2015年8月14日金曜日
“墜落”
スカイダイビングの入門体験に臨んだ私は、方向の異なる複数の目的を抱えていた。
身近にのっぴきならない事態が起きており、死という非常出口に向って傾斜が深くなっていた。直ちに実行に移す元気はなかったが、予行練習とまではいかないものの一体全体それは如何なるものか、シルエットや気配なりを味わってみたかった。
夏の空にわたしをいざなったジャンパーの、その物腰や口調に、独特の硬さと金属を連想させるひりつく冷気があったのは、彼が直感的、いや、むしろ本能的に、このおかしな中年野郎の奥底に暗い波長がへばりついているのを察知したからだ。身勝手な好奇心に取り憑かれて空港にふらり立ち寄る不埒な連中を、おそらく過去に数多く見知っていて、きっと同じ臭いがすると警戒したに違いない。空中で暴れ出したらどうなるだろう、道連れにされては敵わないと彼の方こそがひどい緊張を強いられたはずであって、今にして思えばたいへん不調法なことをしたと反省している。
これと同時に、思い切った身投げ、とんでもない高度からのそれを通じて、気持ちの隅々までを整理し尽くしたい、するりと脱皮して成長を遂げたいという祈りに近いものが育っていた。南太平洋バヌアツの通過儀礼ではないけれど、死と再生のすじ道を自分なりに探し当て、ようやっと辿り着いたところがあった。実際この跳躍を経ることで、少なくとも投身の誘惑をきれいに断ち切ったのは本当のことだし、ずいぶんと若返った心持ちがする。
ひとの営みの大方のものは、第三者の目にはひとつの動作としか映らない。食べることであれ、寝ることであれ、はたまた愛し合う行為であれ、それぞれが単一の動作と思われてしまう。寝食を忘れて一心不乱に取り組まない限り、実際はそんなことは決してないのであって、動作の背後にはいくつもの目的や狙いが混在していて、複雑な思索が延々と重ねられる。感覚としてはマリオネット人形の仕組みであって、色彩や材質の違うたくさんの想いの糸で私たちは巧みに操られ、それでようやく何かを成し得ている。
ダイビングのさらなる目的は、石井隆の描く“投身する人物”の状況と心情につき、自分なりに肉薄したいという願いがあったのだった。笑われそうだが本当のことだ。
石井が劇画や挿絵を世間に発表し始め、やがて独自のスタイルを究めて支持を得た頃、そして、その人気に乗じて映画会社が石井に脚本執筆を依頼して、それが陸続と撮られていった頃、劇に登場する人間の多くが自死することにのめり込み、愛憎綯(な)い交ぜの混沌とした物語空間のなかで消えている。
劇画作品では1979年から1980年にかけて発表されたいわゆるタナトス四部作、【真夜中へのドア】、【赤い眩暈】、【赤い暴行】、【赤い蜉蝣(かげろう)】の頃に石井の描写には拍車がかかり、さまざまな死の様相が提示された。ひときわ読者の心を揺さぶり、作者自身をも虜にしたのはビルの屋上や岸壁から投身する者とこれを看取る者とを同一の時空に置いた場面設計であった。劇画【おんなの街 雨のエトランゼ】(1979)で完成されたそれは、石井の自家薬籠中の物として劇画と映画を通じて幾度も再生を繰り返す。
脚本作品では『沙耶のいる透視図』(1986 監督和泉聖治)、『魔性の香り』(1985 監督池田敏春)がそれに当たり、監督作品では『ヌードの夜』(1993)、『フリーズ・ミー』(2000)が該当する。石井のインタビュウをつぶさに読むことで、『死んでもいい』(1992)と『夜がまた来る』(1994)の描かれなかった結末も、この血筋にあったと捉えて構わない。
私たちは反復するこの投身の儀式の陰に、作者が抱懐する強い美意識を嗅ぎ取ってきた。『ヌードの夜』、『フリーズ・ミー』、それに『死んでもいい』と『夜がまた来る』はいずれも後追いであって、これはこれで鮮烈であるのだけれど、【雨のエトランゼ】とその直系にあたる『沙耶のいる透視図』、『魔性の香り』に宿されたメッセージの深甚さは予想を超えて胸に響いた。
生死の境界を踏み越えてしまった刹那の、ほんとうの最期の一瞬、自身の姿とまなざしを愛する者の網膜に焼き付け、せめてその胸中に忘れえぬ記憶となって生き続けようと懇願する男なりおんなの切々たる心情に私たちは声を失い、長い吐息を漏らしたのだった。特に【雨のエトランゼ】で窓の外を背中側から落下していく名美の、手前にいる村木を見やる瞳の哀しさ、温かさは脳裏に日光写真の残像のように居ついて消えてくれなかった。気が滅入ったときや何か大きな失敗をやらかして死の幻想を抱いたときには、決まってわたしの目の前にちらつくのだった。
スカイダイビングで自由落下する行為は、我が身を彼女の時間に重ね、今際の際の感覚を体感する絶好のチャンスであったのだし、その事を経てより一層、隙間なく石井世界に寄り添えるものと期待した。
さて、実際のところはどうだったかと言えば、雲ひとつない蒼空に突き落とされる行為と、古くて小さな雑居ビルの屋上から墜ちていく事では最初からまったく状況は違うのであって比較のしようがなかった。それは最初から分かりきった話なのだけど、猛速度で雲のベールを何枚も突き抜けながら、このような目まぐるしい状況でわずか畳一枚ほどの狭い窓枠の中を覗き見して、室内の奥まった位置に立った男の動作を視認して永別のまなざしを贈り合うことなど、実際上は不可能という印象を持ったのだった。
石井隆はきわめてロマンティークな筋立てをリアルで重厚な絵柄で描き、強引に推し進めるところがあるが、この投身する名美と村木とが一瞬の邂逅を成し遂げる場面は、劇画や映画でしか創り得ない奇蹟のようなもの、と位置付けてよいだろう。
実際に世にあふれる墜落、墜死とは、思考を差し挟む余地のない空虚で慌しい時間と思われた。そういえば以前、はしごから落ちて腰をしたたか打ったことがあったけれど、フリーフォールとあれとで実感はそんなに違わない。【雨のエトランゼ】の哀しい名美が仮に実在したならば、脚立から落ちるようにしてあっという間に地面に激突し、唇をすぼめた驚いた顔、きょとんとした目をしてきっと逝ったに違いない。
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