことから地面の形状や質感につきこの絵は意識的にこっそりと語ってみせ、石井はそこ見ろよ、変だろう、ちゃんと気付けよ、と告げている訳である。溜まった雨水が流れ落ちる垂直に近い傾斜を繊細なタッチが物語っており、役者ふたりの追悼特集である点からしてここで私たちが想起すべきは何かと言えば、階段でもなければ波止場の桟橋でもなく、死者が渡るとされる三途の川と相成る。

 それが一体どうしたんだよ、いちいち五月蝿いやつだな、と思うかもしれないが、私のなかには「垂直の縁(へり)」と三途の川がどうにも連結しにくく、これが石井の内部で無理なく成立し、また、それを衆人環視のもとで具現化されていくのが愉快に感じてしまう。こんな三途の川ってあるのだろうか。

 これを読む貴方の想い描く三途の川は、果たしてどのような顔付きだろう。おお、あれがそうか、なるほどなるほど、と目の前にゆらゆらと見えてくる黄泉路の出発点はどんな景色か。水の面(おもて)との高低差はどうだろう。私の夢想するのは角の取れた丸い石がごろごろした岸辺であり、その脇には音も無く暗い川面(かわも)がのっそりと横たわっている。そこに段差は感じられない。中川信夫の『地獄』(1960)に代表される映像作品の影響もあるだろうが、草木の生えていない、起伏なくべろんと広がる空間が目に浮かんでくる。自分だけの想像の姿を計尺棒に使って話を先に進めるのはすこぶる危険と承知しているのだけど、直角にちろちろと漆(うるし)の汁ごとく雨水の垂れつづける川辺というのが不思議に見えて仕方がない。

 宗教書では三途の川をどのように活写しているのか。石井は持ち前の探求心から地獄極楽絵を調査し、その再現に努めたものだろうか。貼り付けた画像は京都の西福寺に伝わる「熊野観心十界曼陀羅(くまのかんしんじっかいまんだら)」(16-17世紀)の一部で、死者が川辺に到着し、下穿き一枚以外の衣服をすべて奪衣婆(だつえば)に手渡す様子が描かれている。信仰心の厚い者は、さあさあ、服は脱がずに結構ですよ、どうぞそのまま前にお進みください、と、極楽に至る橋をガイド付きで渡れるのだが、そうでない者は水に飛び込み、泳いで向こう岸まで渡らねばならない。川には凶暴な龍や大蛇が巣食っていて、自由の利かない亡者を次々に襲っていく。引用元は先に取り上げた「HELL 地獄」(パイインターナショナル 2017)であり、他に収録された絵もほぼ似たような構図と内容になっている。

 この絵と同様の文章表現が「長宝寺よみかへりの草紙」にあり、それを仏教学者の石田瑞麿(いしだみずまろ)が「日本人と地獄」という本でかみ砕いて説明しているのだが、書き写せば次の通りである。永亨十一年(1439)年に突然意識を失った慶心房という者がいて、蘇生を果たして後、あちら側で見聞きした事を克明に語るようになった。その一部を記録したとの由来である。

「死出の山を過ぎると、大きな三つの川があり、これが三途の川だと見せられる。黄金(こがね)・銅(あかがね)・銀(しろがね)の三つの橋がかかっている。黄金の橋は仏の橋で、極めて尊い方の渡るところ、銀と銅の二つは善人がわたる橋という。蓮華が咲き、波も静かな川にかかる黄金の橋にひきかえ、遥か下流には鉄(くろがね)の橋が一つ見える。細い金鎖(かなぐさり)の橋で、獄卒は罪人に渡れ渡れと責めつけ、さいなむ。渡ろうとしても足も身も支え切れず、手足でとりついても、炎が金鎖に燃えとおって、たまらずあお向けになるさまは蜘蛛の巣にかかった虫のようである。また巧みに渡り切ろうとすると、河は波立ち荒れて、高さ三十町にも立ちあがるから、波にさらわれて落ちて行く罪人の立てる音は千万の雷鳴の響きに似て、肝・魂も奪われるほどの恐ろしさである。しかも、波間には高く角をはやした大蛇が眼を爛爛(らんらん)と輝かせ、口を開けて呑もうと待ちかまえ、河底には剣が隙間なく林立している。」(*2)

 石田は他の伝承も紹介する。「天狗の内裏」と呼ばれる室町期のものは牛若丸が大天狗に導かれて地獄を覗く話というから、かなり創作めいて感じられ、上の体験記とは色彩が異なるのだが、古き日本人が抱いてきた三途の川のイメージをより補強するように思う。

(三途の川とは)「上の瀬、下の瀬、中の瀬の三つの総称で、上の瀬に「ばんみん鳥」という(中略)黒い鳥が罪人の脳をくだこうと待ちかまえている所、下の瀬は「千筋のつるぎ」を「ひれ(鰭カ)」にさしはさんで「紅の舌をまき出し」た大蛇が罪人をとって呑もうと待ちかまえている所で、これらに引きかえ、中の瀬は「金の橋」がかかっていて、善人の通る時は、橋巾が広がるといい、罪人が通ろうとしても、橋は髪の毛よりも細くなって渡るすべはないとする。これをみて、菩薩たちが、あわれみ、「あまの羽衣」をまとわせて渡そうととしても、橋は罪の重さに真ん中から折れ、奈落へ落ちる、とある」(*3)

 このような東宝特撮映画(死語だろうか)のごとき三途の川を、現代人の多くはもはや信じない。どころか、想像すらしていない可能性が高い。知り合い数名にどんな姿を心に抱いているかを問うてみたが、結局は誰もが穏やかな川辺を思い描くのだった。上の伝承を伝えると、え、蛇がいるんだ、襲ってくるの、やだなあ、困るなあ、とたじろぎ、目を白黒させるのが大概である。

 地獄絵と古文書に共通するのは「橋」であり、「魔物の襲撃」であり、「波」や「瀬」といった水の気配であるが、石井隆の三途の川に目を凝らすと「橋」は見当たらず、雨こそさめざめと降りしきれどまとまった水流はなく、とうぜん白波も立たず霧も湧かず、厳然と包丁で断ち切られたかの如き「垂直の縁(へり)」が覗くばかりである。萩原健一と内田裕也への手向けとして、描いた絵に三途の川が出現してもそれ自体に不思議はないのだが、その思念上の様相を「断崖」を連想させる「垂直の壁」として描く絵描きは極めて少ないように思われる。

(*1):twitterより 三久真空@mickmac70  2019年5月23日 引用については事前に了承をいただいております。ご快諾ありがとうございました。
(*2):「日本人と地獄」 石田瑞磨 春秋社 1998  162-163頁
(*3): 同 182頁


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