石井隆の劇には、決まって“黄泉路捜し”がある。たとえば、『赤い縄 果てるまで』(1987 監督すずきじゅんいち)の終幕を飾った雨煙る樹林には、おんなの肌から立ち昇る生の充実と共に、甘く粘っこい死出の手向けがむせ返るほど薫ったし、『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)で主要登場人物の一行が揃ってたどり着いた巨大な石切り場は、石井渾身の造形にして典型的な冥界だった。
そこに金銀財宝は眠っていない。どころか、鮮血の生臭さや肉片がもたらす腐臭が風に乗って襲い来る始末だ。しかし石井はその先にこそ、純度ある魂が横臥する静謐な場処が準備されると囁く。己の運命やこれまで向き合った親しい人を思い返す転回点と位置付けられる、そんな死場処が連なって在る。私たち受け手は“墓盗人”となる覚悟でこれに踏み込み、彼ら死人と共に黒い結露を吸わねばならない。
『GONIN サーガ』(2015)に触れて石井は、「墓」という表現を使って劇中の舞台を語っていて、その事が指差すのは当作品の真髄の在り処だ。「『GONIN サーガ』ではさらに床下が出てきて、“地下墓所”の底で物語が展開する。言ってみれば、あの世にもこの世にも属さない場所ですが。なぜか冥府に惹かれるんです。」(*1) クラブ「バーズ」のダンスフロアの真下こそが黄泉路であった。
秘かに息づき、立つこともままならぬ窮屈な床裏。観客を大いに戸惑わせた、いつ果てるとも知れない潜伏シーンであった訳だけれど、私たちは石井がそこに横穴墓(よこあなぼ)の役割を投射していた点を改めて意識し直し、再度目を凝らして良いように思われるし、その作業を経ずして『GONIN サーガ』の鑑賞は完了しないだろう。
石井の近作を振り返れば『花と蛇』(2004)には“天使”を模した呼び鈴があり、“ゴルゴダ”が再現され、『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)では“ドゥオーモ Duomo”という響きが全篇を彩り、『フィギュアなあなた』(2013)には重力のくびきを解かれた死者が“ウェルギリウス”並に舞い踊った。『甘い鞭』(2013)で横棒に縛られ鞭打たれる少女の姿は、見るもの全員に“磔刑”を想起させるべく企てられたのは明らかだ。拝跪にも近しい切実さを湛えて、このところの石井は血まなこになって聖画をフィルムに編み込んでいる節がある。これ等に続くかたちで発表された『GONIN サーガ』に、宗教的な題材が一切刷りこまれていないと考える方がよほど変な話だ。
「墓」での横臥が三日間に渡って行なわれ、その後、フタをこじ開けて地上に這い登る子供たちの姿には“復活”が重なって見えはしないか。柄本祐演じる重傷を負った警官に蛆たかる描写(映画では直接写さずに音と気配で示している)を執拗にくり返す石井の筆先には、黄泉国(よもつくに)で “宇士多加礼許呂呂岐弖(うじたかれころろきて)”と描写されるイザナミ(伊邪那美)の当惑と哀しみが宿ってはいなかったか。(*2)
前者は死者の帰還であり、後者は生者との永別が描かれる。劇のクライマックスで私たちは死と生が烈しく牙剥き、共食いし、雨の中でのたうちまわる様子を目の当たりにして、訳もなく涙を流していたのだけど、考えてみれば強靭な神話を、もしかしたら二つも裏縫いした物語が『GONIN サーガ』であった可能性もあるわけで、そうであれば胸つぶされ喘ぐのは自明であってまったく不思議はない。
例によって勝手な妄想と笑われるかもしれないが、イザナミの方はともなく、「四日後」と定められた結婚披露宴に向けて走り出す後半の“不自然さ”はどうだ。警官が虫の吐息で「二日と5時間……」と答える辺りの耳朶に残る日数の強調は、物語上ではなく、物語に潜在するものとして強固な必然が宿っていたように思われる。
(*1):「『GONIN サーガ』劇場用プログラム」 KADOKAWA 2015 「監督 石井隆」 取材・文 轟夕起夫
(*2):「GONIN サーガ」(石井隆 角川文庫 2015)の中には、傷にたかる蝿の幼虫の凄惨な場面が幾度も描かれている。まず、「蝿がブンブン唸っている」のに対して「申し訳ないです。腐り具合はどうですか?」(328頁)と答え、やがて「腹と脚はもう腐り掛けていて、(中略)床が液体で濡れ光り、異臭を発し、ブンブンと銀蝿が飛び回っている」(336-337頁)状態になり、死期を悟った警官は「蛆が這う大腿部を見下ろしながら」(347頁)もはやそれを追い払おうとする気持ちもなく、淡々と喋り続ける。「蒼白な顔でジッと脚を這う蛆を見ているだけ」(349頁)となり、遂に蛆は「腐りかけている慶一の死肉を食らいに集っている蝿」へと羽化して殺し屋へと飛び立ち、暴力組織「全滅」への仕上げにかかる。
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