2019年10月6日日曜日

“至彼岸(とうひがん)”


 締め忘れた窓からガガンボが入り込んで、長い脚をゆらつかせながら天井のランプ周りを飛び回わっている。こちらの顔めがけて急に接近したりして、気に障ることこの上ない。いっそ薬を撒いて退治してしまおう、と以前なら単純に考えもしたけれど、何となくそれもしづらい低空飛行の気分が続いている。

 羽虫はパタパタと行きつ戻りつしながら騒いでいたが、疲れたのか壁にとまって動かなくなった。そこを見はからって忍び寄り、プラスチック製の食品容器の空いたものとやはりその辺にあったマンションの広告か何かの固めの紙をフタ代わりにして捕獲を試みたところ、手足をもぐ事もなく無事に収まった。そのまま戸外に出て、街灯の下まで運んで逃がしてやる。成虫になってからの彼らの寿命は短くて、せいぜい十日前後と書いてあるのをウェブでいま読んで、なんだか淋しさに追い討ちがかかる。生はまばゆく逞しく、同時にひどく希薄である。あっという間に時は過ぎ、何もかもが死に絶える。

 誰でもそういう傾向はあるだろうが、ついつい生死(しょうじ)やら葬祭に視線が捕まってしまう。それが最近ひどく粘りついて仕方がない。映画を観ていても墓地や葬儀の場面に出くわすと神妙な気分になる。興味や好奇心というのではなく、もうちょっと切実なものとして自然と目を凝らしていき、人生という演し物の千秋楽の成り行きを見守ってしまう。大概は湿った黒土が靴裏にぐにゃり広がり、時にもっさりと茂った草々が足元を霞ませる、ぱっとしない、なんとも茫洋とした景色だ。興奮を誘い、官能に酔い、涙に溺れる、幾つもの趣向を凝らした華やかな場面が頭の隅から徐々に脱け落ちてしまっても、重い墓石とその前に佇む人という平坦この上ない構図が鮮明に記憶に在り続ける。

 ずいぶんと以前に観た欧州の作品では、乱雑に配置された墓石が目に刻まれた。小道に沿ってきちんと整列するとか、東なら東、南なら南を皆そろって向くように墓所という場処は頑固に仕切られているものと思ったのだが、そのドイツ映画では石の面(おもて)があちこち違った方角を向いて、その場の総てが脱力して見えた。(*1) また、こちらは最近劇場で観たのだったが、同じくドイツの作品では火葬した後の骨や灰をぬか床か梅干用みたいな無愛想な陶器の壺(つぼ)に詰めて、掘った穴に落とし込んでしまうと、今度はこれまた漬け物の重石みたいな無表情の碑をぽんと置いて弔いを終えるのだった。(*2)

 衝撃という程ではなかったが、なんだか随分と気持ちに引っ掛かった。戦禍の記憶を慎重に語り継ぎ、生活の信条や政治活動の根幹に倫理感をどすんと置いた彼らは、はたして弔いという行為をどう考えているのだろう。死をどう捉えて暮らしているのか、墓場は精神の沃野(よくや)にとってもはや用済みの、不毛な見捨てられた場処なのか。あまりに凄惨な記憶が死というものに耐性をあたえ、墓場にしげしげと足を運んだりする、そんな慣習自体がもう途絶えたのだろうか。両作共に庶民レベルのささやかな、どちらかと言えば困窮気味の生活を描いた物語だったから、費用を捻出できない様子をことさら強調すべく、あえて奇矯な葬送の様相を示したのかしらん。

 いつまでもすっきりしないで悶々としたのだったが、この疑問に答えてくれる論文がようやく見つかる。大谷弘道氏による「ドイツ人の弔い感覚」という文章で、読んでかなり気分が落ち着き、あれこれ合点もいったのだった。死者に対して透徹したまなざしを注いだ結果、彼の国の住民たちは私たちの及ばない境地を獲得したようである。

 亡き家族や知人に対する想いが淡白というのではないが、私たち日本人のようには墓を扱わないのである。私たちのように死者の身体をひたすら神聖視したり、どこまでも歳月を越えては敬わないのである。土に帰り、消滅することを恐れず、目をそらさず、その帰結を無視するのではなく十分に理解した上で、生きて活動することの有限である点こそを了解し、その奇蹟を前向きに享受することを暮らしの主軸にしたのである。墓に対して力むことを止めて、肩の緊張をすとんと抜いていこうと決めたのだ。先の映画に点描されていたのは、実際のドイツ国の精神風土に基づいた当たり前の景色なのだろう。

 ご覧のような体たらくで軌道をなかなか元に戻せないでいるのだが、どうせならこのままぐずぐずと生死(しょうじ)に対して固着しつつ、束の間、石井隆の世界を探って行こうと考えている。頭が少しおかしくなった男の文章なので、世間に発信するに価しないかもしれないけれど、また、恥の上塗りかもしれないけれど、等身大のわたし達に及ぼす石井の劇の波紋は、それ自体もまた石井隆の世界の一端であると信じている。

 「魂のこと」は表層の物象とは違うから、石井隆を語ることではなく、受け手である私を語る時間に割かれるかもしれない。どうなるか分からないけれど書き進めてみたい。

(*1):『素粒子』 Elementarteilchen  監督 ‎オスカー・レーラー 2006 
(*2):『希望の灯り』 In den Gängen  監督 トーマス・ステューバー 2018
(*3):「ドイツ人の弔い感覚」 大谷弘道 慶應義塾大学日吉紀要. ドイツ語学・文学 (慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会) ( 48 ) 21 - 37  2011 以下のページからダウンロードして読むことが可能だ。当今新聞や雑誌で取り上げられ、世間の関心も高まっている「墓じまい」「永代供養」「樹木葬」といった話題とも連結し得るリポートであるから、もう若くない人は目を通しても無駄ではないと思われる。 http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10032372-20110331-0021

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