2015年8月15日土曜日
“転回点”
『GONIN』(1995)の公開から12年を経た2007年、いまから8年ほども前になるのだが、DVD3枚組の「GONINコンプリートボックス」が発売された。収録された『GONIN REAL EDITION』はリストアが為されて情感と艶色がいや増し、複数のバージョンを持つ『GONIN』の、現時点での決定打となっている。加えて石井隆と撮影の佐々木原保志ほかによるオーディオコメンタリーが収められており、撮影と編集の妙をこまめに開示してみせて実に愉しいものだった。
たとえば目出し帽をかぶって暴力団事務所を襲撃する場面で、五人組のひとりがテーブルの上に飛び乗って走るくだりがある。実物はわずか2メートルかそこらのテーブルであるのに、カットの切り貼りによって体感する広さが倍化している。ばたばたと全力疾走する男の様子に私たちは目を奪われ、不意討ちされた組員とともに目を丸くし身体を硬直させた。また、雨音ざわめく闇夜を本木雅弘演じる青年が銃を懐手に駆け寄ってくる場面においても、足元のアップやミドルショットを幾重にも繋いで、実際は7メートル程に過ぎないアスファルト道路を無限の空間に変えている。本来の時間を二重三重に膨らませて、襲われる側の困惑と襲撃者のもどかしさを演出したのだった。見事な手わざと思う。
上が好例だけど、映画や劇画、さらには小説や詩歌の時空というものは、ときに意図的に捻じ曲げられ、縁日の飴細工のように伸び縮みを繰り返す。先に上げた【雨のエトランゼ】(1979)の永劫たる一瞬、つまり自由落下の途上にある名美と、室内に残された村木とがまなざしを交わし、そこにおのれの存在意義をすべて託すような奇蹟の瞬間は、この観点に立てば十分に起こり得る場面であるのだし、まさにそれこそがフィクションの外連(けれん)であり、物語に身をゆだねる際の醍醐味とも言えるだろう。
先に書いた個人的な体験(スカイダイビングでのフリーフォール)と石井の創造空間を単純に比較するのは、だから、野暮天以外の何ものでもない。その点はむろん承知だし、何より【雨のエトランゼ】の輝きはそうたやすく失われるものではない。作者の介添えがあって、あの雨の夜に時間は歩みを止め、名美と村木は刹那見つめ合って魂の交感を果たしている。
ただ、現実に自由落下を体感した身にとって、従来の劇空間がほんの微かに変容を来たして見える点はこれもまた嘘のない事実であって、単純にフィクションだから、劇画だからと割り切ることが出来ないでいる。
遊びの一環でいんちきの身投げをした私ですらこの始末なのだから、実際に事故や災害で墜落なり転落を味わった人であればなおさらであろう。投身に限ったことではない。自死という節目の付け方を誰かが選択するのを面前とし、これに共振をもって応えることは年齢を経れば経るだけ難しくなる。家族や知人を看取る経験がひとつ、またひとつと増すに従い、どうしても死の概念は弾力をうしなって人は甘い夢を寄せなくなるものだ。
紙面やデジタルデータに貼り付けられたままで身動きできないフィクションに対し、私たちの方が角度や位置を変えながら見ていくものだから、当然、物語から発せられる反射光もまた強弱なり色調を変えていかざるを得ない。年月は人を変え、人が変われば世界の面持ちも変幻する。それは仕方のないことだし、また、一方では面白いことと思う。
蜜月の終了や様相をまるで違えて見える再会は、何も私たち読み手と作品との間にだけ生じるのではなくって、生身である作者と作品との間にも頻繁に起こっていく。ひとりの作り手がほぼ同じ手法と題材で何ごとか連作した場合、最初の頃と画風の転換するのは、思えば当然の話だ。石井隆の作歴を辿るとき、ある時期から作調にあきらかな変奏が見止められるのは、恐らくはそんな理由による。
そこには、自死に対する頑なな抑制が視とめられる。石井当人の内部で死の概念が弾力をうしない、甘い夢を付帯させることが難しくなっている。『ヌードの夜』(1993)、『夜がまた来る』(1994)、『フリーズ・ミー』(2000)で描かれた死は救済の色調を湛えていたのだったが、石井はこれを封印して、代わって狂気への渇望と最終逃避の道程を描き始める。『花と蛇』(2004)、『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)、『フィギュアなあなた』(2013)、『甘い鞭』(2013)といった作品に佇立する狂気は、かつてはドラマチックな死が居座ったポジションであった。
この折り返しに一切触れぬままで石井世界の深察に入れば、やがて大きな誤読をもたらす可能性が高いように思われるし、それは来月いよいよ公開される『GONINサーガ』(2015)を読み解く上でも絶対に避けられない重要点ではなかろうか。
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