2016年2月7日日曜日

黄泉路(2)~【その後のあなた】の縦抗、【赤い暴行】の横抗~


 石井隆がかつて【その後のあなた】(1980)で描いた黄泉路は、暗闇にそこだけ光った地階への出入口であった。必死に手をのばす村木の呼び掛けに応じぬまま、傷心の名美はそこを一歩、また一歩と下っていく。『フィギュアなあなた』(2013)の幕開きを飾ったドレPaul Gustave Doré の「神曲」挿画とよく似た趣きの扉と光源をそなえており、開口部の大きさもほぼ同じであった。

 また、【おんなの街 赤い暴行】(1980)は「タナトス四部作」の一篇であり、【赤い眩暈】(1980)同様、陰鬱でありながらどこか安らぎも覚える冥府めぐりの話なのだが、おんなが踏み入った森の最果てには崖が待ち構えており、反対側の急斜面には横穴墓(よこあなぼ)に似た洞窟が設けられていた。おんなはその穴に、自身の骸(むくろ)が横たわる姿を幻視する。上の【その後のあなた】での地階への降下イコール冥府めぐりというのは、(ドレとの連環はさておき)世にあふれた図案であるのだけれど、こちらの崖の中腹に掘られた死場処というのは極めて突飛であり、石井独自の秀抜な景色となっていた。

 【赤い暴行】のおんなは酒で大量の睡眠薬を胃の奥に流し込んでいて、まともな思考ができない状態と設定されているのだけれど、現世への未練が残って、脳裏に浮かぶのは過去の思い出ばかりだ。そんな宙に浮いて整理のつかない心模様と、深い昏睡に陥り、心拍停止を目前にした身体機能の危うさがここでは断崖中の横穴という不自然な形で表現されており、石井世界の舞台背景というのがいかに精神と密接なものであるか、そして、人物の言動といかに同等の立ち位置にあるかを示唆していた。

 それにしても思うのだが、石井の描く心霊描写、特に黄泉路の舞台設定が多岐に渡っている点、つまり、様式がばらばらで一環していない点は着目すべきではなかろうか。そこには石井という作家が死の実相や冥府の景色につき信じ切れていない、いや、信じつつも手探りは止められず、常に揺れ続けていることが透過する。石井という作り手のなかにこそ(私たち受け手以上に)霊的世界への斜め目線があるのであって、作家という仕事上の、加えて私人として、一生を費やすべき保留案件となって「あの世」は立ちはだかっていると感じられる。

 インタビュウにおいて石井は繰り返し幼少時の霊体験を語っているのだけど、それと同時に彼ら幽体の襲来が喘息の発作で臥せっていた最中に起きたことを打ち明ける。病に起因する呼吸困難、高熱の発症、服用した薬の影響もどうやら背後にあるらしいことを自分なりに解析して見せている訳だ。もしも石井が霊媒としての特性をそなえ、発熱や服薬で朦朧とすることもなく、日毎夜毎に彼ら異人たちと対面していたなら、幼少時の枕元を脅かす存在ばかりをインタビュウで開陳することはないであろうし、劇画や映画製作における霊性に関わる描写に自ずと「定型」が編み出されても可笑しくあるまい。あんなにも死に際に執着していながら、実は石井にとっても死は未知の領域なのだ。

 毎日欠かさず亡き妻、恩人に対して一杯の水を供える信心深さと共に、なかなか訪れてくれない奇蹟への渇望が作者の内に同居して押し合いへし合いしており、それが多角的なまなざしとなって作品全般を彩っている。短絡過ぎるかもしれないが、そういうところが少しは有るのではないか。

 石井の劇画製作が“映画”の踏襲を徹底して目指し、主要な酒場や住居に留まらず、ちょっとした移動のための車両や裏通り、草むら、線路ばたの野草といった簡単な道具ひとつおざなりに出来なくなり、これと決めた場処にカメラを持ち込んで膨大な写真撮影を行なって、まずコマの背景から埋め尽くしていた事は既に書いた訳だが、その延長で現世とは異なる黄泉路なり冥府を描く際にも、現実風景の写し絵でこれを構築せざるを得なくなったという技術上の特殊な事情もここには加わっているだろう。ハイパーリアリズムを画風として定着させてしまった結果、絶えず野辺や書物を渉猟し、毎回違った顔立ちの異界を採用しなければならなかったのではあるまいか。油断して使い廻すと紙面はマンネリ化する怖さがあるだけでなく、背景が心理描写と直結して饒舌であるがゆえに、物語が変われば人の心も当然変わり、合わせて現実の舞台も、黄泉路も全て変わらなければならない。

 映画にしても地獄は大概ロケーションが基本となり、森や廃墟、時には閉鎖された病院がこれに当てられて来た。特殊メイクアップで造形された鬼や怪物は跋扈しないし、コンピューターグラフィックで描かれた火を噴く山もない。現実風景の上にどこまでも重層的に築かれていく。

 黄泉路なりあの世の劇空間への突然の闖入が、石井の劇に独特の肌合いを育てたのは違いないのだが、常に「現実」が冥界として採用され、唸り声を上げながら起動していくという繰り返しの果てに訪れる境涯というものは、実は相当に神妙な領域に軸足が移動することになる。薄薄は観客も気付いているし、石井も承知で突き進んでいる気配があるけれど、石井世界において此岸と彼岸の境界はとことん曖昧となる理だし、既にしてこの現実のどこもかしこも地獄なのだ、という拡大解釈さえ産まれ落ちる。

 紙とインクではなく、また、樹海の奥でもなく、今日の東京の街だけで冥府めぐりをすべて撮り切ってしまった近作『フィギュアなあなた』の混沌ぶりというのは、劇画製作の折から今に至る地獄探し、ロケハンのたびに足運ぶ冥府にすっかり染まってしまった石井の生々しい感懐が前面に出たものではなかったか。この世自体が生きた心地のしない、息のできない空間であって、もはや死んだも同然という諦観というのか、それとも逆説的な希望の光とでも言うべきものが具現化した作品と捉えている。




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