2016年2月6日土曜日

黄泉路(1)~【おんなの街 赤い眩暈】のトンネル~


 お役御免となったがらんどうの倉庫や坑道を覗いたり入ってみるのは、恐いし勇気がいる。過日訪ねた鉄道操車場跡にも湿ったほこりが充満して、さわさわと首筋を撫でられるようだった。そういえば石井隆「タナトス四部作」の一篇、【おんなの街 赤い眩暈】(1980)の中にも、造作は異なるけれど荒涼としたトンネルが描かれていた。地震に遭って転倒し、しこたま頭を打ったおんなが死出の路を歩む。冥府めぐりの入口は人気のないトンネルであり、おんなの痩せた背中を包み込んで闇が渦巻いていた。

 穴蔵やトンネルを生死の境界と設定する劇や小説は他にもあって、【赤い眩暈】の描写は特別なものではない。古くから人は冥府や幽霊の出現を暗がりに疑い、かずかずの作品に書き残している。映画の舞台に選ばれることも多い。(*1) もしかしたら闇の一段と深いへりには霊体か何かが巣食う可能性はゼロではないけれど、一方、どうしてこんな現実の淋しく、辺鄙な場所に彼らが住まい続けると言えるのか、考えてみれば理屈に合わない。

 時を越え、場所を問わず、特定の人にいつまでも憑きまとうと言われる人魂が、山奥の廃屋やトンネルに集うというのは無理な話だ。うら若い女性ならともかく、私みたいな変人の来訪をひたすら待つというのも妙だ。凡庸な風采の中年男がのそのそ近寄って来ては、きっと彼らだって不安だし迷惑だろう。さっさと引っ越すはずじゃないか。

 被験者に何十日も寄り添い、幻影の出没するタイミングをこまめに調べた研究から導かれた結論なのだが、暗闇に閉ざされた場処に長時間拘束され、はたまたギブス等で自由を奪われ続けると神経が極端に鋭敏になっていき、見えないものを懸命に探し、聞こえない声に耳をそばたてるものらしい。ついには幻覚や幻聴、幻嗅が発生する。(*2) どうやら遮断された知覚を再開させようと大騒ぎしてしまう復旧回路が私たちの脳内にはありそうだ。トンネルなり廃屋の光と音を奪われた閉鎖環境と心霊の目撃には、たしかな連環がある。私が古い操車場で感じた怖さというのも、実はそういう類いのものだったらしい。

 霊体や魂の存在を完全に否定できないのが本音だけど、だからと言って不可解な現象すべてを霊体験と決めつける気にはならない。怪談好きの人には申し訳ないが、地縛霊だ、祟りだと断じる声や報告には気持ちが一歩退いてしまう。人生には保留すべき事柄が山のように在り、中には死ぬまで解答を控えねばならない問いも交じる。簡単に話を括ってはいけない。

 石井隆の劇画や映画にも霊性を強調する場面がいくつも挿し込まれており、それを興味深く観ている日々だけど、やはり没入型ではなく、技巧や作為を紐解く斜め目線に終始している。マニアックで作者には困った楽しみ方だろうか。いやいや、そのように距離を置くことで初めて見えて来る地平だって世のなかにはきっと在るはずである。

(*1): 鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』(1980)の釈迦堂切通し、黒澤明『夢』(1990)などが印象深い。
(*2): 「見てしまう人びと 幻覚の脳科学」 オリヴァー・サックス、大田直子 翻訳 早川書房 2014 58-59頁 



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